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苦手な方はご注意ください。

月光蝶の檻

作者: 五月病

プロローグ 沈む月の街


夜が落ちる――という表現が、この街にはよく似合う。

月の見えない空。地表には人工照明の蒼い輝きだけがゆらめいている。街の名は〈ノクス〉。閉鎖型自律都市、正式名称《第七環状居住帯ノクス群》。外部との交信は断たれ、ここに生きる者たちは皆、己の運命がこの檻の中で決まることを当然のように受け入れていた。


ルナは、高層居住棟の屋上に腰を下ろしていた。靴の裏に鉄骨の冷たさが染みる。ビルの谷間を風が抜け、まるで囁くように耳元をなぞっていく。

目の前には薄暗い街並みと、いくつものホログラム広告が瞬きながら沈んでいく空が広がっている。だがそのどれもが、どこか虚ろで、現実味に欠けていた。


「また見てるんだ、そこ」


声がした。振り返ると、同じ居住区の少女――シェルカがいた。赤紫色のレンズを入れた義眼が、わずかに光を反射している。


「うん。・・・ここに立つと空が違って見えるから」


「空?そんなもんスクリーンに投影されてるだけじゃない」


「わかってる。でも・・・ほんの一瞬、本物だった気がする」


シェルカは眉をひそめて近づいてくると、隣にしゃがみこんだ。

彼女の肩からは、透けるような羽が生えていた。蝶の羽のような模様を浮かべて、しかし不規則にひくついている。


それが、〈蝶憑き〉の証だった。

ノクスの住民の多くは、この羽を持つ。人類の遺伝子と融合した人工種――適合者のみが〈蝶憑き〉となる。そして、適合度に応じて生活圏や教育、待遇が振り分けられる。羽の模様、光の強さ、変異性。すべてがこの街での「価値」を決める。


だが――ルナには、羽がなかった。


それが理由で、周囲から疎まれ、距離を置かれ、それでもシェルカだけは時折声をかけてくれていた。

もっとも、最近は彼女の羽も少しおかしい。ちらつく光、断続的な震え、そして――ある日から急に目を逸らすようになった。


「ねぇ、ルナ」

「・・・なに?」


「昨日、また《観測者》に呼ばれたの、記録の照合で・・・変異があるって」

「変異?」


シェルカはそれ以上言わなかった。いや、言えなかったのだろう。

沈黙の中で、ルナはふと気づく。

遠く、都市の中心にある巨大な塔――《記録院》の頂に、何かが浮かんでいた。蝶のような、しかし光の粒子のような、流れる記憶のような……。


それを見つめたとき、不意に耳鳴りがした。


「・・・ルナ?」

「今・・・誰かの声が聞こえた気がする」


シェルカは怪訝な顔で見返す。

だが、ルナの中では確かに何かが揺らいでいた。

街の記録にない“何か”――閉じられたこの檻の中に潜む、真実のかけらが。


そして、それを観測していた者がいた。


高層ビルの影、誰も気づかぬ空間で、一人の少年が仮面の奥から彼女たちを見つめていた。

黒いマント、無機質な義肢、そして左眼には、記録データの流れを視認するための虹色のレンズ。


名をイオという。

この街に記録されない者。観測者――あるいは、世界の終端を知る者。


彼の唇が、かすかに動く。


「月光蝶はまだ目覚めない。だが――“檻”の中で、歪みは始まっている」


ビルの谷間に、幻のような羽が舞った。

それは色を持たず、触れることもできず、ただ世界の“穴”のようにぽっかりと空を裂いていた。


 


――そして、物語は静かに始まる。



第一章 影の羽音



ノクスの朝は静かだ。

夜と朝の区別が希薄なこの都市では、住民たちは時計の示す“時制”だけを頼りに日常を繰り返している。天井から注がれる白光の照明は、夜間の青とは違う仄かに暖かい色をしていたが、それでもどこか人工的な冷たさを帯びていた。


ルナは、学校の通路をひとりで歩いていた。


通路の壁面には、「適合者選抜に向けた訓練の徹底」や「蝶憑きの責務」といったホログラム標語が、ぬるりと波のように流れている。

周囲の生徒たち――蝶憑きの子供たちは、誰もルナに話しかけようとはしない。それは暗黙の了解だった。


羽がない者は、“異質”と見なされる。

この街では、適合者であることがすべての価値を決める。学業、待遇、居住区域、配給レベル。何をどう頑張っても、羽のない者には壁がある。


「・・・はあ」


足音が反響する中、ルナは溜息をついた。

そうすることにも慣れてしまった自分が、少しだけ哀しかった。



**



「ルナ、今日放課後また来ない?」


教室で一人ノートを片づけていたとき、不意に聞き慣れた声がかけられた。


「・・・また?」


「うん。最近塔の上層で“光の乱れ”が頻発してて。観測塔の周囲に記録にない蝶の羽音が混ざってるらしいの」


ルナは少し眉をひそめた。


「それって・・・また“外の蝶”?」


“外の蝶”とは、都市に登録されていない蝶憑き――あるいは、蝶の構造を持つ異常存在の通称だった。


「まだ断定されてないけど・・・でも、気になるよね?あたし、この前見ちゃったの・・・仮面をつけた観測者が空の裂け目を覗いてたの」


その言葉に、ルナの中で何かが揺れた。

――それは、あの夜。彼女が幻の羽を見たときの記憶と、確かに重なっていた。


「行く、あたしも確かめたい」


シェルカは、どこか嬉しそうに微笑んだ。

その笑顔には、しかし言い知れぬ緊張と哀しみのようなものが、うっすらとにじんでいた。



**



その日の放課後、ルナとシェルカは《記録院》の監視区画の裏手――一般立入禁止区域の端にいた。


「この先に観測者の補助データが流れる中間端末があるの。見つかるとまずいけど・・・こっそりならアクセスできるはず」


シェルカはそう言って、施設の亀裂のような隙間に体を滑り込ませる。


「・・・慣れてるね」


「うん。何度か来たから」


その言葉に、ルナは一瞬違和感を覚えた。

だが、今はそれを問いただすことはしなかった。


二人は薄暗い配管路を抜け、やがて人工蛍光の点滅する狭い部屋にたどり着いた。そこには、旧型の観測端末が、まるで朽ちかけた人工の神経のように絡み合っていた。


「この中に都市に登録されていない蝶憑きの情報があるはず・・・」


シェルカが端末に手をかざすと、その義眼が虹色に光を帯びる。

彼女の目には、記録化された蝶の情報群が流れていた――はずだった。


「・・・!?待って、これ・・・おかしい・・・表示されてるの全部“欠損”って」


「欠損?」


「記録の大半が“存在は観測されたが、記録されなかった”ってなってるの。そんなの、ありえない・・・!」


言葉と同時に端末から異音が響いた。

鋭い電子音。そして、警告を示す赤いリングが、二人の頭上を包み込む。


「ダメ!遮断される!」


「逃げ――」


その瞬間、部屋の端に――蝶の羽が現れた。


透けるような黒い羽。

空間そのものが歪むような気配。

そして、その羽を背にした、仮面の少年――イオが、そこに立っていた。


「・・・警告:未登録者が記録端末へアクセス。記録の歪みを確認。対象、要観測」


その声は、人間のものにしては無機質すぎた。

だが、ルナにはどこか懐かしくも感じられた。


「・・・あなた、誰?」


イオは一歩だけ近づき、仮面の奥から言葉を落とした。


「君は、“観測されない蝶”だ、記録の檻の外で生まれ、羽を持たぬことで、真実を見ようとしている。

君に選択を――」


そこまで言いかけた瞬間、室内に閃光が走った。


警備ドローンの突入。警報の渦。

イオの姿が、光とともに霧散していく。

シェルカが叫び、ルナの腕を引く。


「ルナ!走って!」


二人は狭い路地を駆け抜ける。

頭上では、都市中枢が異常を検知したことを知らせる声が、冷たく響いていた。


「観測されない蝶」

「記録の歪み」

「未適合者の覚醒兆候」


それらの言葉が、ルナの胸に焼き付く。

自分は何者なのか。

なぜ、羽を持たなかったのか。

そしてなぜ、あの仮面の少年に「選択を」と言われたのか。


答えはまだ遠い。

だが確かに、檻の中で何かが蠢き始めていた。


そしてそれは、ルナだけでなく、すべての蝶憑きたちに影響を及ぼし始めるのだった。



第二章 仮面と記録室



翌朝、ルナは妙な夢から目覚めた。


――闇の中、蝶の羽音が響いていた。

ひとつ、またひとつと、記録にない羽根が宙を舞い、仮面をつけた誰かがそれを見つめている。


「君は、まだ檻の中にいるんだよ」

そんな言葉が、繰り返されていた。


ルナは額に汗をにじませながら、ゆっくりと起き上がった。天井のライトが人工的な朝を知らせている。

窓の外に見えるはずの「空」は、今日も映像処理された淡い青を保っていた。


(・・・夢、だよね)


自分に言い聞かせるように、ルナは制服に袖を通し、学校へと向かった。



**



午前の授業が終わった頃、シェルカがそっと彼女に近づいてきた。


「昨日のこと、誰にも言ってないよね?」


「言うわけないよ・・・でも、昨日見たもの全部が現実とは思えなくて」


「・・・私も。あの仮面の少年のイオだっけ?なんで記録されてないのに、あんなに明確に存在してたのか」


シェルカの言葉に、ルナはゆっくりと頷く。

確かに彼は“観測されていない”存在だった。だが、存在していた。それは、間違いようのない事実だった。


「ねえ、今日の放課後……《記録室》、行ってみない?」


「記録室って・・・あの、都市全体の記憶が保管されてる場所?」


「うん。でもあそこ、一般は立ち入り禁止でしょ」


「知ってる。でも、今なら・・・あの端末に残ってた、短縮アクセスコードが使えるかもしれない」


シェルカが指先で端末を操作すると、わずかに光る仮鍵のようなインターフェースが表示された。蝶の羽を模したそれは、昨日の観測端末から転送された断片だという。


「この記号列・・・“K-04-AI”って書いてある。きっと何かの識別キーだと思う」


ルナはそれを見つめながら、胸の奥に小さな焦燥を覚えていた。

イオが言った「選択を」という言葉。それが今、少しずつ現実を動かし始めている気がした。



**



放課後、二人は街の中枢――《記録院》へ向かった。

表向きは静かな研究施設だが、実際には都市ノクスの“記録と秩序”を管理する中枢機関だ。地下区画には、過去百年に渡る記録が保存されていると噂されている。


「裏口の警備は今、蝶憑きの訓練評価で緩んでる。今しかないよ」


シェルカが先に進み、ルナがその後に続く。

金属の通路を抜け、細いエレベーターシャフトを降りると、そこには高密度な光子記録装置が並ぶ、巨大な円形ホールがあった。


「ここが・・・記録室」


その中央にあったのは、仮面を模した意匠を持つ主制御端末。

どこか、イオの仮面にも似た曲線をしていた。


「K-04-AI・・・」


シェルカが仮鍵を接続すると、わずかに装置が反応した。

ホール内に静かな振動が走り、天井から映像が降り注ぐ。


「これ・・・都市ノクスの“生成記録”? 建設前の映像・・・?」


だが、次の瞬間――


画面が歪んだ。


空に浮かぶ蝶の群れ。仮面をつけた子供たち。

その中に、羽を持たない少女の姿。

――ルナだった。


「・・・これ、どういう・・・私が映ってる?」


「記録されていないはずの人間が、過去の記録に映ってる。そんなの、理屈に合わないよ……!」


そのとき。

制御端末の仮面が、ゆっくりと動いた。


「アクセス・コード確認。“K-04-AI”──識別:ルナ・アーシェ」


「・・・え?」


「蝶憑き適合者、観測外特例登録。記録外存在として、優先記録領域への移送対象と判定」


天井から伸びた機械アームが、ルナに向かって伸びる。

目に見えないデータの糸が、彼女を“再記録”しようと襲いかかる。


「ダメ!!」


シェルカが飛び込んで、その腕をはじいた。

制御装置が警告音を鳴らし、システムが過熱を始める。


「ルナ、逃げて!! このままじゃ“記録”される!」


「でもシェルカが――!」


「いいから!! 早く!」


ルナは、その声に背中を押され、ホールから飛び出した。


その背後で、記録室の仮面が最後に一言つぶやく。


「・・・観測されぬ蝶は、やがて檻を壊す」



**



施設を抜け出したルナは、外の空気に思いきり息を吸い込んだ。


――都市ノクスの“空”は、今日も人工だった。

でもその下で、確かに彼女の鼓動は現実を打っていた。


「私は・・・」


かすかに手が震えている。

だが、その瞳には迷いよりも、確かな決意が宿っていた。


「私は・・・絶対に、知ってみせる」


なぜ、記録されなかったのか。

なぜ、羽を持たなかったのか。

なぜ、イオは“選択を”と告げたのか。


夜の帳が都市を包み始める。

その闇の中、ルナの耳にまた、あの羽音が聞こえた気がした――



第三章 月の蝶、檻の記憶



都市ノクスの夜は、変わらない静寂に包まれていた。


人工光が天蓋を染め、全てが管理された美しい都市。だがその下で、ルナは息を殺しながら逃げていた。


「・・・こっちには来てない、はず」


通報を避けるため、彼女は制服を脱ぎ捨て、薄手のフード付きコートを身にまとっていた。顔も識別を避けるためにデータノイズ入りのスカーフで隠している。


逃走から一夜明け、彼女の情報はすでに「観測外特例警戒対象」として登録されていた。公式には存在が「消去」されつつある。

存在しない者として追われる。それがどれだけ静かで、どれだけ恐ろしいことか、ルナは身に沁みていた。


(シェルカ・・・無事だといいけど)


記録室での一件以来、彼女と連絡は取れていない。シェルカが身代わりになるようにしてルナを逃したことが、頭の中で何度も再生される。


「大丈夫・・・あの子なら、きっと無事でいてくれる」


自分に言い聞かせるように、ルナは今は廃墟となった旧市街――〈ナンバーゼロ区〉へと向かった。かつてノクスの実験都市だったこの地は、今では出入りも記録も制限されている。

だが、イオが初めて現れたのもこの区だった。


(もう一度、彼に会わなきゃ・・・)


ルナはかすかな直感に導かれるように、崩れた建物の中へ足を踏み入れた。

かつて学校だったらしきその施設は、今では誰も寄りつかない影の吹き溜まりだ。


「・・・来ると思ったよ」


その声に、ルナはハッと振り返った。

いた。そこには、あの仮面の少年――イオが、ゆっくりと立っていた。


「・・・あなた、何者なの?」


ルナの問いに、イオは一拍置いてから答えた。


「僕は存在を記録されなかった人間。君と同じ“観測外”。けど・・・本当はそれだけじゃない」


イオは手を伸ばし、旧校舎の奥へとルナを導く。


「都市ノクスは、蝶憑きという能力によって管理されている。そして蝶憑きは、記録可能な人間の枠内に“適応”した者だけが選ばれる」


「じゃあ、私たちは・・・」


「適応できなかった側だよ。もっと言えば、“記録そのものが壊れ始めた時代の副産物”」


イオが壁の隙間から取り出したのは、かつてのデータ端末。起動すると、古い映像が浮かび上がった。


そこには、建設中のノクスと、中央に位置する記録制御塔の試作実験の映像。

だが、端末は警告音とともに異常検知を告げた。


「記録異常。観測対象と記録映像の不一致・・・?」


ルナが目を細めると、そこに映っていたのは明らかに――現在と“違う”ノクスだった。

蝶憑きがいない、自由な街。仮面をかぶった少年少女が談笑し、天蓋もなかった。


「これは・・・なに?」


「これが“もともとのノクス”だよ。蝶憑きも記録制御もない、本当の自由都市」


イオは仮面を外さないまま、ルナの目をまっすぐに見た。


「でもそれは実験として“失敗”した。混乱が起き、秩序が求められた。だから記録と観測で“矯正”された都市が建てられた。・・・今のノクスがそれだよ」


「じゃあ私たちは・・・最初からいなかったことにされたの?」


「“いなかったことにしたほうが秩序の記録に都合がいい”と判断された。だから僕たちは記録されなかった。観測されず、存在できなかった」


ルナは立ち尽くしたまま、言葉を失っていた。

それは、都市そのものが人間を選別していたということだ。蝶憑きは力ではなく“記録への適合度”で与えられる。


「・・・んなの、ただの管理された命じゃない」


「うん、でも君は違う。君は“記録の外”にあっても、まだ選べる」


イオがそっと手を伸ばす。


「ここから逃げるか、それとも・・・都市を壊すか。どちらでもない“第三の選択”を、君なら見つけられる気がする」


その瞬間、上空で警告音が鳴った。

警備ドローンが近づいている。


「逃げて!ルナ。君を助けられるのは、今は君自身だけだ」


「イオ、あなたは?」


「僕はもう“ここにいない”存在だ。けど・・・また、会えるよ」


視界がノイズに包まれ、彼の姿が霧のように消えた。



**



ルナは、かつての“自由なノクス”の記録データを抱えて、その場をあとにした。

耳にはまだ、蝶の羽音が微かに響いていた。


ルナはデータ端末を手に、かつての自由な都市〈ノクス〉の記録映像を繰り返し再生していた。


そこに映っていたのは、今のノクスとは明らかに異なる街。蝶憑きも監視網も存在せず、人々は顔を見せ合い、笑っていた。

それは希望に満ちた理想郷にも見えたが、同時に「制御されていない危うさ」も孕んでいた。


(だから消されたの・・・?)


彼女はふと、映像の中に見覚えのあるシルエットを見つける。

それは幼い自分だった。まだ“記録”がなされる前――名前すら割り当てられていない、ただの子供。


(・・・私、最初からいたんだ)


つまり、自分は「記録の外」からやってきたのではなく、「記録の中から排除された」存在だった。

何らかの理由で適合から外され、なかったことにされたのだ。


イオが言っていた“最初の実験都市”。そこには数百人の子供たちが暮らしていたが、記録の「更新」により、彼らの存在は歴史から削除された。


「・・・それが、“蝶憑き”の裏側」


蝶憑きとは、能力ではなかった。

《観測に適合する記録構造》を与えられた存在――つまり、データ的に扱いやすく、秩序に従うよう編集された人間の証だった。


自我が均され、差異が抑制され、感情が管理される。

それは人としての個性ではなく、“都市にとって都合のいい人格”を意味していた。


(私が、あのとき怒りや悲しみを失ったのも・・・)


蝶が感情を“静かにする”のではなく、都市が“感情の記録を薄めていた”のだ。

それに抗う力を持った者、つまり“蝶に適合しない者”だけが、都市にとっての異物だった。


その夜、ルナは潜伏先の廃ビルで一つの選択を迫られていた。


「このデータを・・・公にする」


それは、自身を含めた“都市の不都合”を暴露することを意味する。

だが、イオの言葉が彼女の中に残っていた。


> 「君は“第三の選択”を見つけられる」




翌日、都市中枢にある記録制御塔への接続ポイント――通称〈蝶の冠〉へ向かう決意をした。

その場所は都市最深部。通常は蝶憑きの上位管理者しか立ち入れないが、ルナは観測外ゆえに、逆に制限をすり抜けることができた。


**


〈蝶の冠〉は、静かに眠る白の空間だった。

そこには無数の蝶が浮遊し、音もなくルナのまわりを旋回していた。


「・・・この中枢に、記録すべてがあるのね」


彼女は端末を起動し、例の映像データを同期させる。

すると空間全体が震え、記録制御を担う《観測核》が異常反応を示した。


警報が鳴るよりも早く、蝶たちが激しく飛び交い、彼女のまわりの空気が反転する。


「記録外の情報体接続を確認・・・適合試行開始」


淡々とした自動音声が響く中、彼女の意識は記録の“海”へと引き込まれた。



**



そこは、数えきれない記憶の集積地だった。

無数の目線。無数の人生。どれもが薄く、均質で、制御されている。


(これは・・・都市に記録された、人間たちの“編集後”の感情)


だがその中で、一際強く脈動する未編集の記録があった。


それは、イオのものだった。



**



「・・・来たんだね」


再び現れたイオは、仮面のまま手を伸ばしてきた。


「都市は君を記録しようとしている。でも君はもう、それを拒絶できる」


「私に何が出来るの?」


「“蝶憑き制度そのものを消去する”ことも、“その記録構造に自分を上書きする”ことも、君次第だ」


それは、記録核への直接干渉――都市そのものへの“書き換え”を意味していた。


「もし・・・私が自分を犠牲にして蝶憑き制度を壊したら?」


「都市は一時的に混乱する。でも、君の名前が“記録”として初めて残る」


ルナは答えを出さず、静かに目を閉じた。


そして、手にしていた端末を、観測核へ投げ込んだ。


記録が反転する。

蝶が崩れ落ち、観測構造がノイズを撒き散らす。


ルナの身体は淡く光り、やがて誰の目にも映らなくなっていった。



**



気づけば、都市ノクスは静かに変わっていた。


蝶憑きたちは姿を消し、人々の表情は少しずつ多様さを取り戻し始めていた。

都市に残された記録から、“ルナ”という名は発見されなかった。


けれど誰かが、ふとした瞬間に思い出す。


「そういえば・・・昔、この都市には蝶じゃなくて、“名前”をもらえなかった女の子がいたって」


それが誰だったかは、もう誰にも分からない。


だが都市の片隅では、いつも静かな羽音だけが、どこかに残っている。



第四章 沈黙の蝶たち



街は死んでいた。


ノクスの空には、月光蝶の姿がなかった。

黒く濁った空気の中を、ただ灰色の雪のような塵が舞っている。

中枢塔から拡散された何かが、この都市を静かに塗り替えつつある。


ルナはイオの体を抱き締めたまま、血に染まった冷たい床に座り込んでいた。


「・・・どうして、こんなことに・・・」


震える声が、空虚な音を立てて床に落ちた。


イオはもう、微かに息をしているだけだった。

その胸元には、先ほどまで赤く燃えていた「蝶の刻印」が、完全に消えている。

それはつまり、蝶憑きとしての彼が死んだということだ。


だが彼は、人間でもあった。

蝶を喪ってなお、かろうじて命は残っていた。


「・・・ルナ」


微かな声が、鼓膜を震わせた。


「なぜ・・・泣くの?」


ルナは顔を上げた。

視線が重なり、イオの目が彼女を映した。


「君が、生きるんだよ」


その言葉は、奇跡のように穏やかだった。

ルナは首を振った。


「私はあなたのためにここまで来たのに・・・イオ、私は、私は・・・あなたがいなくなったら・・・」


言葉が詰まり、息ができなくなる。

指が震え、彼の体を支えきれなくなりそうだった。


「君は、僕なんかよりずっと・・・」


「そんなこと言わないで!!」


叫びは天井に吸い込まれた。

だが、どこかで崩れるような音が響き、それが何かを告げる警鐘のように鳴った。


中枢塔のシステムが崩壊し始めている。

蝶憑きという制度の根幹が、今まさに潰れようとしているのだ。


「・・・ルナ、お願いがある」


イオが静かに言った。


「“箱”を破壊して、完全に・・・誰も蝶にはなれないように」


「でも、それをしたらあなたの命も・・・」


ルナは目を見開いた。

だが、イオは小さく笑った。


「もう、僕は終わってる・・・君の手で終わらせてほしいんだ」


ルナは、喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。

彼をこの手で殺す——それが、彼の願いだと知っていても。


その瞬間、塔の中枢部に繋がる“核”が露出した。


青白く光る蝶型のオブジェ。

それはまるで、蝶の魂の集合体のように脈動していた。


「ルナ、君にならできる」


イオの声は、確かな意志を含んでいた。


ルナは目を閉じ、彼の額にそっと唇を寄せた。


「・・・わかったわ。あなたの願いをちゃんと叶えるわ」


そして立ち上がった。

蝶の“核”に向けて、ルナは一歩、また一歩と足を踏み出した。


廃墟と化した塔の中で、ただひとつだけ輝いているそれは、まるで彼女を導く光のようだった。

だが、それは人を喰らう終わりの光でもあった。


彼女の背後には、すでに声を発することもできないイオの身体が横たわっている。

その胸の鼓動は、いまや微かで、もう時を刻んではいなかった。


「——この街は蝶の幻想に囚われていた」


ルナは呟いた。


「あなたが、それを壊すために生まれたなら。私は、あなたの名を灯し続けるために・・・この手で終わらせる」


蝶の核に手を伸ばす。


指先が触れた瞬間、何百もの蝶の記憶が脳に流れ込んできた。

叫び、祈り、怒り、絶望。

蝶たちは、かつて人間だった。

都市ノクスのシステムに組み込まれた「命の余剰」だった。


イオもまた、その一人だった。


ルナは叫んだ。


「ここでもう全て終わりにする!!」


その声とともに、蝶の核は音もなく砕けた。

青白い光が爆発し、あらゆる方向に散った。

都市全体が、光に包まれた。


ノクスの空に、蝶が浮かぶことは二度となかった。



---



数日後——。


ノクスの中枢塔跡地に、ひとりの少女が立っていた。


白いフードのコートを羽織り、目元に深い影を落とした彼女は、瓦礫の山を見つめていた。


ルナだった。


彼女の目は、もはや感情を映していない。


蝶の記憶と、自らの選択と、イオの死。

それらすべてを受け止めた少女は、もはやひとりの人間というよりも——“証人”だった。


「蝶がいない世界って、こんなに静かなんだ・・・」


風が吹き、白い花びらのような灰が舞った。

どこかで、機械の停止音が響いた。


街は、ただの無機質な建造物に戻っていた。

幻想は砕かれ、システムは止まり、人々は戸惑いながらも、生きることを思い出していた。


——蝶に頼らず、死と向き合うということを。


ルナは空を見上げた。


空には、蝶も月もいなかった。

けれど、そこには確かに“何もない”という真実があった。


「イオ・・・これで・・・よかったんだよね?」


答えは、どこからも返ってこなかった。


けれど、彼の面影は風のなかにあった。

記憶の奥に残る声とぬくもりだけが、ルナを今も支えていた。


彼の名を、誰も知らない。

彼の存在を、誰も覚えていない。


それでも——彼を知っていた者が、ここにいる。


それだけでいい。

それだけで世界に小さな意味がある。


少女はそっと目を閉じた。


そして、ひとり、瓦礫の中に歩き出した。



**



エピローグ 月光蝶の檻



都市ノクスは蝶という名の夢を失った。

人々は戸惑い、恐れながらも、生きることを始めた。


死を管理する蝶はもういない。

けれど、人は死を恐れたからこそ、生を求めた。

そして、生きようとする心がある限り——


蝶はもう、必要なかった。


ルナは遠くの街で静かに暮らしているという。

彼女は名前を持たない誰かを時折想っている。


その名は風に消えた・・・

けれど、その想いは、消えてなどいない。



——これは、ひとつの都市の終わりと

ひとりの少女の記憶に刻まれた、名前のない希望の物語。




登場人物紹介



ルナ


年齢: 17歳前後

身長: 小柄(約155cm)

髪型・髪色: セミロングの銀灰色の髪。前髪は長めで目元にかかっている。

瞳の色: 淡い藍色。光の角度によって紫がかって見える。

服装: 廃墟都市の空気に馴染むようなフード付きの白いロングコート。足元はスリムな黒のブーツ。機能性を重視した控えめなデザイン。

印象・雰囲気: 静かで芯の強さを感じさせる少女。表情は乏しいが、時折見せる繊細な微笑みが印象的。口数は少なく、物語の中でも常に「記憶」と「選択」に揺れている。

特徴: 通常人には見えない蝶の“気配”を感じ取る特殊な感応体質(これは彼女の出生に秘密があることを示唆する)。

その他: 感情を爆発させることはないが、イオに対してだけは徐々に素直な部分を見せていく。



イオ


年齢: 18〜20歳ほど(人間としての年齢)

身長: 175cm程度。細身だがしなやかな筋肉がある。

髪型・髪色: 黒髪のショートヘア。動くたびに前髪が目にかかる。

瞳の色: 深い琥珀色。光の中で金色に近く見えることも。

服装: 黒のミリタリー風ジャケットに、灰色のパンツ。重ね着のような独特のレイヤーが特徴的で、蝶としての機能も含まれている。

印象・雰囲気: 無機質な雰囲気を纏うが、時折見せる優しさや、人間だったころの感情の名残がルナの心を揺さぶる。

特徴: 元は“蝶”としてルナを監視・誘導する役割を担っていたが、徐々に人間としての記憶や意志に目覚めていく。

その他: 蝶としての彼は、すでに人間としての名を持たない。「イオ」という名は、ルナがつけた仮初めの名である。

髪色: 無機質な白銀。まるで“蛍光に照らされた月光”のような冷たい輝き。

年齢: 外見20代半ば(実年齢は不明/人間を超えた存在としての再構築体)

身長: 約167cm



シェルカ


体型: しなやかでバランスの取れたモデル体型。無駄な贅肉が一切ない。

髪型: 肩より少し長めのストレート。毛先だけが軽く外に跳ね、戦場での動きを意識したデザイン。

瞳の色: 虹彩がほとんど無いように見えるほど淡く、ガラス細工のような無色透明に近い灰青色。

服装: 黒と青を基調にした対蝶戦用の戦闘スーツ。全身を覆うが布ではなく、生体と機械の中間のような素材で構成されている。

雰囲気: 威圧感があるが、恐怖ではなく「美しさに飲み込まれるような感覚」。誰もが本能的に“近寄ってはいけないもの”と察する。

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