サジタリウス未来商会と「夢を送る箱」
今井直樹という男がいた。
35歳、都会の一角で働くシステムエンジニアだ。
日々の業務はハードで、彼の生活はほぼ仕事に支配されていた。
「今日も残業か……」
彼は毎日パソコンの前で大量のコードと格闘し、問題を解決することに追われている。
その代わり、趣味や友人との交流、そして自分の夢といったものは、すっかり置き去りにされていた。
かつて直樹には、小説家になる夢があった。
学生時代に書いた物語を友人に読ませると、「すごく面白い」と褒められたこともあった。
だが、現実の生活がそれを押し流し、夢は埃をかぶったまま心の片隅に眠っていた。
「小説を書くなんて、もう無理だよな……」
そんな諦めの中、直樹は深夜の帰り道で奇妙な屋台を見つけた。
それは、人通りの少ない路地裏で、ひっそりと灯りをともしていた。
古びた木製の看板には、手書きでこう書かれている。
「サジタリウス未来商会」
「未来商会……?」
直樹は足を止め、興味を引かれるように屋台へ向かった。
奥には白髪交じりの髪と長い顎ひげを持つ初老の男が座っていた。
その男は、直樹を見るなり穏やかな笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ、今井直樹さん。今日はどんな未来をお求めですか?」
「俺の名前を知ってるのか?」
「もちろんです。そして、あなたが求めているものも分かっていますよ」
男――ドクトル・サジタリウスは、懐から奇妙な箱を取り出した。
それは、手のひらサイズの木箱で、蓋の部分に古めかしい模様が彫られていた。
「これは『夢を送る箱』です」
「夢を送る箱?」
「ええ。この箱にあなたの夢を込めると、その夢が誰かに『インスピレーション』として届きます。そして、あなたの夢は他人によって形になり、現実の世界に現れます」
直樹は首を傾げた。
「つまり、俺の夢を誰かが叶えるってことか?」
「その通りです。ただし、一度箱に夢を込めてしまえば、あなたがその夢を叶えることは二度とできません。それでも試してみますか?」
直樹は迷ったが、自分では叶えられない夢なら誰かに託してもいいのではないか、と思い購入を決めた。
自宅に戻った直樹は、早速箱を試してみた。
蓋を開けると、箱の中には淡い光が漂っていた。
「夢を込めてください」というサジタリウスの言葉を思い出しながら、直樹は心の中でかつての夢を思い描いた。
「いつか小説を書いて、誰かの心を動かすことがしたい……」
すると、箱の中の光が強く輝き、次の瞬間、蓋が静かに閉じられた。
数週間後、直樹は偶然、SNSで話題になっている新進気鋭の小説家の投稿を目にした。
その小説家が発表した作品は、直樹が学生時代に構想したストーリーと酷似していた。
「これ……俺の考えた話だ!」
驚きながらも、直樹はその小説を最後まで読み切った。
完成度の高さと、巧みな筆致に感動すると同時に、複雑な思いが胸に広がった。
「俺が書きたかった物語なのに……」
だが、読者の感想を目にすると、心が揺れた。
「この小説に救われました」
「こんな物語を読めて幸せです」
それらの言葉は、直樹がかつて抱いていた「誰かの心を動かしたい」という願いが、別の形で叶ったことを示していた。
それからというもの、直樹は箱を使い続けた。
学生時代に描いたもう一つのアイデア、忘れていた夢――それらを次々と箱に託し、その度に新たな作品やプロジェクトが世に現れた。
だが、次第に直樹は自問するようになった。
「これは本当に俺の夢が叶ったと言えるのか?」
ある日、再びサジタリウスの屋台を訪れた直樹は、問いかけた。
「ドクトル・サジタリウス、この箱は確かに役に立っています。でも、俺は自分で夢を叶える喜びを感じられていない気がします」
サジタリウスは静かに答えた。
「夢を叶えることと、夢を託すことは違います。どちらも価値があり、どちらを選ぶかはあなた次第です」
「でも、もう一度自分の力で挑戦する道はないんですか?」
「箱を使った夢は、他者に委ねられた以上、戻すことはできません。ですが、新しい夢を生み出すことは、あなたの力次第で可能です」
その言葉に、直樹ははっと気づいた。
「新しい夢か……」
それ以来、直樹は箱をしまい込み、自分の手で新たな物語を書くことを決意した。
会社での忙しさの合間を縫い、少しずつアイデアをまとめ、書き進めていく日々が始まった。
最初は不格好だったが、彼の中には確かな充実感があった。
数年後、直樹の名前が新人作家として文芸誌に載った時、彼はふとつぶやいた。
「託す夢もいいけど、やっぱり自分の夢を追うのは楽しいな」
サジタリウスは遠く別の路地で、次の客を迎える準備をしながら満足げに微笑んでいた。
【完】