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53/53

53 魔境。

前回のあらすじ

皐月賞を終え、ダービーに向けた動きが活発になる。新たなライバルの存在とスペシャルデイズの変化。世間は三歳五強の話題で盛り上がりを見せる。


53


 ダービーウイーク。ダービーを当週に控えたその七日間は、競馬界の空気が一段と熱を帯びる。



 ダービーホース。


 ダービージョッキー。


 ダービートレーナー。


 ダービーオーナー。



 競馬に関わる者なら誰もが憧れ、誰もが欲する称号。


 それは単なるGⅠ勝利ではない。三歳世代、七千頭の頂点に立った証だ。

 

 その戦いに挑めるのは、わずかに十八頭。栄光の扉は、あまりにも狭い。



 この一週間、新聞もテレビも話題は週末に行われるダービー一色だった。


 栄光のダービー馬として、その勝者は、歴史に名を刻むことになる。


 果たして栄冠を掴むのはどの馬か。




 ウッドチップを跳ね上げ、コーナーを回る。鞍上からのゴーサインを受け、黒鹿毛の馬体が一気にギアをあげる。


 一本の矢のように、力強く、鋭い伸び脚。スタンドから双眼鏡でその様子を見ていた蒼井は、静かに頷く。



「……あとは、無事に当日を迎えるだけや」



 蒼井は誰にも聞こえないような声で呟き、スタンドから消えていった。





 各陣営が最終追い切りを終えた午後、美浦トレーニングセンターでは合同記者会見が行われていた。


 最初にマイクの前に座ったのは、皐月賞馬カイウンスカイの鞍上、立仲だった。


 フラッシュが瞬き、記者たちの視線が一斉に集まる。



「立仲騎手、まずは追い切りの手応え、印象について教えてくだ──」


「良かったです」



 即答だった。



「皐月賞が激しいレースだったので反動が気になりましたが、まったく心配いりません。いつものカイウンスカイでした」



 記者席がざわつく。



「今回は、はっきりとした逃げ宣言をしている馬はいません。カイウンスカイが逃げる展開も考えられますか?」



 立仲は一瞬だけ考え、口角をわずかに上げた。



「ダービー一人旅、ってのも……楽しそうですね」



 記者席からは、皐月賞馬の逃げ宣言に『オー!』と歓声が上がる。



「逃げ切りというと、サミーブロッケンの例も記憶に新しいですが、自信のほどは?」



「最速の称号にかけて───」



 その言葉に込められたのは、皐月賞馬の誇りか、意地か。あまり多くは語らない立仲騎手の確かな自信を会場の記者は感じとり、一斉にペンを走らせた。




 同じ頃。栗東トレーニングセンターでは、クラウンヘイローの主戦・福河祐介が会見に臨んでいた。



「追い切りでは良い走りだったように見えますが、仕上がり具合はいかがですか?」



「皐月賞が百だと思っていましたが……まだまだ成長してくれています」



 慎重な言葉の中に、確かな手応えが滲む。



「福河騎手はデビュー三年目での初ダービーですね。お父さんの洋介さんはダービー未勝利。ここを勝てば、“天才”と呼ばれた父を超えるのでは?」



 一瞬、祐介の表情が強張った。



「……あまり意識したことはありません」



 やや硬い声で祐介は続ける。



「父は父、僕は僕です。ダービーの有力馬に乗れることは光栄ですし、このチャンスを───しっかり掴みたいと思っています」



 その言葉の裏で、彼自身が最も強く父を意識していることを、祐介自身が誰よりも分かっていた。




 次に呼ばれたのは、スペシャルデイズを管理する調教師の蒼井だった。


 場内に一礼をして着席する。その目はキリリと鋭く、ピリピリした空気をまとっていた。蒼井が椅子に腰掛けた瞬間、場の空気が変わる。



「蒼井調教師、前走の皐月賞は惜しくも三着。広い東京コースに替わって、逆転候補の筆頭とも言われています。仕上がりはいかがですか?」



「過去一です」



 蒼井は短く、断言する。



「これで負けたら仕方ない。そう言えるデキです」



 蒼井のはっきりとした口調に、記者が唾を飲み込む。



「前回は後方からの競馬でしたが、ダービーではどんな競馬を?」



 蒼井は一拍置いてから、口を開いた。



「作戦は、騎手に任せています」



 それ以上は語らない。短い言葉に詰め込まれた気迫が会場内に伝播する。

 

 【勝負がけ】。


 打倒カイウンスカイ。そして、ダービー制覇へ───。


 会見場にいた記者は、蒼井の並々ならぬ覚悟を感じ取り、最有力とメモに記した。

 




 ダービー当日。東京競馬場は、早朝から異様な熱気に包まれていた。


 徹夜組が出るほどの人、人、人。パドックを取り囲む黒山の人だかり。


 馬たちの一挙手一投足を見逃すまいと、無数の視線が注がれている。


 野球帽を被った男が、隣の男に声をかけた。



「なぁ……どの馬も、チャカチャカ落ち着きなく見えるんやけど」



「せやな。発汗も目立つわ」



 男はパドックをぐるりと見渡す。



「やっぱダービーは特別なんやろな。騎手の顔も、いつもより固い」



 五月最終週。この日は好天に恵まれ、気温は夏日近くまで上がっていた。

 だが、それ以上に得も知れぬ緊張感が、競馬場全体を覆っていた。



「……なんか。喉、渇くな。ワシ茶飲んでくるわ」


 野球帽の男はそそくさと人の波を掻き分けて、パドックから離れていった。





 ダービーには、古くから言い伝えがある。



 ───府中の杜には、魔物が棲む。



 その魔物は、姿を持たない。

 だが、確かにそこにいる。


 弱気。疑念。不安。


 それらはすべて、魔物にとって最高のご馳走だ。


 レースの途中で、ふと「無理かもしれない」と思った瞬間。


 「ここまでか」と心が揺れた刹那。


 魔物は、そこに牙を立てる。

 一度捕まれば、逃げることはできない。

 脚は重くなり、視界は狭まり、判断は遅れる。


 勝つために必要なのは、才能だけではない。


 己を信じきる、強さ。

 不安を振り払え。

 疑念を断ち切れ。


 さもなければ───。



 府中の杜の魔物は、今日も静かに、十八頭を待っている。


 誰が、捕まるのか。

 誰が、振り切るのか。


 その答えは、まだ───ターフの向こうにある。


お読みいただきありがとうございました!


繁忙期のため次回の更新は2月中旬くらいを目標にしていきます。


いいとこなのに! →ごめんなさーい(ФωФ)


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