『向こう側』
深い霧の中にいた。
ぼんやりとした意識のなか、状況を理解しようと思わず、霧のせいで何も見えないはずの『向こう側』だけを、ただひたすらに見ていた。
どうして、此処にいるのだろう。
そう疑問に思ったが、すぐに、どうでもよくなった。
逆に、あの先には何があるのだろうと、思った。
土の地面が、砂利に変わった瞬間、『向こう側』に向かって歩き出した。
静かなこの空間に、砂利を踏んで歩く、【自分】の足音しか聞こえない。
『向こう側』に近づくにつれ、意識はハッキリしてくるが、どこか、胸が高鳴ってくる。
しかし、辺りを見渡すこともせず、ただ歩き続ける。
何処まで行っても、『向こう側』は、見えない。
【自分】の目に映るのは、何処まで続いているのか分からない先だけだ。
いつになったら『向こう側』に着くのだろう。
…早く着いて、ほしいな。
こう思った時の【自分】の顔は、きっと笑っていたのだろう。
少し歩くと、水の音が聞こえてくる。
しかし、『向こう側』ではない。
【自分】は、早く着きたいと願っていたのに、走ろうともしなかった。
今までどうり、一歩一歩、確実に『向こう側』へと、近づいていった。
河がある。
水の音が、目の前から聞こえてくる。
霧のせいで向こう岸は見えない。
此処が『向こう側』な訳のはずがない。
【自分】は、確かにそう思った。
しかし、どうするとこも出来ずに、まだ見えない『向こう側』を見ていた。
「あんさんは、『向こう側』を見たいのかい?」
声をかけられ、振り返ると、そこには、『何か』がいた。
老婆に見え、青年に見え、少女に見え、【自分】にも見えた。
「『向こう側』を見たいのなら、船にお乗り、連れていってやるよ。」
そう言われ、前を見ると、さっきまで無かった小舟があった。
【自分】が瞬きをしている間に『何か』は、老婆になり、船に乗っていた。
「行きたくないなら、先に、行っちまうよ。
乗るなら、早くのりな。」
【自分】は、船に乗り込んだ。
『何か』は【自分】の後ろに立ち、船をこぎ、【自分】は、真ん中に、座っている。
船が『向こう側』に近づくにつれ、河の音が聞こえなくなる。
代わりに聞こえてくるのは、木と木が擦れる音と、櫂が水をかく音だけになった。
【自分】は、その間も、見えない『向こう側』を見ていた。
「見えないものを見て、何になるんだ。」
『何か』は、青年になっていた。
「夢だってそうだ。
子供の頃に描いた将来の自分、理想の自分。
あの頃は、まだ何も知らず、純粋で、ただただ夢を見ていた。
大人になるに連れ、人は、二つに別れていった。
大半は理想や夢を捨て、現実を見た。だが、理想を捨てきれず、追い求める奴もいる。
追い求める事が悪いわけではない。
現にそれで努力した奴が、プロのアスリートになったり、有名になったり、有名にならなくても、大小さまざまな功績を残したりした。
けれども、全員がこうなった訳じゃない。
理想や夢を見て、努力する奴は沢山といる。
報われるのは、精々、一割~二割の選ばれた人間。
残った奴らは、ただただ落ちぶれていくだけだ。
なれないと自分では思っていても、それしかないから、辞められない。
今まで、それに人生を賭けてきたのだから、今さら他なんて、考えられない。
目に見えて無理なくせして、それでも理想や夢を見ている。
君は、どうして見えない『向こう側』を見ているんだ?
それに何の意味がある。
見えない『向こう側』を見て、何になるんだ?」
青年の姿をした『何か』は、老婆に戻っていた。
【自分】は、見えない『向こう側』を見るのは辞めなかった。
【自分】は、『向こう側』を見ることに対して、少なからず、達成感と、快楽を感じていた。
辞められるわけがない。
「そこには、どんな『向こう側』が待ってるの?」
『何か』は、少女になっていた。
「あなたは、この深い深い霧の中、ずっと『向こう側』を見てるけど、いったい、何が待ってるの?
キレイなもの?それとも、キラキラしたもの?
それとも、あなたが好きなもの?もしかして、全部?
そもそも、『向こう側』には、どんなものが、待っているのか知ってる?
『向こう側』ばかり見ているけど、たまには、周りも見た方が良いんじゃないの?
そればっかり見てたら、危ないかもしれないよ?
何か分からない『向こう側』を見て、何が待っているのかも知らず、どうして『向こう側』にこだわっているの?
あなたにとって、『向こう側』は、いったい何なの?
そこには、どんな『向こう側』が待ってるの?」
少女の姿をした『何か』は、老婆に戻っていた。
『向こう側』に何が待ってるのかは知らない。
もしかしたらそこは、ただのスタートラインでしかなく、【自分】が目指している『向こう側』は、まだ先かもしれない。
『向こう側』というのは、終わりがないのかもしれない。
たとえ、『向こう側』に終わりがあったとしても、それは、本当に終わりでは、ないはずだ。
【自分】は、『向こう側』が、どれだけ果てしなくとも、それを見たいと…いや、見なくてはならないと、感じた。
しばらく時間がたつと、船底が地面を擦った。
【自分】は立ち上がり、また、『向こう側』へと歩きだそうとしていた時、後ろから声がかけられた。
「どうして、『向こう側』へ行く。」
『何か』は、【自分】になっていた。
「他の『何か』に言われたはずだ、なぜ『向こう側』を見る。
お前が見たいと願っている『向こう側』にあるものを、なぜ知らない。
それでもなお、なぜ『向こう側』へと歩きだす。」
【自分】は、思った。
そんな事知らない。
ただ、『向こう側』を見ていたいだけ、見続けたいんだ。
そのせいでどうなろうと知らない、知りたくもない。
どうなろう良い、どうなっても良い、もうそれしかない。
お前に何がわかる、何が理解できる、何も理解できない癖に。
「お前だからわかる。」
頭を抱えてしゃがみこんだ【自分】に対して、【自分】の姿をした『何か』は、言った。
「お前だからこそわかる。否定し続けるな。
いい加減『後ろ』を見ろ。まだ間に合う。『向こう側』を見続けるのは、やめろ。お前じゃなれない。
お前だって心のどこかで理解していたはずだ、だから此処にいる。
もう気ずいていただろ、此処がどういうところか。
受け入れろ、この現状を。」
受け入れたくない、受け入れたくない、受け入れたくない
受け入れたくない、受け入れたくない、受け入れたくない
やだ、やだ、やだ、やだ、やだ、やだ、やだ、やだ、やだ
まだなれる、まだいける、まだ見れる、まだ逃げたい
【自分】は、霧の中にいた時、考えなれかったのでわない、考えたくなかったのだ。
【自分】は、逃げたかった、『後ろ』から。
【自分】は、見続けたかった、『向こう側』を。
【自分】は、受け入れたくなかった、現状を。
自分の姿をした『何か』は、【自分】のことをあわれむような目をしていた。
【自分】は、何かを感じ、周りを見渡す。
すると、白い光があった。
『向こう側』だ、『向こう側』に違いない。
もう『向こう側』以外何も見たくない、『向こう側』だけで良い。
【自分】は、『後ろ』から、そして『何か』から逃げるように光へ走った。
「おろかな【自分】だな。『向こう側』にしがみついていたら、いつまでたっも、『後ろ』を見ない。
それどころか、何もかもが終わってしまうかもしれないのに。
おろかな【自分】だな。」
『何か』は呟き、河へと消えていった。
【自分】は、必死に走っている。
『後ろ』から逃げるため、『向こう側』を見続けるため。
『向こう側』は、徐々に近づいてくる。
もう少しで、手が届く。
これで、『向こう側』を見続けれる。『後ろ』から、逃げきれる。
【自分】は、『向こう側』の光に飛び込もうとした時だった。
白い光が、赤黒くなった。
【自分】は、気が付かず、そのまま、飛び込んだ。
【自分】は、笑っている。
『何か』は、あわれんでいる。
『向こう側』は、【自分】に、破滅をもたらした。
『後ろ』は、いつまでも【自分】を追いかけている。