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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

生き長らえた証明

作者: 小鳥遊彩

 バイトの最終日を終えた私が駅から自宅までの道を歩いている時、スマホがお馴染みの低い振動音を立てた。

 メッセージのやり取りをする相手は、そう多くない。

 画面を見ると、母からのメッセージが届いていた。

 曰く、弟夫婦が来ていることと、弟が食べたがっているからという理由で買って来て欲しいものの一覧が記載されている。

 ああ、来てるんだ……と、私は暗澹たる気持ちになった。


 買い物を済ませた後、自宅前に着いた私はドアノブに手を掛けたまま固まってしまう。

 正直、帰りたくはないけれどそんなことも言っていられない。

 意を決してドアノブを回し、玄関へと入った。

 忙しない足音が近付いて来たかと思うと、リビングのドアが開いた。


「帰ったの?」


 どこか責めるような、鋭い声だった。

 母はスーツ姿のままで、彼女もまた帰ってから着替える間もなかったことを物語っている。

 母は外資系の会社に勤めていて、複数人の部下を抱える管理職である。

 俗に言うキャリアウーマンで、その年収は一千万を超えていて、そのために母子家庭でありながら私は奨学金を借りることなく美術大学に進学させてもらえた。


「早く、こっち来て手伝って!」


 そう言って、私をキッチンのほうへと促す。

 わかりきっていたことだけど、買い物をして来た私への労いの言葉はないようだ。

 母が、こうして台所に立つことは珍しい。

 普段は私と祖母が交代で家事を行っている。


 リビングのソファの周辺には、様々なおもちゃが散乱し、その中心に祖母と姪がいた。

 姪は色鉛筆を使って絵を描いている最中で、紙からはみ出して床にまで色が着いている。

 嬉しそうにきゃっきゃと笑う彼女に、祖母は手を叩いて「上手上手!」と誉め立てる。

 あの色鉛筆は、私が大事にしている百本セットのものだけれど、生後一年と数ヶ月の幼児がそんなことを気にする筈もない。

 姪に私の色鉛筆を持たせたことについて、母や祖母に抗議しても無駄だと理解している。


 ……どうせもう使わないのだからいいか。

 諦観しきった気持ちでそう考え、キッチンのほうへと向かうことにした。

 弟夫婦の姿は見えない。

 となれば、またしても二階にある私の部屋で遊んでいるのだろう。



 私より一つ下の弟は今から二年少々前、つまり私が進学した翌年に子供を授かった。

 相手は、その一件より少し前に弟が交際していた女性で、別れた後も何度か警察に通報した相手でもある。

 つまり、彼のストーカーとも言える。


 とは言え、ストーカーであっても子供を身籠ってしまえば知らぬ存ぜぬというわけにはいかない。

 結果、彼女は今となっては弟の妻で私の義妹だ。

 倹約家の彼女は、週に何度かは私の家で夕食を食べ、お風呂に入って帰る。

 以前は、彼女を弟から遠ざけることに躍起になっていた母と祖母も、子供が生まれた途端に掌を返した。

 何しろ、愛して止まない息子あるいは孫の第一子なのだから。


 真面目だと言われ続けて来た私とは対照的に、弟は何かと問題児だった。

 中学に入ってすぐに髪を染め、他人のバイクを盗んで無免許で乗り回し、事故を起こして賠償金を払わされる、そんな三年を経て何とか入学させてもらえた高校は一週間足らずで辞めた。

 今の妻は、遊び回っていた十代の頃に出会った相手で、弟と似たり寄ったりな人種である。

 とは言え、二人とも要領は非常に良い。

 弟は中卒にも関わらず、上手い具合に実入りのいい仕事を見つけた。

 妻は妻で、娘を盾にして上手く立ち回り、今ではすっかり母と祖母にかわいがられている。



「おーい、ちょっとちょっと」


 大きな足音と共に、弟が二階から顔を覗かせた。


「なぁ、姉ちゃん、パソコン動かねぇんだけど」


 私の部屋は、厳密には二部屋ある。

 二間続きになっていて、手前が小動物のケージやパソコンを置いている部屋で、奥が寝室だ。

 弟夫婦は、手前の部屋は第二のリビングのように思っているらしく、踏み込むことにまるで躊躇がない。


 見に行ってみれば、弟の言う通りパソコンはうんともすんとも言わなかった。

 弟は何かと所作が荒っぽく、今までも彼がパソコンを使う度に動作が不安定になったけど、とうとう動かなくなったか。

 しかも、一週間後に提出しなければならない課題のデータはこのパソコンの中だ。

 普段なら狼狽えるところだけど、今となっては「ふーん」と他人事のようにしか思えない。

 何故なら、既に提出する気がないから。



 食事を終えて洗い物をしている最中、母が私に言った。


「いったいどうしたって言うのよ?」


 母の口調には、苛立ちが含まれていた。

 責任ある役職に就き、多忙な日々を送る母はストレスを溜めがちだ。

 その捌け口である私への当たりは、普段から強い。


「何、って?」


「あの態度よ。何なのよ? 食事中もずっとむすーっと黙ったままで」


 そう言って私を責める母は、いつものように口角が下がっていて醜い。


「ごめん、学校の課題とバイトで疲れただけ」

「疲れたって……あんたねぇ、バイトぐらいで疲れててどうすんのよ。社会に出たら、もっと大変だってわかってる?」

「うん」

「うんって、ほんとにわかってんの? 全然わかってないでしょ」


 弟夫婦が来ると、母も祖母も諸手を挙げて迎えるけれど、その一方で不機嫌にもなる。

 幼い姪は相当に手がかかる。

 でも、二人とも彼らには負の感情を一切見せず、代わりに私が不満の捌け口となる。


「会社にもあんたみたいにぼーっとした子いるけど、ほんと苛々させられるわ」


 無視する、聞き流すというのはあまり賢いやり方ではない。

 そうしたところで、母の口撃は過激化する一方なのだから。

 この場を離れようにも、洗い物の最中だ。

 どうしたものか、と考えていると、意外なところから助け船が入った。

 姪の甲高い声が響き、母を呼ぶ。どうやら、一緒に遊ぼうということらしい。


「はいはーい! 待って、すぐ行くからー!」


 この時、私は少しだけ姪を作った弟夫婦に感謝した。






翌日、私はいつも通り家を出た。

 家族は皆、私が学校に行くものと信じて疑わない筈だ。

 でも、今日は学校に行くつもりはない。


 私は今日、自ら命を絶って人生を終わらせるのだ。

 この決断に至るまで、随分と時間がかかった。

 自殺という選択を意識し始めたのは、小学五年生の頃だったように思う。

 きっかけは覚えていない。ただ、そういう方法もあるのだなと妙に納得した。

 生きづらさ、というのはそれまでも常々感じていた。

 私の感性や感覚は、他の子とは異なるようだ。


 駅前の繁華街に来た私は、目に入った宝くじ売り場の前で足を止めた。

 私は宝くじなんか買ったことがないし、当たるとも思わないけど、何となく買ってみた。

 人生初にして最後の宝くじ、これがもし当選すれば面白いかも、そんなことを思いながらポケットに忍ばせる。


「おA3、武系羽」

「……え?」


 唐突に聞こえた声に、思わず立ち止まって顔を上げた。

 見れば、私の進行方向に一人の男が立っている。

 彼は知人に向けるような親しげな笑顔で、私に何かを話しかけている。


「あれ、聞こえなかった? おねーさん綺麗だねーって言ったんだけど」


 ようやく相手の言葉を聞き取ることができた。

 私にはよくあることだ。決して耳が悪いわけじゃないから聴覚診断で引っ掛かったことはないけれど、とにかく言葉の内容を上手く拾うことができない。

 耳馴染みのない声に対してほど、その傾向が強くなる。

 この体質が災いし、昔から相手を怒らせたり呆れさせたりということがよくあった。


「すみません、急いでいますので」


 ぺこりと頭を下げると、早足でその場から離れた。

 それなりに距離を稼いだ後、恐る恐る周囲の様子を伺う。

 どうやら、尾行されてはいないようで、ほっと胸を撫で下ろす。


 その時、ショーウィンドウに映る自分の顔が見えた。

 自分で言うのもなんでけれど、はっきり言って美人である。

 大きなを長い睫毛が縁取り、肌は抜けるように白く、まるで人形のようだ。

 とは言え、容姿のお陰で得した経験など全くない。それどころか、変に悪目立ちするせいで常に周囲から揶揄られる嘲笑されるばかりの人生だった。


 いや、より正確に言うと、私の地味で根暗な気質と、この容姿は相性が悪すぎるのだ。

 顔が地味なら、今ほど絡まれずに済んだだろう。

 両親は私が小学校に上がる前に離婚したため、父とは十五年以上会っていないものの、ロシア人とのクォーターだということは話に聞いて知っている。


 私の家は、祖母の両親が建てたもので、私たちはずっとこの地に住んでいる。

 だから、私自身は父を知らずに育ったとは言え、混血であることは周知の事実だ。

 子供の頃は、よくクラスメイトたちから「ロシア人はウォッカくせぇから学校くんな」「さっさと北方領土返せ」と囃し立てられた。

 私は今も昔もウォッカなんか飲まないし、ましてや北方領土問題をどうこうできる権限を持っている筈がない。

 私に関心がある男子にからかわれ、その子に好意を寄せる女子からは男好きのビッチだと謂われのない中傷を受ける、そんなことも日常茶飯事だった。


 でも、親に訴えれば「ただのやっかみでしょ、ほっときなさいよ」、先生に訴えれば「あなたの思い込みの可能性は?」。

 どっちにしても、まともに取り合ってはもらえないのだ。

 私が選んだ自衛手段は、自分がすべきこと、即ち画力向上に集中することだった。

 もちろん、成績維持も忘れてはならない。

 念願叶って美術大学へ入学することはできたものの、またしても壁に突き当たった。


 ……いや、壁という表現は果たして正しいのか。

 生涯が立ちはだかったというより、もっと根本的な問題だ。

 打ち込めるものや目標があれば人生は輝く、そう主張する者もいる。

 けれども、私は必ずしもそうとは限らないと思う。

 打ち込めるものは目標自体が、悩みの種となることもあるのだ。


 私は心身共に疲れやすい。

 運動能力測定の結果が悪いわけではないのだけど、普通の生活を送るだけで人より何倍も疲れるのだ。

 故に、一日の活動量の上限が極めて低い。

 そして、人はそれを怠惰と呼ぶ。

 怠惰ではないと主張したいところだけど、どちらにせよ、創作を行う者にとってこの体質は致命的だ。

 創作というのはただ学校から与えられる課題さえこなしていれば良いというものではない。

 自分なりにインプットを増やし、それを形にするための技術技能を磨く必要がある。


 家事やバイトといった日常生活をこなしながら創作を行う、これは私にとっては相当な苦痛を伴った。

 かと言って、筆を折ることはできない。

 何故なら、絵を描くことは私という存在の根底に関わることだから。

 いっそ初めから筆を取ることなく、ただ絵を鑑賞するだけの側でいられれば良かったのだろうか。

 やりたいこと、生きたい人生があるのに、それを実現できるだけの力がない。

 努力する、しない以前に、努力をするための生命力や精神力が伴わないのだ。


 他の者が三つの課題をこなす中、一つの課題を終わらせただけで電池が切れたように動けなくなる私。

 そんな自分を歯痒く思いながら、どうして良いかわからない。

 私には持病と言える持病もなく、五体満足な健常者と分類される。

 つまり、端から見れば自己管理ができないことへの言い訳としか思われない。

 日常的に母から浴びせられる嫌味と非難、揶揄や嘲笑を受けた記憶。

 それら全てが、ただでさえ生きづらい人生をより生きづらいものにする。


 相談機関に、母のことや家族との関係性について相談してみたこともあったけれど、誰もが声を揃えてこう言った。


〝お金を貯めて家を出よう〟

〝家族と永遠に縁を切るべきだ〟

〝それができないなら我慢するしかない〟


 何の解決にもならないどころか、気休めにもならなかった。

 正直、母とは昔からウマが合わない。

 性格も価値観も、何もかもが真逆なのだ。

 そして、彼女は自分の在り方こそ人類の理想型だと思っている。

 故に、私に変わることを求めるのは必然だ。


 だからと言って、私は彼女のことを心から憎み、絶縁したいと思っているかと言うと、そうは言い切れない。

 それに、母との絶縁は即ち他の血縁者との絶縁も意味する。

 相談員は気軽にその提案をするけれど、私にはそう簡単に決断できそうにない。


 ……彼女たちに愛されている姪を見ていると、尚のことだ。

 完全に絶縁してしまえば、もし仮に私が子供を持ったとしても、少なくとも母方の祖母には会わせてあげられないのだ。

 所謂「おばあちゃんっ子」の私にとっては、受け容れがたい事態である。


 これが、自殺を決意した理由だ。

 どうあっても、明るい未来を想像することができない。


 死に場所も、自殺方法ももう決めてある。

 ここから電車で一時間ほど行ったところにある、廃村だ。

 その中で、丈夫そうな梁が残った廃墟を見つけたので、そこで首吊りを行うことにした。

 最もベタな自殺方法だけど、逆に言えばそれだけ確実性が高いということだ。

 場所の下見も念入りに行い、死体の回収もそこまで困難ではないだろうと見当を付けた。

 遺書は一週間ほど後に届くように手配しているし、バイトして溜めたお金も部屋に置いて来た。


 自分のやるべきことは全て終わらせた。

 自殺を決断するまでは何度も何度も悩んだけれど、意思が固まってからはとても心穏やかに過ごせた。

 思い返せば、こんなに晴れやかな気持ちになれたのは生まれて初めてだ。


 そろそろ電車に乗ろうか、そう思った時だ。

 駅前の繁華街に軽トラックが猛スピードで突っ込んできて、しかもそれは通行人を挽きつぶしながら私のすぐ真横を通り過ぎ、コンビニの自動ドアへとまともに衝突した。

 いくつもの大きな音が響き渡る。

 車のタイヤがアスファルトを擦る音、ガラスが砕ける音、甲高い悲鳴、断末魔にも似た悲鳴……順番などわからない。

 とにかく、様々な音が私の鼓膜を一斉に震わせた。

 しかも、それらは私の眼前で起こっている。

 私は何が起きたのかわからないまま、立ち竦むしかなかった。


「あ、ああ……いた、い……たす、あ、た……」


 茫然自失状態で佇んでいた私は、間近から聞こえた声に顔を上げた。

 見れば、私から何メートルも離れていない場所に若い女性が倒れていた。

 あの軽トラックに轢かれたのか、全身血塗れで脚が曲がってはいけない方向に曲がっている。

 どこかで見た顔のように思ったけど、すぐには思い出せない。


 凄惨な光景、なのだと思う。

 なのに、あまりにも日常離れしていて実感が沸かない。


「うおぁぁぁあああああああー!」


 獣の咆吼にも似た声が、白昼の繁華街に響き渡る。

 先ほどの軽トラックから出て来た男が、自らも血だらけになりながらも、小瓶のようなものを次々に投げ付けていく。

 その小瓶は、通行人やアスファルトと接触した途端に爆発した。

 あちらこちらで炎が上がり、人々の悲鳴が響く。

 数分前まで、そこには確かにいつもと変わらぬ日常があった筈なのに、今や阿鼻叫喚の巷と化している。

 逃げ惑う人の叫び声が飛び交う中、私はただ呆然と佇んでいた。


 怖くて足が竦んだのではない。

 妙に冷静な頭で、これは俗に言う巻き込み自殺なのだろうかと考える。

 手持ちの火炎瓶全てを投げ終えたか、今度はナイフを手に鬼の形相で女性を追いかけている男の姿が見えた。

 彼が何を思ってこんな凶行に及んだか、知る由もないけれど、私同様に明るい未来を想像できないことは間違いない。


 一際悲痛な絶叫が上がった。

 あの男が背後から女性を突き刺し、その身体が力なく崩れる。

 肩で呼吸を貪りながら顔を上げた男と目が合った。

 その瞬間、彼の顔が怒りとも憎しみともつかぬ形に歪んだ。


 どうやら次の標的は私のようだ。

 無差別殺人とは言っても、本当の意味で無差別ではなく、犯人は自分より力の弱そうな相手を狙うと言う。

 しかも私は若くて身綺麗、しかも美人だから、端から見れば人生が上手くいっているように思えるだろう。


 ……予定とは異なる展開になったけど、これはこれで悪くない。

 なるべく他人の迷惑にならないよう配慮したとは言え、どうしても自殺というのは世間体が悪くなってしまう。

 その点、無差別殺人に巻き込まれた被害者なら、私も遺族も気の毒な被害者でいられる。

 被害者が直前まで自殺を考えていたかどうかなど、世間の人々にとってどうでもいいことだ。


 男が真っ赤なナイフを手に、私に向かって猛進する。

 既に心は決まっているとは言え、やはり死ぬ直前は痛いのだろう。

 私は詰めていた息を吐き出し、予防接種を受ける時のような心境でその時を待った。


 ところが。


「やめろ!」

「がっ!」


 一人の青年が男に飛び付き、アスファルトの上へと押し倒した。

 取り押さえられた男は、奇声を上げながら必死の抵抗を続けている。

 ナイフを滅茶苦茶に振り回し、馬乗りになる青年の身体を斬り付ける。

 青年は自らも血を流しながら、肩越しに私を振り返って叫んだ。


「逃げろ! 早く!」


 その言葉に、私は呪縛が解けたかのように一目散に駆け出した。

 正直言って、怖かった。

 脳裏に、血を流した青年の姿が浮かび上がる。

 ここから逃げ出したいと思った。

 気が付けば、私は自宅の玄関にいた。

 ドアが開く音を聞き付けてか、祖母が血相を変えてやって来た。


「あんた、今までどこにいたの? 駅前の繁華街のこと聞いた?」

「……凄いことになったから、思わず引き返しちゃった」


 それを聞いた祖母は両目を大きく見開き、それから安堵した様子で息を吐き出した。


「そりゃあ学校行くどころじゃないわ。それより、怪我してない?」

「ん、平気」


 はっと思い当たったように顔を上げ、私の全身を眺めていた祖母だけど、私の言葉を聞いて得心したみたい。

 寿命が縮むかと思った、なんて言っているけれど概ね元気そうだ。


「そうだ、お母さんに連絡入れといてよ。あんたから」

「私から?」

「うん。緊急速報聞いて、心配で何度も電話してきてたから」


 部屋に戻り、全ての音をミュートにして放置していたスマートフォンの画面を開くと、二桁を超える着信履歴が残っていた。

 その内の一件は祖母で、それ以外は全て母だ。

 私が折り返すと、母は二秒ほどで出た。


「あんた、今どこ?」

「家。今日、一限目の授業がないから駅前で時間潰してたら、何か凄いことになったから帰って来た」


 その「凄いこと」を思い出すと、心臓が早鐘を打ち始める。

 人がたくさん死ぬのも、どこかの誰かが無差別に凶刃を振るうのも、私にとってはさほど衝撃的なことはでなかった。

 でも、私を庇ったあの青年については別だ。

 そういえば、彼は無事なのだろうか。

 電話の向こうから聞こえた溜息で、私は我へと返った。


「はー……良かった。ニュース見て、びっくりしたのよ。通学の時間帯に近いし、あんた鈍臭いからまさかと思ったわ」

「……うん平気」

「どうしたのよ? 元気ないじゃない」

「ちょっと……その、びっくりしたしショックだった」

「……ま、そうよね」


 適当に誤魔化したところ、母は納得してくれたみたい。


「学校休んでゆっくりしてなさい。ああ、あんたもおばあちゃんも、今日は家から出るんじゃないわよ?」

「うん、わかった。……ありがとう」


 我ながら、珍しく殊勝なことを言って電話を切った。




 当日とその翌日は、あのニュースの情報に触れるのが怖くて徹底的にネットもテレビも避け続けた。

 ようやく自分の目で見てみようと思ったのは、丸二日過ぎてからのこと。

 あの事件により、加害者を含む九人の死者と二十人を超える重軽傷者が出た。

 加害者は三十代の男で、警察に取り押さえられる前に自らナイフで喉を突いて死亡。

 故に、犯行動機などはわからないまま。


 彼を除いた八人の被害者の氏名一覧を見て、私は心底驚いた。

 一名を除き、私の知っている名前ばかりだった。

 小学校の頃、私の容姿や持ち物を小馬鹿にしてきた女子グループの首謀者。

 中学校の頃、私が登校する度に一斉に窓から大声で非難を浴びせかけていた男子たち(因みに、高校に入ってからは私を待ち伏せして親しげに声をかけてくるようになった)。

 その他諸々、私に侮蔑の言葉を投げ付けたり、体操服や上履きを盗んでその辺に放置した子たちの名前が並んでいた。

 そして、お約束と言うべきか、生前の彼らを知る者が「とても心優しい子でした」と言って涙を流す姿がテレビに映った。

 他にも、彼らがどれほどの人格者だったか、どんな素晴らしい夢や目標を持っていたかを語るニュースがいくつも流れた。


 私は再びそれらの情報を遮断し、あの青年について思いを馳せた。

 彼は新米の警察官で、あの日は仕事が休みの日だったようだ。

 私がそのことを知っているのは、彼が八人目の犠牲者だったからに他ならない。

 自らの危険を顧みず犯人を取り押さえ、更なる犠牲者が出ることを防いだ彼の英雄的行為は、当然ながらニュースやネット記事で賞賛され、誰もが早すぎる死を悼んだ。

 昔から正義感が強く、曲がったことが嫌いな性格で、仕事熱心な姿勢を職場でも高く評価されていたらしい。


 私は自室の隅で膝を抱え、これで何度目かわからない自問自答を繰り返した。

 何故、私が生きて彼が死んだのか?

 本来なら、死ぬべきは私だった筈だ。

 どれほど考えても明確な答えが出る筈もないけれど、一つだけ確かなことがあった。


 私は、知人でさえない彼によって命を救われたということ。

 正直、余計なことをしてくれたと思う気持ちもある。

 それでも、今となってはこの命を投げ出せないとわかっていた。






 パソコン画面に向かっていた私は、作業の手を止めて大きく伸びをした。

 時計を見ると、作業開始から一時間経ったところだった。

 脳も身体も疲れ果てていることから、もっと経っている気がしたのだけど。


 ゆっくりと立ち上がり、洗面所へと向かう。

 そろそろ洗濯が終わった頃だから、休息も兼ねて干しておこう。

 脳が疲れた時には、こういう単純作業を挟むと良いということを今の私は経験から知っている。

 一階へ降りたところで、デイサービスから帰ってきたばかりの祖母と会った。


「あら、今日のお仕事は終わり?」

「まだもうちょっと、かな。ちょっと休憩して洗濯物を干そうと思って。今日も楽しかった?」


 そう尋ねると、祖母は皺の目立つ顔を綻ばせた。


「ああ、楽しかったよ。やっぱり身体を動かすと気持ちいいねぇ。それに、マッサージもしてもらって、何だか十年は若返ったみたい」


 私が家にいる時間が増えたことで、祖母への負担はうんと減った。

 前は家事に充てた時間を、今は自分のケアに使ってもらっている。

 洗濯物を干し終えた私は、淹れ立てのお茶とお菓子を供に再び制作に取り掛かる。


 あの事件から、三年の月日が流れた。美大を無事に卒業した私は、フリーランスのイラストレーターとして活動している。

 自分の好きなことを仕事にし、誰かに提供できるというのは純粋に嬉しいものだ。

 速筆でも多作でもなく、かと言って売れっ子になれるほど突出したものがあるわけでもなく、そんな私の稼ぎは月に十万前後程度だ。

 本来なら生活していける額じゃないけれど、特に気にしていなかった。

 何故なら……。


 スマホが鳴り、画面を見ると母からの着信だった。

 面倒臭いけど、出ないと余計に面倒臭いことになる。

 作業を中断して、通話ボタンを押す。


「はい」

「もしもし? 帰りに何か買って帰ろうと思うんだけどさ、何がいい?」

「んー、お任せ? そういえば、今日も残業なし?」

「まさか。もう年も年だし、残業なんかしてられないわよ」


 今日は桜餅にしようかしら、そう言って母は電話を切った。

 少し前に、母は自ら望んで転属した。前より仕事量が減ったことで、今では定時での帰宅が当たり前になった。

 家と会社の往復を繰り返し、しかも帰宅後も睡眠時間の確保に心血を注いでいたあの頃に比べると性格も丸くなった。

 今も私と母とは真逆の性格同士で、合わないと感じることもあるけれど、以前のような苦手意識はなくなった。


 これも全て、あれのお陰だ。

 私は貯金通帳を取り出し、最新ページを開いた。そこには、サラリーマンの平均年収を超える額が記載されている。

 何と、あの日、最初で最後のつもりで購入した宝くじが当選したのだ。

 それも一等。



 一日の仕事を終えた私は、駅前への繁華街へと足を伸ばした。

 購入したばかりの花束を持ち、ある場所を目指す。

 その歩道の端には小さな祭壇が設けられ、いくつかの花束や未開封の飲み物が添えられている。

 私はいつも花を置いてすぐにその場を立ち去るだけで、手を合わせたことは一度もない。


 でも、自分で稼いだお金で花を買ってこの場所に添えるということは、これからも毎月欠かさずに続けるだろう。

 命ある限り、ずっと。


 それが、あの日私が生き長らえたという何よりもの証明だから。


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