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「ただいま戻りました。」
部屋の外からそっと声を掛けて来たのは、ハイドナーです。
結局、後で別にとった宿に聖女様御一行として馬車戻り組も含め全員で泊まることになったのですが、厳重警戒中の部屋に戻って来たハイドナーは、キースカルク侯爵に話を聞きに行っていました。
これが、先発した筈のエダンミールの援助隊とキースカルク侯爵達も、フォッドの街に引き返して来たそうなのです。
フォッドに先に戻っていたリーベン隊長のところにキースカルク侯爵から伝紙鳥が届いていたので凡その事情は把握していましたが、ハイドナーが戻ってからより詳しく話を聞きに行って貰いました。
「カディ様、リーベン隊長殿。キースカルク侯爵に改めて伺って参りましたが、やはり大型の魔物が出現したとのことでした。」
伝紙鳥には、昼頃進んでいた街道の側に魔物が出たが、その場での討伐は難しく遅れて通り掛かる聖女様御一行が心配なので、引き返したと書かれていました。
「そんな凶悪な魔物だったの?」
思わず不信感満載に問い返してしまうと、ハイドナーは少しだけ困ったように眉を寄せました。
「普段はもっと山深い森や林の中に生息するそうで、人里には降りて来ないのですが、珍しく抱卵したまま街道のすぐ傍に潜んでいたからと。」
首を傾げながら言うハイドナー自身も余りピンと来ていない様子でした。
「ランカーマーラという人の半身程の体長の巨大蜘蛛の魔物ですな。捕食はネズミくらいまでの大きさの小動物で、人が襲われることはないのですが、産卵期だけ雌が吸血行動を行うことがあるそうです。それも大した量を吸う訳ではないのですが、この吸血の際に固有の病原体に感染することがありまして。これで人が稀に死ぬことがあるのだそうです。」
なるほどという説明は、モルデンさんがしてくれました。
「といった一般的ではない知識を引っ張り出した結果、引き返して来たというのですから、援助隊に紛れ込んでいる何者かの画策と見て間違いないでしょう。」
続いたその言葉でまた室内が一気に緊迫した空気になりました。
「つまり、ガシュード側のあの仕掛けが発動することを想定して、作戦の補助もしくは成果を確認する為に、魔物はわざと放たれていた可能性がある、ということですな?」
リーベンさんの口調が厳しくなっています。
「その魔物、また変異種か改造魔物かもしれませんね。となると、ちょっと放っておくのは躊躇われるというか。今の内に始末してしまった方が良いような。」
そうぽそっと付け加えると、皆の刺さるような視線が来ました。
「そうですな。騎士団に通報して、討伐が完了するなり安全が確認されるなりしない限り、先には進めません。」
リーベンさんがはっきりきっぱりと言い切ってくれましたが、援助隊の人達とキースカルク侯爵はどうするつもりなのでしょうか。
「カディ様、まさか今度は蜘蛛をペットに欲しいんですか?」
そんなことを言い出すバンフィードさん、ちょっと表に出ましょうか?
まあ、パンチは掠りもしないって証明されましたけどね。
「やめて下さい。大人になってから虫は全般的に無理です。それを言うなら、バンフィードさんのペット竜達、いっそあの子達に餌にして貰えば良いんじゃ?」
ふと思い付いてる言ってみると、ふんと鼻を鳴らされました。
「何を仰るのか、殿下のペット達には王都を守るように言い聞かせて1日目の夕方には引き返させましたが?」
どうやっても飼い主の権利をこちらに投げて来ようとするバンフィードさんですが、竜種は明らかにバンフィードさんに懐いてますよね?
魔物相手に言い聞かせて引き返させるって、かなりのテクだと思います。
「まあ、その辺りは置いておくとして。やはりエダンミール行きは考え直されるべきでしょう。貴女様に形振り構わぬ悪意を向けて来る者達の巣窟にお連れする訳には参りません。」
何度目の論議でしょうか。
折れないと分かっていても言わなきゃいけないリーベンさん達も可哀想なのかもしれないですが。
「思惑は外して覆して、そうしている内に、こちらは目的を達成出来る筈ですから。」
何の根拠もない言葉ですが、エダンミール行きを反対しなかったノワの言動を見る限り、結果として行く羽目になりそうな気がします。
深々と諦めたように溜息を吐くリーベンさんには申し訳ないですが、今度よく効く胃薬でも王太子のお兄様に教えて貰おうと思います。
きっと良いやつ使ってる筈です。
「貴女様の突破な言動には実はきちんと意味があって、放っておく訳にはいかない裏事情が隠れていたりするのだとは言われておりますが、そして途中経過は考えなしの無謀計画であることが殆どだと。王弟殿下の分析は的確ですな。それを、何とか上手く補助せよとは、無茶振りが過ぎます。まあ、王弟殿下がそういう方だとは知っておりましたが。」
ついというように垂れ流したリーベンさんの本音が、こちらとしてはそっと目を逸らしたくなる程痛いです。
そして、王弟殿下には的確に色々読まれてそうで、やはりちょっと怖いですね。
エダンミールでのことが片付いて無事にシルヴェイン王子を連れて帰れたら、しばらくは大人しくしておこうと心に誓いました。
「ま、まあ。気にしたら負けですよ? リーベン隊長。なるようになりますって。」
無責任な発言をしてしまいましたが、何かあったとしてもこのメンバーが無事に国に帰り着けるように、全力を尽くして妨げるものを薙ぎ倒すことくらい出来る筈です。
その後の問題は、きっと王弟殿下が上手く何とかしてくれると信じてます。
と、王弟殿下が聞いたら視線一つで磔の刑にされそうなことを脳内で垂れ流しつつ、頭を切り替えることにします。
「リーベン隊長。あちらにこれ以上色々画策する時間を与えたくないので、さっさと動くべきですよ。明日の朝には援助隊とキースカルク侯爵に合流して再出発しましょう。」
顔付きを改めて結論を出すと、あちらも居住いを正したリーベンさんが頷き返して来ました。
「魔物は襲って来たらそれこそ援助隊の皆さんに始末して貰えば良いんです。それよりもここで例の仕掛けが発動したのかしてないのか、はっきりさせない内に、つまりこの中に本物の王女がいるのか分からない状態にしておいた方が、こちらにとって好都合ですからね。」
そう真面目に語り切ると、部屋の空気も切り替わっていました。
「では、カディ様。そのようにキースカルク侯爵にお伝えして参ります。」
ハイドナーも真面目な顔付きでそう返してきましたが、難しい顔付きのモルデンさんに視線を移しました。
「モルデンさんもハイドナーと一緒に侯爵のところへ行って来て下さい。実際に魔物が襲って来たとして、侯爵の一行にいざとなったら魔法の補助が必要か詰めて来て下さい。援助隊のほうから道中で何か仕掛けてくるとは思えませんけど、魔物襲撃のドサクサで、意図的に手を抜かれるかもしれないので、最低限自衛が必要になると思うんですよ。」
「畏まりました。早速行ってキースカルク侯爵と相談して参ります。」
そう慇懃に返されてしまいましたが、そういえばそういう立場でしたね。
ハイドナーとモルデンさんが早速部屋を出て行くのを見送って、動かない他の皆さんに目を戻すと、リーベンさんが改まったようにこちらに視線を送って来ます。
「リーベン隊長。思ってるよりも事態が切迫していそうです。多分、あちらにとって。だから、強硬策を取って来るんだと思うんですが、ある程度事態が進めば逆にこちらに手出し出来なくなるからだと思うんです。そこまで、何とか逃げ切ります。なので、どうしてもの場合は、私も護衛目的のフリで最低限の魔法を使う場面もあると思います。聖なる魔法だけはニーニアさんが使っている偽装が要りますが、それ以外の魔法は使える設定に変えといて下さい。」
これを擦り合わせる為に、モルデンさんに外して貰ったんです。
反対されそうですからね。
「・・・殿下が聖なる魔法以外の魔法を使うのは、余り見たことがないのですが。」
言ったリーベンさんがバンフィードさんに問い掛けるような視線を向けました。
そのバンフィードさんがこちらをマジマジと見つめています。
「実は、私も殿下の魔法は余り見たことがありません。魔力は規格外だとは聞いていますが。」
そうでしたね。
毎食の美味しい天然水生成と、イースとエールに乗って王都に戻った時の風魔法補助と、極短距離の転移魔法くらいしか見せていない気がします。
そもそもクイズナー隊長からずっと使用制限されていましたからね。
「使う時は、魔人の補助を受けて最低限だけ使うようにしますから。大丈夫です。」
こうでもしないと、後方待機だけしてる内に事態が拗れて、後で手を出す方が実は大きな魔法でねじ伏せたりするハメになって、目立つんだと思うんです。
ちょこちょここっそり手を出していた方が上手く収まる気がしています。
「魔人は、常にお側に?」
「呼べば出てくるはずですよ?」
これまでノワは、必要な時には言わずとも漏らさず出て来ていたので、不自由を感じたことがありません。
「魔人は、殿下の最大の謎の一つですからな。」
リーベンさんの何とも言えない口調にはこちらも苦笑が浮かびます。
「分かってくれます? 私もあの魔人様に良いように振り回されてる被害者の1人なんだよね。」
「魔人は、世界や神に繋がる存在なのでしたか?」
リーベンさんにはそれとなくそんな話を明かしたような気がします。
「その筈なんだけどね。ウチの魔人様ちょっと、いやだいぶ黒いんだよね、思考回路が。」
そろそろ抗議が入るかと思いましたが、出て来ませんね。
何処かにお出掛け中で忙しいんでしょうか?
エダンミールで何をさせられるのやら。
でも、こちらの寿命を握ってる神様側のノワには逆らっても無駄でしょうからね。
「まあ、魔人様の無茶振りを粛々と受け入れつつ熟すだけですよ。」
私これでも大変なんですアピールが済んだところで、側に寄って来たバンフィードさんに頭をポンポンされました。




