第十話 風呂上がりの牛乳は人類の宝である
柵のそばで牧場を見ている婦人がいた。
二人の子供を連れ、背中には乳飲み子を背負っている。
土に汚れた服から見て、どこかの農家の人だろう。
「どうです? この牧場は」
おれは声をかけてみた。
「うちの牛たちが嬉しそうで。ほんとうに良い物ができましたねえ」
「朝夕の移動が大変ですけどね」
「そこはもう、しょうがないので。それより昼間に子供の面倒をやっと見れるようになりました」
ああ、なるほど。
ここなら交替で見張りをすればいいので、男性陣だけで手は足りる。
お母さんたちは楽になるか。
家の敷地で牛を見ると二十四時間ずっとだもんなぁ。
「牛神牧場にまだ入れない家もあると聞きます。入れて良かったわ」
「うん? 奥様、今なんと?」
「ええ、この牛神牧場に」
「そんな名前になってんの?」
おれはユーリゲを振り返った。彼ではなく、リーザー女史が答えた。
「牛神様が作ったのですから、牛神牧場と呼ばれるのは当然です」
「えー! その呼び名、だからイヤだっての」
「牛神様でございましたか!」
婦人が膝を折りそうになるのをあわてて止める。
「ほら! こうなるでしょ。名前、きちんと決めちゃおう。んーと、オッケー牧場で」
後日談だが、この名前はまったく広まらなかった。
「あとは牛舎ができればいいんだがなぁ」
「さすがに、時期尚早かと」
「資金もないもんな」
おれとユーリゲの会話に、リーザーが割って入った。
「それは、どうでしょうか」
眼鏡をくいっと上げた。
「隣の領主と融資の話が進行中です」
「隣? お隣さんは人に貸せるほど金持ちなの?」
「はい。観光で栄えている領地です。温泉が有名で」
あっ! と思わず声が出た。
パラレルワールドの世界だ。
蒜山高原の隣と言ったら「湯原温泉郷」か!
「そこって、マーニワ王国ユバーラ領?」
リーザー女史が不思議そうにうなずいた。
やっぱな! 真庭市湯原町だ。
おれは笑みがこぼれた。進むべき道が見えたぞ。
「ユーリゲくん、牧場の運営は軌道に乗りそうだ。次にしなければいけないのは、何かな?」
ユーリゲは考え込んだが、よい答えは浮かばないようだ。
「リーザー女史?」
呼ばれた彼女は、また眼鏡をくいっと上げた。
「販路の拡大ですね」
お見事。
この小娘、胸が小さいのは玉にキズだが、頭は切れる。
「稼がないと、この牧場もクソの役にも立ちません」
そうだった。頭も切れるが口はもっと切れる。
ユーリゲの家と近隣五軒に協力してもらう。
そのうちの一軒で空いている納屋があった。
そこを作業場にした。
朝一番の搾りたてを持って集まってもらう。
まず、特注品で作った小瓶を煮沸消毒する。
そこに牛乳を入れ、今度は低温で湯煎にかける。
この世界って温度計ってあるのかと心配したけど、ありました!
ただし、錬金術師しか作れないらしく高級品。
水銀が錬金術師のお家芸なのかな?
低温殺菌の温度は63度。
スーパーにあった「おいしい低温殺菌」と書かれたパックの裏の記憶。
63度で殺菌と書かれていた。
まあ、このへんはおいおい研究だ。
最後に紙のフタをし、今日の日付を書けば完成だ。
今日はとりあえず、12本入る小箱で10箱、120本用意した。
馬車に積み込みユバーラ領へ出発!
ユバーラ領までは馬車で三時間ほどかかった。
小川を背にした通りに場所を構える。
次に、木箱ごと小川に沈めた。冷やすためだ。
さて、リーザー女史に荷物番をしてもらう。
おれとユーリゲ、ボッグは温泉だ!
街で一番大きな湯屋に入った。
温度が違う湯船が三つと薬湯風呂まであった。
「あー!」
思わず声が漏れる。
まさか、異世界で温泉に入れるとは思わなかった。
こんなに感動しているのは、おれだけだろう。
そう思ったら、横でユーリゲが涙を流している。おおい!
「まさか、この身体で、こんな経験ができるとは。ナガレ様とボッグには感謝の言葉もございません」
「おで、おで、ユーリゲの足! まかせとけ!」
さぱーん! と湯船から立ち上がり、力こぶを見せるボッグ。
うん、それはいいけど前は隠そう。
ボッグのボッグは大男なんだから。
普通の風呂も良かったが、薬湯風呂がまた最高だった。
匂いはキツイが身体への浸透がハンパない。
「これ、牛にも効きそうだな」
「そうですね。薬草はまだ不勉強でして」
そう言ってユーリゲは湯をすくってじっと見る。
いやいや、それ以上、勉強したら君、死んじゃうから!
向こうの世界では薬湯は漢方の資格を持ったやつがやってたりする。
こっちの世界でもいるのだろうか?
「薬草師とかっているの?」
「ええ。いますが、かなり限られます。治療師や魔法使いに比べ、人気のない職業ですので」
ああ、そりゃそうか。魔法で一発! だもんな。
「植物全般に詳しい薬草師がいれば、牧草なども向上させれそうなんだけどな」
「がんばります!」
お前じゃねえよ!
どこかにいたら、うちに引っ張りたいもんだ。
温泉を堪能し、馬車に戻る。
一人だけ荷物番をさせられたリーザー女史は膨れっ面だ。
今からどうぞ、と言うとルンルン気分で駆けていった。
小川で冷やした牛乳を三本取る。
「私たちも飲んでいいので?」
「これから売るんだ。自分たちが美味しいと思ってないと売れないだろう」
フタを取り、腰に手を当てる。一気に飲んだ。
「ちまちま飲んでも、美味しくないぞ。ぐいっといけ」
「はっ。では」
二人がぎゅうっと飲み干す。
「これは……」
ユーリゲが絶句してる。にやり。
「温泉に入った後の牛乳は格別だろう」
「ええ、冷やすと、うちの牛乳がこんなに美味しいとは」
「うん? 冷やさなくてもユーリゲの家の牛乳は極上品だぞ。ただ、湯上がりは冷えているほうがいい」
おれたちの前を通った男が足を止めた。
「あんたら、何やら旨そうな物を飲んでいるが、それは?」
「ああ、これから売る、特別な牛乳です。一本どうです?」
「おいくらかの?」
「一本5G」
「5G!」
男がおどろくのはわかるが、ユーリゲとボッグもおどろいていた。
ありゃ、言ってなかったっけ?
「まあ、物は試しで買ってみるか」
「はい! まいどあり!」
男に一本わたすと、その場でフタを開け飲んだ。
「おお! なんじゃこりゃあ!」
男がおどろいている。
そりゃそうさ。
元々ジャージー、じゃないやジャージャー牛の牛乳は旨いんだ。
牧場ができて、それのさらに上位版。まずいわけがない。
男の声に周囲の人が集まってきた。
「よし! 急いで店開きだ!」
馬車で一緒に持ってきた机を出した。
ブリキのバケツを並べ小川の水を少し入れる。
そこへ牛乳を漬けた。
見た目の涼しさね。
「さあさあ! 隣のジャージャー牛乳、今朝のしぼりたてだ!」
飲んだ人が口々に「うまい」と絶賛し、それを見た人が買いに来る。
「5Gなのに、こんなに売れるとは……」
ユーリゲがおどろいている。
気持ちはわからなくもない。
牛乳の相場で言えば1G、向こうの金額で言えば百円だろう。
しかし酒場のエールは5Gが相場だ。
牛乳でも美味しければ5Gで売れると踏んだのだ。
「あのう、そこの湯屋の者なんですが」
待ってました。
おれはこれを狙っていたが、まさか一日目で会えるとは。
「へえ旦那。卸ですかい?」
「左様です。手前どもの湯屋でも売らしちゃもらえませんでしょうか?」
「そいつぁ光栄です。卸値だと3Gでいかしてもらってます」
「3G!そんなに安いので?」
「へい。ただし、条件がありまして。冷やして売ることと、ここに日付があるでしょう。そうフタのとこに。二日過ぎたら売るのをやめてください。こちらで引き取ります」
「たった二日? それだと、しょっちゅう来てもらわないと」
「へい。これからは毎日、この街に来る予定です」
賞味期限を二日で考えた。
こっちの世界だと衛生管理ができない。
普通の食事でも腹を下すことはあった。
ジャージャー牛乳は安全、そういうブランドイメージを作りたい。
「あっ! お客さん! 瓶は置いてってくだせえ!」
瓶を持って帰ろうとした客に言った。
ガラス瓶は高い。回収は必須だ。
「なるほど、ガラス瓶は回収と。わかりました。今日とりあえず10本ほどありますか?」
「へい。お近づきに記しに、お代はいいので一箱試しに売ってみてつかあさい。二日後にうかがいますので」
「いいのかい?」
「へい。冷やすのを忘れないように」
「ああ、それは大丈夫。うちは凍結の魔石を使った保冷庫を持ってますので。エールも冷えたのを出してますよ」
保冷庫、そんなのあるんだ。うちにも必須アイテムだな。
無料で一箱を手に入れた湯屋の男はホクホク顔で帰っていった。
「いいのですか? 3Gの安さで」
「ああ、こういうのは利幅があると向こうもやる気が出る。5Gに設定したのはそこもあってな」
「やりますわね」
そう言ったのは、いつのまにか帰ってきていたリーザー女史だ。
腕がツルッツル。薬湯風呂に入ったな。
この日は完売し、さらに、もう一軒の湯屋と繋がりを持てた。
出張販売を一週間ほど続けると、合わせて六軒の湯屋と契約が取れた。
「このへんで一旦やめよう」
おれは説明した。
同じ地域で広めすぎると、価値がなくなる。
それに出荷量も急には増やせない。
ユーリゲの家を含め、協力してもらった農家は今、目も回る忙しさだ。
「やっぱり、牛舎、それに共同の作業場だなぁ」
おれのボヤキにリーザー女史が答えた。
「今夜、領主様が話があるとか。期待してよろしいのでは?」
まじで! 融資の件、うまくいったかな。