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セーシロー/バッドカンパニー1

 そのときはまだ征士郎は興奮していたし、これから素晴らしいお楽しみが始まるのだと硬く信じて疑わなかった。

 

というのも、彼の電子的に強化された味覚と嗅覚は、大気中に飛散する化学物質を鋭く捉えていたからだ。彼が最先端の呪術的改造によって獲得した形質…その敏感さといったら。

 

舌の受容体が空気を舐めとるたび都市特有の混沌とした生活臭のなかでさえ、闘争と緊張の輝きがひときわ強く煌めいているのが感じられるほど。

 

テストステロンにアドレナリン。


 己から発散されるそれらの化学物質…いっそう強く、ますます濃くなるその匂いに胸がときめくような高ぶりを覚えて、無意識のうちに征士郎は逆立った鱗を撫でつける。


 ビルの屋上に吹き付ける風の冷たさも忘れて、心臓がビートを刻む。


 その震えこそ彼の生きがいだった。


 彼はうきうきしながら夜景を見渡した。


 ウエストサイドの洗練された街並み。その一角に存在する老舗の高級ホテルの屋上からの夜景。


 数百万の明かりが、これから戦いに挑む彼を祝福している。


 なんと素晴らしいこの眺め!征士郎は通信で相棒に語りかけた。もちろん暗号化されている。その点、手抜かりはないのだ。


 《おい、ゾウシ、俺の視覚に乗ってみろ。100万ドルの夜景ってもんだぜ》


 《黙ってろ、式神が飛び回ってる。合図は5分後だ。待機しておけ》


 ピシャリとゾウシが言った。


 通信をのんびりと続けながら、征士郎はのっそりと傍らに放り出してあった分厚い段平を背負う。

 

刃渡り160センチ、柄が20センチはあるうすらでかい刀。しかし、征士郎の姿によく馴染んだ。


 彼の巨大な体格にふさわしい獲物。


 鞘は軽金、柄には滑り止めの人工鮫皮が巻かれ、刃は最新の合金で形成されたその刀。それは彼のためだけに作られたオンリーワンの逸品。


 《いつでもいける。120階だろ?》


 《あと4分。こちらも準備完了。征士郎、敵は警戒厳重だ。気をつけろ》


 ゾウシが特に不機嫌というわけでもなく、仕事中はいつもこんなものだ。


 ゾウシがそっけなく通信を切り、征士郎は時計を見る。視覚野に浮かべたホログラムのアナログ時計はなるほどきっかり14分。急がなければ怒られてしまう。


 我ながら浮かれすぎている。


 そう、自分でも思う。


 征士郎はゆっくりと微笑み、屋上から階下に通じるドアをくぐった。


 屋上には合計5台の監視カメラ、3体の対人「鎮圧用」式神−もちろん書類上そうなっているだけだ−そして高感度感圧センサーが敷き詰められていたが、征士郎のその動作をどれもが見過ごした。いや、実際この屋上に誰かがいたとしても吐息の一つも感知できない筈だ。


 ゾウシのバックアップに抜かりがなく、さらに念入りであることに満足しながら階段を降りた。ここからの侵入ならより効果的に制圧を行える。


 ホテルの図面はすでに脳内にインプット済みだ。


 警備ルートも把握してある。


 文字通り。


 最短経路と見張りの位置は常に確認してある。足音一つ立てないように最新の注意を払って階段を2段飛ばしで駆けおりる。興奮がいよいよ押さえきれなくなる。

 

しかし、それもあとわずか数分…長針があと90度ほど働けば、仕事が始まる。


 わずかな我慢だ。なんてことはない。待つのは得意だ。目的があるのなら。


 びりびりと震えるような熱に満たされながら征士郎は廊下に歩みを進めた。


 警備は相棒がうまくごまかしてくれるはずだった。偽装迷彩と呪で光学的、視覚的にごまかしていても彼の巨体が放つ威圧感は隠しようがないはずだったが、その実驚くほど静かであった。


 埃の一つさえも舞い上がっていない。彼の特殊な歩法がそれを為すのだ。感圧センサーでさえ欺くその足どりは、もちろん記憶インストールなどで即席に植え付けられた技能などではなく、長期間に渡る訓練と実戦での経験で培われた熟達の業である。


 こんな時だけは昔に感謝したくなる。ジャングルの血の沼のような地獄の日々も無駄ではなかったということだ。まったく、腐乱臭と肉の生焼けの匂いが魂にまでこびりつくかに思われた。特に、征士郎にとっては散々だった。匂いを選別消去しても半日は美味い飯が食えなかったのだったから。


 しかし、こうして見事に現在の稼業の役に立っているのだから、あの経験も捨てたものでもなかった−と益体もないことを考えつつ、壁に張り付いた。標的はドア一枚隔ててすぐそこだった。柄に軽く手を添えた。ゾウシからゴーサインが出るや否や音もなく動けるように。


 だが次の瞬間征士郎の頭がぴたりと無駄な思考を中断した。


 異様な匂いを嗅ぎとった。


 しかし馴染みのある匂い。


 ゆっくりと足を運びつつ征士郎は素早く舌で空気を舐めとり分析した。


 血の匂いだった。間違えるわけもなかった。


 複数−3、4人以上。まだ新鮮だから死後数分といったところ。鉄や火薬の匂いなし。銃で撃たれたにしては匂いが強すぎる。死因は出血死であろう。それも生半な殺し方ではない。


 まるで解体でもされたような有様に違いない。恐ろしい臭気だ。


 恐怖と興奮の匂いも大量に含まれていて思わず征士郎は背筋が震えた。


 生きながらバラされたと直感的に感じた。


 しかも最悪だったのはターゲットのはずだった男の血の成分も含まれていることだった。事前に男の培養血液サンプルを味見したからわかる。この出血の量から察するにとっくにお陀仏だろう。血液のあらかたをぶちまけて生きていられる人間がいればだが。


 《糞、おいゾウシ、俺の感覚中継してるんなら−》と通信を繋ぎかけた時に帰ってきたのは無音だけだった。


 思わず舌打ち。待ち構えられていたと感じた。明らかに手際の良すぎる通信遮断。


 まあ、これほどまでする相手だ。とっくにそれくらいの対策はしていてもおかしくはない。


 どうする。と征士郎は逡巡したがそれも一瞬のことだった。


 

部屋に入ることに決めた。むしろ退路はそこしかなかった。


 新しい異変を彼の耳と嗅覚が敏感に察知していた。


 湿ったもので床を叩くような音。そして金属と水が混じったような匂い。


 大勢の警備の連中が式神を連れて走ってきている。間違いなく。警報までなり出していた。


 もう一度舌打ちしたのは、偽装迷彩と隠形の呪が剥がれかけていたからだった。ゾウシとの繋がりがほぼない今、征士郎だけで完璧な偽装を保てないのは明白。


 全員殺すにはここしかない。不意打ちでまとめて、やる。


 複数人の目を同時に欺くには征士郎のみの呪では困難だ。むしろこちらが構えることができ、さらに確実に反撃できる部屋の中こそが征士郎と彼の獲物にとっては最適だ。と判断した。


 征士郎はほぼ迷いなく部屋の中に滑りこむとドアの内側に素早く札を貼りつけた。事前に用意したものだ。標的の死体を安全に運び出すための認識阻害の呪は、ゾウシが準備しただけあって迅速に作動した。しばしの間は、この部屋自体が認識されないくらいには強力だ。


 部屋の中には予想通りの光景が広がり、余すところなく血まみれだった。


 高級そうな談話室の絨毯も椅子も、本棚も赤黒い粘性の液体に覆われていた。遺体はどれがどれかわからない有様だった。予想していた数倍は酷い。ミンチと言って差し支えなかった。


 掃除が大変だろう。と思った征士郎は思わずにやりとした。何せ、自分達の仕事こそが、《掃除人》であることに皮肉を覚えたのはもちろん、トラブルを心のそこでは楽しんでいる己に気づいたからだった。

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