安寧
丘の上の在来線の駅から歩いて10分のところに小さな喫茶店がある。決して立地は悪くはないのだが、年季の入った建築と時代遅れの内装が災いしてか訪れる客はまばらであった。レコードの代わりに地域ラジオを流しているこの寂れた店こそが綾人のバイト先だ。繁盛してるとは言い難いが、その割に時給が高くシフトの対応が柔軟なことから大学入学以来ずっと継続している。
「お、綾人か。いつもより早いじゃないか」
カウンターから声をかけてきた長身の男は、サイズの合わないエプロンで手を軽く拭い綾人のいる更衣室のほうに寄ってくる。客がいないので店内が放置されることは大した問題じゃない。
「まあ講義サボってきましたから……」
「これで何回目だよ。そんなにここの仕事が好きか?」
「別に好きなわけじゃないですけど」
ハハハ、と笑い飛ばし肩を寄せてくるこの男は速水遼。このバイトでの綾人の先輩であり、ほぼ常時オーナー不在のこの店では実質店長業務を任されていた。ちなみにオーナーの顔は一度も見たことがない。採用担当も遼である。
「そんなことはどうでもいいや。新しいブレンドを作ったからちょっと飲んでみてくれないか? 感想を聞きたい」
「わかりましたから離してください。着替えてくるんで」
「おっと。悪い悪い」
鬱陶しいと感じることがないと言えば嘘になるが、遼のこの面倒見のいい性格とかさっぱりとした接し方が、綾人には心地よいものがあった。このバイトを1年以上も続けている理由の一つである。
「お待たせしました。そういえば真尋来てないんですか? あいつも今日シフト入ってたはずですけど」
桐原真尋。もう一人の同僚が見当たらないことに気付く。
「真尋なら多分駅前あたりで遊びまわってんだろ。放っておけばそのうち来るさ。いつものことだ」
その真尋は結構な頻度で遅刻や無断欠勤をするのだが、客入りに対して人員は常に足りていることもあり遼は大して問題視していないようであった。遼が気にも留めていないので綾人も同じ認識である。
「あの阿呆のことはいいから、早く感想を聞かせくれ。な?」
「そうでしたね。では、いただきます」
遼に急かされ淹れたての新作コーヒーが入ったカップを手に取る。手入れの行き届いた真っ白なカップから香ばしいコーヒーの香りが綾人の鼻腔をくすぐる。
「んー、香りはいいんですがどうなんですかね」
「どう、とは?」
「酸味は抑えめでいいんですが、この苦味は後まで残る感じで俺は好きじゃないですね。甘いものと一緒に出すのであればあるいは」
率直な感想を述べる。気を使った答えはこの試飲においてはご法度なのだ。
「あー、やっぱそうなるかぁ。俺もそんな気がしてセットメニュー用にしたほうがいいんじゃないかと思って迷ってたんだよ。かといってケーキとかないんだよね、うちの店」
「また一から作ればいいじゃないですか。マスター」
「おいおい。勘弁してくれ」
俺はマスターじゃねぇ、と綾人の頭を軽く一殴りして遼はカップとミルの片付けを始めた。
そんな様子を横目で追いながら、綾人は店内の清掃のためモップを持ち出す。遼と違ってコーヒーを淹れる技量を持っているわけでもなく、客もいないとなればやることは自ずと限られてくる。慣れた手つきで床一面を磨いたあとは、備え付けのテーブルやカウンターを布巾で拭う。各座席に備え付けられたミルクと砂糖の補充をしているときにふと、店内で流すラジオの放送が耳に入った。
――市内で頻発する若年女性の連続失踪事件について、県警本部の発表によると捜査に進展はないとのことです。引き続き目撃情報や証言を提供くださるようお願いいたします。
ニケ月ほど前から発生している事件についてのニュース、および情報提供の呼びかけだった。この町ではそれなりに騒ぎになっているらしく、連日ラジオやテレビで一報を飾ることも少なくない。
「まったく物騒なことだ」
同じくラジオを聴いていたらしい遼が嘆息をこぼす。
この一連の事件の被害者はすべて十代後半から二十代前半の女性に限られているとの報道があり、綾人や遼は直接の被害者にはならないだろう。しかし綾人には楪という幼馴染がいることから決して他人事とは言い切れなかった。加えてこの事件にはいくつか不可解な点があり、それらが合わさり綾人の変化の乏しい感情の片隅に影を落とす。
県警や地元新聞社なども頭を抱える謎だが、まず一つは失踪した女性たちは数日たつと必ず解放されていることだ。目立った外傷も暴行された形跡もなく、意識を失った状態で発見されているという。それもご丁寧に暖かい毛布で包まれ、肌寒いこの時期に体調を崩さないよう考慮された場所に、だ。
次に、発見された被害者は事件についての一切の記憶を失くしていることだ。失踪以前の記憶には何も異常はなく、失踪時点から目を覚ますまでの数日間だけ都合よく記憶が「抜け落ちている」状態らしい。
犯行の手口や失踪前後の経緯を鑑みるにこれまでの事件は同一犯の可能性が高いとのことだが、犯人の声明や要求があるわけでもなく、意図や狙いがまるで見えてこない。
「変な事件ですよね……。遼さんはどう思います?」
「さあな。そんな事件のことより、この店の経営が何故成り立ってるかのほうが俺には気になるな」
「確かに大きな謎ですね」
いつもの通り、主な業務たる雑談が始まる。合間にコーヒーを飲んだり新聞を読んだり、――こんな仕事で時給1100円も貰っていいのだろうか?、と最初は申し訳のなさがあったものの直に気にならなくなった。綾人の脳内ではこの店はオーナーの道楽、と結論付けている。
二回目の店内清掃に取り掛かろうとしたとき、カラン、と店の入口ドアが開いた音がした。
「いらっしゃいま……、なんだ真尋か」
「なんだ、はないでしょ。なんだ、は。も~傷つくなぁ」
二日ぶりの来客かと身構えた綾人と遼はガッカリした態度を隠そうともせず、45分37秒遅刻の同僚の顔に冷ややかな視線を飛ばす。そんな視線を知ってか知らずかふわふわとした猫毛のような髪を揺らし真尋は弁解を始める。
「いやぁ、今日はいつもみたいな遅刻じゃないんですってば遼先輩」
「ほう。いつも、ということは一応自覚はあったのか遅刻王くん」
「やべっ、藪蛇突いた」
真尋は顔色を青くし硬直している。蛇に睨まれた蛙とはこういうことを言うのだろう、と綾人は興味深くその様子を見つめる。
「まあ、いいさ。一応聞いてやろう」
対する遼は完全に遊びに入っている。ここのところずっと暇だったのがよっぽど堪えたのだろう。新しいオモチャを手に入れたと言わんばかりに実にいい表情で真尋を見下ろしている。
「それがですねぇ、来る途中原チャリがブッ壊れちゃって……」
「あー、お前のボロかったもんなぁ。で、それバイク屋に修理でも頼んできたのか?」
「直してもキリがないんでもう廃車にしてもらうつもりで~す」
真尋は普段、自宅と専門学校とこの喫茶店などへの移動を古いスクーターを使っていた。そのオンボロ具合といったら凄まじいものがあり、タイヤはまるでスリックタイヤ、マフラーには穴が開き、白煙と爆音を撒き散らし疾走するその姿には暴走族もビックリな代物であった。
「それじゃこれからどうするんだ? 自転車じゃちょっと距離があるだろ」
「こいつの後ろに乗せてもらいます。ね、相棒?」
「は!? イヤだよめんどくさい」
唐突に話を振られた綾人は嫌悪感を露わにする。楪を乗せるのだって本当は気が乗らないのに、何故わざわざ遠回りして男の同僚を迎えに行かねばならないのか、とまでは言わない。
「それにその相棒、ってのやめてくれって言ったろ」
「えー、いいじゃんか。照れ屋さんだなぁ、綾人は」
「そういうことじゃねえ!」
真尋は綾人のことを度々「相棒」と呼ぶ。年齢が一緒でほぼ同時期にこの喫茶店でバイトを始めたから、と真尋は呼び名の根拠を言うのだが綾人には納得いかない。何よりも妙な距離感の近さに最初は戸惑いしかなかった。止めるよう言ってもしつこく繰り返す真尋に諦め気味というか、真尋なりの友情の形なのかな?、と捉えることにしていた。実際は綾人をからかうような場面で口にすることが多いのだが。
「実際問題、どうすんのよ。新しいの買うなら俺が行ってるショップ紹介してやるぞ。俺の口添えと学割とか使えばそれなりに安くなるはずだ」
遼が話を元の路線に戻す。この面倒見のいい先輩は、移動の足を失くした後輩のことをかなり心配している様子であった。または、ただでさえ多い遅刻が増えないかについてかもしれない。
「当分歩きと電車ですねぇ。免許取って中型買うのも興味あるんすよ。遼先輩や綾人見てると楽しそうですし」
「そうか。それはいい考えかもな」
だったら、と前置きし遼は真尋にエプロンを渡しながら、
「真面目にしっかり働いて十分に資金を準備しないとダメだな。お前にはトイレと更衣室の全面清掃という重大な任務を任せよう」
「え~、そうきますかぁ。はぁ、着替えてきますね」
大げさな仕草で肩を落とし真尋は更衣室へ向かう。
そんな二人のやり取りを眺めていた綾人は自然と笑みを浮かべていた。最近になってやっと気付いたことだが、綾人にとってこの二人は数えるほどしかいない心から信頼できる存在になっていて、だからこそこの二人と過ごすこの場所、この時間は今の綾人にはある種の癒しと言えた。
なおこの日、連続無来客記録が更新され数字は4を刻む。