暁天
空はまだ暗く街灯とコンビニの明かり以外道標もない街の中を、綾人と愛車のバンディット250が駆け抜ける。
「危ねぇだろうが!!」
途中、接触スレスレで躱したタクシーの運転手が怒号を放った。しかし綾人はまるで気にも留めずにリアタイヤを少しばかりスライドさせ車体の姿勢を立て直し、速度はほとんど緩めない。この場合悪かったのは完全に綾人のほうでタクシーは被害者であった。というのも、綾人は人も車もほとんど活動していない時間帯なのをいいことに、信号も制限速度も何もかも無視し一心不乱にスロットルを開けまくっていたからである。
小排気量四気筒特有の甲高い快音を響かせ綾人はある場所に向かっていた。市街地外縁、山合の環状線を高速道路のような速度で駆け上がり、住宅街を抜け、さらに坂を登り切ったところが目的地である。その小さな公園入口にバイクを横付けし、キーロックもしないまま駆け出した。
走りながらヘルメットを脱ぎ、展望ベンチのほうを見渡す。夜明け前というこの時間帯では本来なら無人であろうその場所に、一人の人影があった。綾人はまだ距離の離れたその後ろ姿に、そうであってほしいという願いを込めてある名前を叫ぶ。
「詩音!! 俺だ、綾人だ」
詩音と呼ばれた和服姿の少女が振り返る。その顔はどこか悲しげで、今にも大粒の涙が零れ出る寸前といった様子であった。
その表情を見せられ、綾人は今すぐ吐き出したかった想いを寸でのところで飲み込み、発する言葉に詰まってしまった。
「俺……俺は……」
「……綾人、またお会いできて光栄です。何かあったのでしょう? さぁ、こちらへ」
詩音は先ほどの表情など嘘であったかのように一転して優しい笑みを浮かべ、自らの隣に腰をかけるよう綾人に促す。
綾人は促されるままに詩音と隣り合ってベンチに腰をかけるが、どう話を切り出すべきか見失ってしまっていた。暫くお互い無言のまま時間が過ぎる。
晴れた日の昼間なら海が見えるであろう方角の空が僅かばかり色づきはじめてきた頃、これではダメだ、と意を決して綾人はなんとか口を開いた。
「正直迷惑だとは思う。かなり重たい話かもしれない」
「……はい」
「面倒な奴だと思うだろうし、軽蔑してくれて一向にかまわない」
「……はい」
「それでも、君に聞いてほしいことがあるんだ。いいか?」
「…………はい」
ぽつりぽつりと綾人が話す度、詩音は静かだがはっきりと相槌を打つ。
その姿は綾人の吐露を急かすわけでもなく、喋りやすいように自然に穏やかに促しているようであった。
「……………………俺さ、さっき死のうとしてたんだ」
何度も唾を飲み込み、長い長い溜めから一気に簡潔に告げた。それを聞いた詩音は驚くでもなく憐れむでもなく、淡々とした表情で無言を貫く。
「数少ない周りの人のこと、そして過去も現在も未来もどの自分のことも一切わからなくて…… わからないことが怖いし、わかろうとするのもまた怖い」
「…………」
「恐怖ばかりが先走って、気づいたら自分に刃を向けていた」
「…………」
詩音の沈黙が痛い。
突然の自殺未遂報告なんて誰が喜んで聞くものか、と綾人は自らの発言の愚かさを理解する。
「何故、思い留まれたのです?」
話し始めてからはじめて詩音が問いかけてきた。綾人を見つめるその眼は、漆黒だが透き通る不思議なあの色をしていた。
「どうしてかわからないけど、刺す間際に君の……詩音の顔が浮かんだ。それから、君に会いたい会わなきゃならないって思って今、ここにいる。おかしいよな。あの時初めて会って、ほんの少しの間一緒にいただけなのに」
内容が内容だけにこの部分に関しては口に出すのに一瞬気後れがあったが、あの眼のせいか綾人は正直にありのままを話していた。
「私の顔が、ですか……」
「ご、ごめん。急にそんなこと言われても、ドン引き、だよな……」
「いえ、そうじゃないのです」
「!?」
咄嗟に謝りそのまま取り繕うように自己否定を始める綾人を遮るように、詩音はそのか細い両手で綾人を強く、強く抱きしめた。
「嬉しかったのです」
「え……」
「理由や過程がなんであれ、私ごときの存在であなたの過ちを止めることができたという事実そのものが、嬉しかったのです。もちろん、あなたがこうして生きているということも含めてですよ」
男の自分よりも一回りも二回りも小柄なはずの少女相手に、物理的には簡単に振りほどけるはずの力に一切抵抗できない。さらに少女特有の甘美な匂いにほだされ、綾人は詩音に抱きしめられるがまま脱力していった。
「たくさん辛いことがあったのでしょう。耐えてきたのでしょう」
耳元で赤子をあやすように詩音が囁きかける。綾人はそれが非常に心地よく、抑えていた感情が湧き上がってくるのがわかった。
「大丈夫、こんな時間です。誰も見ていません。私の小さな身体でよければ、綾人のために暫し、お貸ししましょう」
そう言って詩音が少しばかり両手の力を緩めた途端、堰を切ったように綾人から滝のような涙と震えるような嗚咽が溢れだした。
「うぅぅ、うぁぁぁぁぁ」
その言葉に甘えるがまま、綾人は小さな子供のように泣きじゃくりはじめた。
緊張が解けた綾人の心にシンクロするかのように、日の出を迎えた東の空から暖かな光が差し込む。




