26 白の慟哭
「……ぬ、ああ……」
デュレインは無意味な呻きを発しながら、焦点の合わない目で虚空を見つめていた。
肌を刺す寒さで震え、喉は渇きを訴える。足が無意識に折れ、その場にへたり込む。精神の苦しみが肉体さえも弱らせる、それほどの岐路に彼は立っていたのだ。
スノウリア王女を救うには、家族を失わなければならない。
今の生活を続けたければ、王女を見捨てねばならない。
どちらの道も地獄行き。到底受け入れられなくて、認められなくて、反発と不満が膨れ上がった。
だからデュレインは追い詰められた獣のように、あるいは駄々をこねるように、必死の形相で婆やに詰め寄る。
「……なあ。本当に、どちらかしか選べぬのか? 考えれば何か方法があるのではないか?」
「少なくともワタクシには思い至りませんし、こんな事で時間を浪費しては手遅れになってしまいます」
甘い幻想は切り捨てられた。容赦のない現実が重量感を持って迫る。
婆やは正しい。
デュレインとしても理屈は分かっている。合理的だと、最善だと知性は判断している。どちらか一方、急いで結論を出さなければならないだろう。
それでも、彼はまだ大人ではなかったのだ。簡単には割り切れない。
言い返せなくて、自分で代案も出せなくて、ただ迷いの中で目を泳がせる。
そんな情けなく震える背中に、低いセオボルトの声が叩きつけられた。
「殿下を救うのは当然ではなかったのか、死霊術師」
「……と、と当然、だ。だが……」
デュレインの返答は、視線を相手の顔から大きく外しながらの、囁きめいた小さな声だった。
スノウリアと出会った当初、生者に恐れを抱いたままだった頃のよう。救いを求める幼子でしかなかった。
セオボルトは溜め息を吐き、改めて正面から射抜く。あくまで静かに、冷静な堅物の調子で。
「己にとっては、殿下が第一だ。他の事は容易に捨てられる。だが、騎士でもない貴様には第一でなくて当然だな」
「……じ、じぶ……自分、は……」
言葉にならない。
王女を救いたいのは本心。これまでの日々を守りたいのも本心。どちらも第一。それが正しく本心だったからだ。
対するセオボルトは唇を固く引き結んでいた。怒りを内に抑えている様子。それを外に発さないのは、デュレインの事情を慮っての結果か。
「……馬の具合を確認してくる。余所者がいては無粋だろうからな」
言い残し、屋敷の裏手へと去っていった。その前に目配せを残し、生屍達へ役目を託して。
彼は把握していたのだ。説得し背中を押せるのは見守ってきた家族だけだと。
まず、婆やが冷たくも柔らかい雰囲気をもって歩み寄る。
「……このような二択はワタクシ共としても不本意なのです。できる事ならば、坊ちゃまには進んで独り立ちして頂きたかった」
スタンダーは常に浮かべていたように緊張感無く笑う。
「僕達は若様の決断に従いますよ。どっちを選んでも文句は言わないですし、責めもしないです」
サンドラはうつむき、消え入りそうな声を絞り出す。
「わたしは姫様を助けて欲しいですけど……無理強いは出来ませんよね……」
クラミスは近くにしゃがみ、座り込むデュレインと目線を合わせてきた。
「迷いがあるのですよねぇ? 私達とたった数日過ごしただけの姫様との間でぇ。それは……一体何故なのでしょうねぇ?」
しばらく沈黙していたデュレインも、その強制するような問いかけには反応せざるをえなかった。
仰け反って目を剃らしつつ、あまり間を置かずに答える。
「……ぬっ……人の命がかかっておるのだ。当然であろう」
「当然。確かにそうですね。無実の罪により立場を追われた王女が英雄と出会い、悪を打倒する……正に運命の出会い。吟遊詩人が詠う物語のようです」
婆やが肯定し、流れるように過剰な程の語りを付け加えた。
それが感情を刺激したのか、即座にデュレインは乾いた笑いで応じる。
「何が運命か。大袈裟に飾るでないわ」
「そうでしょうか。ワタクシは正当な表現であると思いまますが」
「自分はここで迷うような人間だぞ。そんなろくでなしが王女の運命の相手な訳が――」
「運命の相手? もしや勘違いしておりませんか。ワタクシの喩えは恋物語ではなく英雄譚のつもりだったのですが」
途端に硬直するデュレイン。
ゆっくり、ぎくしゃくと、他の三人に懇願するような顔を向ける。
「……吟遊詩人と言えば、そんな話ばかりであろう? 運命と言えばそんな話を連想するであろう?」
「あはは。僕は英雄の冒険する話が好きですよ」
「えぇと、わたしはそう思いますけど……」
「若自身本気で言ってませんよねぇ? なのにそんな言葉が出てきたのは、一体何故なのでしょうねぇ?」
「……な、何故、か……」
再びの何故。
勝手に追い詰められ、黙るしかないデュレイン。
脳裏では無意識に、彼女と過ごした短い時間が再生される。
森で見つけ、生者だと気付き、喚き散らした事。
大切な家族への思いを共有し、手を掴んで体温を感じた事。
町の散策を提案され、過去の傷を薄れさせてくれた事。
騎士の存在に劣等感や嫉妬を覚え、傍から離れようとした事。
短くも、濃厚な日々の記憶。それはどれも深く胸に刻まれていて、良くも悪くも特別だった。自分でも単純過ぎると思う程度に、彼女は特別な人間になっていた。
何故助けたいと思ったか、などとうの昔に知っていた。
「……ああ、そうだ。自分は、王女を好いておる……っ!」
強く吐き出されたのは真っ直ぐな思い。
辺りはしんと静まり、残響を強調させる。デュレインは寒さもかき消す温度まで熱くなっていた。
彼は捨て鉢気味の自嘲顔でクラミスを見やる。
「どうした、囃し立てぬのか。普段のお主なら躊躇もせず遊ぶであろう?」
「する訳ありませんよぉ。私達と迷う位に本気なのですからねぇ?」
「はい。本気の思いならば尊重します。どうかワタクシ共には構わず、ご自身の心へ正直に行動して下さいませ」
「……ああ、分かっておる。生者と死者と、どちらを救う事が正しい事なのかは」
地面に手を付き、弱々しく返答するデュレイン。
その正しさは、今まで心では認められなくとも、理性は理解していた。
彼女に惹かれた理由には、屋敷にいた唯一の生者だったからという点もあるだろう。彼らでは完全には満たされなかった、空虚な寂しさが埋められたのだ。
「……幼い頃、お主らの体温は冷たくなかった。笑った顔も、そのように固くはなかった。ああ、そうだ。お主らは死んでおるのだ!」
死者は戻ってこない。
両親や他にもいた使用人は、言うまでも無い。
目の前の彼らも、いくら生前の姿そのものとはいえ、愛しい者達の代わりでしかない。寂しさを紛らわす為の偽りの存在だった。
だが、それがどうだというのか。
「それでもっ! 自分はお主らが皆好きなのだ、失いたくないのだ、大好きなのだ! 王女の為だからといって、容易には捨てられぬのだ!」
慟哭の叫び。涙が洪水のように溢れ、地面に落ちては濡らしていく。
しかしそんな主の様子を見ても、生屍達は何も言わなかった。ただ嬉しそうな悲しそうな、固くとも儚い表情で見ている。
デュレインの顔は更にくしゃくしゃに歪む。
「……何も、言わぬのか。王女を助けるべきなり、危険な真似をするななり、何か言ってもよいではないか!? なあ!? なあ!?」
「ワタクシ共に意見はありません。ご自分で全ての責任をお持ち下さいませ」
「はは。厳しいではないか。残酷ではないか。少しぐらい楽にしてくれてもよいであろう!?」
「それは当然、厳しくもなりますよ。坊ちゃまが坊ちゃまで、ワタクシが婆やである限り」
突き放すような言い回し。その意味は単純だ。
未だに子供だから、厳しく教育し成長を見守る。
それも当然。この問題は一人で乗り越えるべき試練なのだから。誰の助けも借りられない。
涙を流し続け荒い息を繰り返し、それでもデュレインは己の心と向き合う。
向き合って、悩んで、苦しんで――そして正しき答えを悟る。
「……そうか。自分がすべきは……選択、ではないのだな……」
そもそも婆や達は最初から言っていた。大人になれと。生屍が永らえ続けるのは間違っているのだと。
つまり、王女の件は別。初めから天秤に乗っていたのは、デュレイン自身の命だった。
目を閉じ、脳裏に様々な顔を思い浮かべる。
両親、婆や達使用人、セオボルト、エボネールの住人――そして、スノウリア王女。
彼女は、やつれた顔であってもその影が薄れるほどに、美しく微笑んでいた。
「っ!」
不意にデュレインは立ち上がった。
そして大きく息を吸い込み、限界まで大きく口を広げる。
「……ブリジッド! スタンダー! サンドラ! クラミス!」
一人一人目を見て、声に命を注ぎ込むように全力で呼んだ。愛しい者達の名を。
そして、ようやく定まった決意を言葉にして示す。
「……もう一度、死んでくれるか」
涙を払ったそこには勇ましい顔つきがあった。
痛みを乗り越え、長い子供時代から脱却した、一人前の男のそれ。覚悟を決めた表情である。
それを見届けたからか、珍しく老生屍が微笑んだ。孫の成長を喜ぶ祖母のように。
そして四人を代表し、恭しく頭を下げる。
「かしこまりました。このブリジッド・ノリス以下生屍一同、貴方様の命に従いましょう」
厳しい婆やが口にしたのは、最初で最後の承認の証。
「――当主様」




