序章
季節はもう暑い夏だというのに、肌寒さすら感じる冷え切った夜だった。
目の前で起こっている事が信じられず、ただただ気圧されないように目を瞬いていた自分。
真正面で、何が面白いのかケラケラ笑う端正な少年。
妖しく光る満月に照らされた、季節はずれに咲き誇る桜の下に。
自分と少年は、確かに居た。
あの桜の下、自分と少年は何をしていたのか。
少年は誰だったか。
自分はなぜあんなにも震えていたのか。
秘密ダヨ。
そう言った少年の瞳は、真紅に輝いていたように見えた。
八瀬里は、1里ほど離れた場所にある滋賀里から分離した村である。
村の若者である蒼条甲一郎は34歳の時に、滋賀里の実質的な支配者であり幼馴染の美堂夾二に反発して袂を分かった。
同じく夾二に異を唱えた数人の若者達と甲一郎は、冷たい泉の涌き出る林を切り開いて今の八瀬里の基礎を築いた。
それから5年後。
八瀬里の完成が間近という所で甲一郎は病に倒れ、39歳の若さでこの世を去った。
一人残された息子の甲威がその後完成した八瀬里の当主に就任。
村は拭え切れない悲しみを残しながらも、穏やかで平和に時を過ごした。
都での喧騒から逃れて来た者達も柔軟に迎え入れた八瀬里は、当然のように滋賀里よりも豊かに栄えた。
だがある日突如として、この八瀬里の話を聞きつけた滋賀里当主の夾二は「八瀬里が栄えるのは滋賀里のお陰だ」と言い張り、八瀬里に多額の税を差し出すように命じた。
何も言わずに払い続けた八瀬里の税で、滋賀里は見目が裕福で豪奢な村になった。
だが夾二の欲望は富だけに留まらず、度々八瀬里に下男を送っては物品や人を奪い去るという横暴を振るったが、やはり八瀬里の者は皆文句ひとつ唱えることなくじっと耐えた。
八瀬里の者は皆、ある人物の言葉を頑なに守っていた。
「滋賀里にだけは手を出さぬように」という理不尽にも思える亡き甲一郎の残した遺言。
ただそれだけを、皆が当たり前のようにずっと守っていた。
永遠に不当な日々が続くと思われ始め、八瀬里の誰もが滋賀里の横暴に慣れ始めた頃。
実に甲一郎が倒れてから7年と半月の歳月が流れた時、その事件は起きた。