side b-3
「そういえば、アイツは?」
どうにかこうにか葵を部屋から追い出し、制服に着替えて一階のリビングに降りてきたところ、葵が朝食の準備をしてくれていた。それを見て、いつも通りなら彼女の代わりに俺を起こし、朝食の準備をするはずの妹がいないことに気づいた。
俺は名前を出さなかったのだが、誰を指しているのかはわかったようであった。
「ああ、わたしがあとやっとくって、言ったら学校行っちゃったよ」
そんなことだろうとは思ったが……薄情なやつだ。アイツが残ってくれていたならばこいつもあんなことはしなかっただろうに。
「ささ、早く食べちゃって。二時間目に間に合わなくなっちゃうよ」
にっこり笑ってコーヒーカップを皿の脇にコトリと置いて、向かいの席に座る。俺もトーストが乗った皿の置かれた、いつも自分が使っている席に腰掛ける。
こういうところは変わらないんだな。
俺達の関係のため、自分の態度を変えることで折り合いをつけた彼女ではあるが、先程のような時には別人の様な行動をとっていても、こうやって世話を焼くところは変えるつもりはないようだ。変える必要がないと考えたのか、変えることのできない生来のものなのかはこうなってはわからないのだけれど。
「こうやってると、新婚さんみたいだねぇ」
ふぅ。
葵が口を開いたのを見て、コーヒーを口に含むのをやめて、本当に良かった。もしも、あのままカップに口をつけていたら確実に吹き出してしまっていただろう。どうやら早くもこの葵に慣れつつあるようだ。
そして、彼女の発言をオールスルーして話題を逸らす。さっきの今でそんな話をされたら意識しないでいられる自信がなかったからな。
「ていうか、葵はなんでさっきみたいなことをしたんだ?」
必殺、話題転換の『ていうか』を発動! どんな話題からもまるで話が繋がっているかのように転換することが出来る。自分で使っていてなんだけど、『ていうか』と『逆に』を多用する人は他人の話を聞いていないと思う。
露骨に話を逸らしたにも関わらずさして気分を害した様子もなく、俺の話に乗ってくれた。
「だって一輝君、昨日美沙ちゃんと喧嘩したんでしょう?」
思わず舌打ちが飛び出る。
まるで葵の発言に対して舌打ちしたようだが、そうではない。これはそんな大事なことを忘れていた今の自分と喧嘩をした昨日の自分への舌打ちだ。
とはいえ、大した喧嘩ではない。いつも通り俺が考え無しの発言をして口論になった後、美沙が泣いて帰ったというだけだ。
あーあ、学校行きたくねえなあ。
「喧嘩をしていて寂しいんじゃないかなあって思って」
「んな一晩で寂しくなんかなるわけ無いだろ」
「わたしは一輝君に会えなかったら一晩でも寂しくなっちゃうけど」
「……いくらなんでもアピール激しすぎないか?」
いちいちドキドキしちゃうだろうが。
「アピールするのはコンテストの基本ですから!」
「俺はチマチマアピールするよりコンボで稼ぐほうが好きだ」
「あられ+こなゆきとか?」
「あまごい+かみなりとかな」
あと、最後にだいばくはつを撃って逆転するのも好きだったな。
そこで一旦話が途切れ、リビングには掛け時計の秒針が時間を刻む音だけが部屋の中を埋める。時折、サクッと俺がトーストをかじる音すら閉じられた窓を抜けて、外に響いているような感覚すらした。
テーブルの向かいに座る葵は国の行く末を案じる老獪な政治家のような、達観と諦めだけがない混ぜになった表情を 浮かべたあどけない顔を頬杖に乗せて、窓の外に目を向けていた。
「わたしが認めたっていう意味をもう少し考えてくれてもいいのに」
幾ばくか彼女はそうしていたが、ふと、独り言然とした声色で小さく小さく口の中で呟いた。
「ん、どういう意味だ」
多分、それは聞こえた印象そのままにやはり独り言で、俺に聞かせる気など米粒一つ分もないのだろうとそう推測されたが、それ以上にその言葉の真意が気になった。
「んーん、なんでもないよ」
とはいえ、予想違わず、答えてはくれなかった。
まあいいか、そんなに大切なことでもないしとそれ以上の追及をやめた。ついでにカップを呷ってコーヒーの最後の一口を飲み切る。
「そんなことよりさ、確か今日ってフェンシング部遠征だよね」
え……マジで?
「じゃ、じゃあ晴彦いないの?」
美沙と喧嘩してて、葵がこんなにアピール激しい状態で晴彦がいないだと……?
「そー。一輝君は他に友達もいないし、今日は二人で楽しくやろうね?」
そう言って、彼女はどこまでも魅力的な黒く美しい微笑を浮かべたのだった。
はぁー……ようやく昼休みか……。
あれから、二人揃って一時間目の終わる十分前に登校するという大遅刻を決め、谷川先生に怪訝な目で見られたり美沙にものすごい目で睨まれたりした。しかもやましいところがないでもないから謝りにもいきづらいんだよな。
それから、もう峠は越えただろうと思っていたら、そこからが本当の針のむしろだった。葵は本気で「二人で楽しくやろうね」と言っていたようで、休み時間になる度にべたべたべたべたと物理的にも心理的にもひっついてきて、視線が痛い痛い。美沙と付き合っているということが周りに知られていなかっただけまだマシだったが、それでも、同じ部屋の中でこちらを見ながらひそひそ話をされるというのは精神的にかなり来るものがあった。美沙はもうこっちを見ようともしないしな。
授業中もみんなこっちを気にしていて、しかもそれを教師がなんとなく察するので何かにつけて指してくるのだ。
それらを乗り越えて、ようやく昼休み。ため息も出るというものだ。
教科書をロッカーにしまいに行くついでに教室を見渡してみると、美沙も葵もいつの間にかいなくなっていた。二人が連れ立って出かけたのかは定かではないが、もしも一緒なら、怖いことになっていそうだ。
とりあえず昼飯でも食べようかと自分の席に座る。
弁当を取り出して、ふと、顔を上げると笑いが零れた。昼休みの教室は、こんなにも騒々しく眩しいものであったのだな。
その笑いは真っ当な笑いではもちろんなく、失笑とも嘲笑とも違う、単なる苦笑いだ。自分にとって、かつて当然で、しかし忘れていたことを改めて見直すとこんなにも苦々しいものだったのかと、ついつい笑ってしまった。
いや、違うか。苦々しく思ったのは、一人でいた時から失ったものがあるということに気づいていなかった、自分の浅はかさだ。
入学してからまだそんなに経たない頃、美沙とはまだ仲良くはなく、晴彦も違うクラスだった頃、俺は自分とまわりとの違いに打ちのめされ、劣等感に塗れて、まわりを拒絶していた。誰が声をかけてこようとも、それはすべて同情の産物で、俺を見下し憐れんでいるのだと思い込んでいた頃、あの頃もこうやって一人で、昼飯を食べていた。
人がいない場所なんて探せば学校内でもいくつかあるだろうに、俺はこの喧騒を眺めながら、わざわざ孤立していたのだ。なぜそうしていたのかを考えると、それは、俺が嫌だったことは、一人でいることではなくそれを同情されることの方だったからと言える。
だって、その頃の俺はこの喧噪を鬱陶しいと思いこそすれ、眩しいとおもったことなんてなかったのだから。
でも今の俺は、一人でなくなった今の俺は、それを眩しいと、寂しいと思っている。
今更になって、あの時はあの時で悪くはなかったのだなと思う。一人で考え、一人で歩き、一人で過ごすそれも決して嫌いじゃない。
そう、だから、俺は思うのだ。
一人で祭りを外から眺めるのは嫌なことでも辛いことでもない。それでも、一度手に入れた光を失うのは惜しい。
そろそろ、俺も答えを出す頃なのかもしれない。