side b-2
もう考えもなにも吹き飛んで、驚きのままに目を見開いてしまった俺の視界に飛び込んできたものは闇に慣れて、瞳孔が開いた目で見ても、やっぱり俺に馬乗りになっている葵だった。
「あー、やっぱり起きてたんですねー」
俺の体の上で、幼馴染は薄く微笑みを浮かべながら白々しくもそう言い放つ。
もう彼女は俺の頭の横に手をついておらず、体を起こしているから、密着度としてはそんなに高いものではないのだが、如何せん乗っている場所が場所だ。どことは言わないが、デリケートな場所に近い。
久しぶりに来ていきなり何をやっているんだとか、起きていることに気付いていながらやっているとはどういう了見だとか言いたいことはたくさんあるけれど、どう考えたってそれらはこんな、不純異性交遊じみた体勢で話すことではない。それ以前にこの状態で話すことなんて、純潔を守っている俺には思いつかない。
「とりあえず降りろ」
寝起きをいきなり覚醒させられた上に、一応彼女がいる身なので、結構きつい口調になっていたと思う。それなのに、彼女はむしろ微笑みを深めて、もう一度、手をついて、ほとんど密着同然まで覆いかぶさって来た。
「起きていたのに、手をついた時点で起きなかったってことは期待してたんじゃないの?」
痛いところをついてくる。
いや、決して、断じて、期待などしていなかったのだが、ただキスされてもなかったことにできるんじゃないかと考えていただけだ。もちろん、修学旅行の夜のことなんて考えていない。
「一輝君のことだから、寝たふりをすれば知らなかったことにできるとでも考えてたんでしょ」
いつから俺の幼馴染はこんなに悪女になってしまったのだろう。ついこの間まではもう少し、黒さ割合が少なかったと思うのだが……。いつの間にこんなに黒くなっちゃったの? もう真っ黒だよ。出ないと目玉をほじくるよ?
今がどうとかは置いといても昔から少し黒いところのある奴だったのには間違いない。それが成長につれて割合も隠せる範囲も大きくなったとすれば決して不思議ではない。それにこうして見せるようになったっていうのは、ある意味本音をさらけ出してくれているようなものなのだからむしろ少し嬉しい。イベントを全部見終わったと思っていた攻略キャラがエンディング後の追加要素でイベントが増えた、みたいなわくわく感がある。別に今まで攻略していたと意味でもこれから攻略するという意味でもないからな。
とはいえ、いきなりどうしてこうなったのかは気になるところだ。
「お前、黒さ割合が増えすぎてないか?」
「だって今までのわたしは振られてしまったわけでしょう? だったら違う人間として攻めるしかないじゃないですか」
その声は、隠そうとはしていたがしかし、不安そうな色が混じっていることを感じた。
つまり、それが彼女にとっての折り合いのつけ方だったのだろう。
今まで修学旅行からの二か月弱、修学旅行の前と同じように楽しく過ごすことはできた。それは俺の独りよがりではきっとない。
しかしてそれは、楽しいだけだったのだ。俺達四人集まって、ただクラスメイトとして、仲良しグループとしているだけならなんの問題もなかった。お互いがお互いの変化をフォローし続けたから。
でも、そのバランスも四人から一人欠けた時、二人欠けた時、そして一人になった時、幾度となく、以前との違いを感じた。
単純な話だ。フォローして、気を遣って、そうやって普段通りでいようとしていることが普段通りでないことを証明している。
俺達の間には溝があったんじゃなく、闇があったのだ。
どうやったって俺たちの違和感は拭えなかった。見ないふりをするのは簡単だったけれど、それでもやっぱり俺たちはこの関係は違うのだと、間違ってはいないにしろ正解ではないのだとそれぞれがそれぞれとして感じていたのだ。
その違いを是正するために彼女は折り合いをつけた、どうにか正解に近づこうとした。関係を変えるのではなく、自分を変えるという方向で。
もう元には戻れないというのならば、変わるしかない。じゃあ、どう変わるか。
その問いに対して最も早く、ひょっとしたら最も簡単な方法で応えた解がこれなのだろう。
解を返さなければ、正解も誤解も訪れない。誰も彼もがわかっていて、でも間違うのが怖くて躊躇っていた行動を彼女はついに取ったのだ。恐らくは、最もいろいろなことがわかっていて、最も大きな違和感を感じていたであろう葵が。
なれば、その覚悟を無碍にするわけにもいくまい。
それは今までの場所からさらに遠ざかる行為ではあるけれど、今までとは違う正解に近づくための行為なのだから。
とはいえ、さすがにこの格好は困るのだが。
「なあ、とりあえずそれは分かったから、どいてくれないか?」
正直この状態が気付かれていないかと、かなり不安なのだ。いや、朝の生理現象なのだから仕方ないんだよ? でも誤解を招くことは間違いない。
「だめだよ。だってまだキスしてないもん」
「……おい待て、ちょっと待て! 冗談だろ!?」
「冗談でこんなことできるほど経験豊富じゃないんだけどなー」
こいつが今までに付き合った相手がいないことはずっと一緒にいた俺が一番よくわかっているが、しかし、葵のやり口を鑑みるに、とても男を知らないとは思えない。
そっと、目の前の葵が目を閉じる。コンディションレッド発令! ってレベルだ。このままだと本当に葵はやるぞ。
頭の中に警告音が鳴り響く。……警告音?
「あ! そうだ、おい、時間だぞ! 学校に行く時間だ!」
警告音から目覚ましを連想した俺は、いつもは隙あらば休みたいと思っている学校をダシにする。正確な時間は分からないが、スヌーズがもう切れていることから考えればもうかなりいい時間だろう。
大声を出したからなのか、ひとまず葵は目を開いた。とりあえず、警告を回避。レベルはイエロー。
「もうとっくに遅刻の時間ですよ。だから全然問題なし」
「ありありだ! 赤ドラ食いタンだよ!」
「わたし食いタンはちょっと……。金の箸とかセンスのかけらも見えません」
「漫画版では持ってないから大丈夫!」
その代り、食べたものを自在に消化吸収排泄できる変態だけどな!
「大体、週に一回は遅刻してくる人がこういうときだけ気にするのは卑怯だよ?」
こんなことなら毎日ちゃんと朝起きればよかった!
言い訳を探す前に起き上ればよいのだが、葵はどうやら本気で決行しようとしていたらしく、仰向けで体に沿って伸ばしていた腕のちょうど抑えるように膝を置いているから、俺が抜こうとすると体重をかけてきて、抜くことができない。
そのまま起き上れば、葵の顔にぶつかり、まるで自分から行ったようになるし、腕でどうにか持ち上げようとしたらやっぱり葵の顔がこっちにくる。それに毛布越しにではあるが、いろいろと触れてはいけないところを触ってしまう気がする。
「あれだ、出席日数が!」
「月曜の一限は数Ⅱでしょ。週に四時間もあるし、ほかの三時間は午後だから大丈夫だよ」
あーそんな構成だったから数Ⅱはいつも眠かったのか。今だけは一級睡魔召喚士である谷川先生が恋しい。
「いや、そんなことしたら一時間目なんかじゃすまないかもしれないし!」
この発言は取りようによっては乗り気であるように聞こえるかもしれない。
「なんなら、一日休んで最後までしちゃう?」
「あおいいいい!」
ダメだろその発言は!
年下の弟分をからかうお姉さんみたいな発言しやがって! それ、フラグだから!
俺があまりの混乱に叫んで、葵から顔を背けてしまったところで、彼女は肘を折ってさらに体を密着させてくる。
そして、耳元で囁く。
「修学旅行の夜、覚えてるでしょ?」
耳元に生暖かい吐息がかかる快感と、あの時の記憶が全身に全身鳥肌を立てる。
覚えてる。覚えてるから絶対に受け入れられないんだろうが!
そして、多少のリスクは覚悟して彼女の下敷きになっていた俺の腕に力を籠め、布団ごと葵を持ち上げようとする。
その動きは予想していなかったのか、意外にも簡単に浮いた足の下から腕を抜いた。申し訳ないことに葵は顔を俺の側頭部にぶつけたようで、耳にやわらかく濡れた感触が当たるとともに「ふぎゃ」という声が頭の中に響く。
そのまま葵を抱きしめるような形で、体を起こす。残念そうな顔をしている葵を尻目に大慌てでベッドから降りる。
「助かった……」
さらなる追撃を警戒する意味を込めて、きちんと直立不動の体勢で待つ。
葵は乱れた制服も直さずに、うるんだ瞳で俺の全身を見回す。
「やっぱり期待してたんじゃない」
少し拗ねたように、だが、少しうれしそうにつぶやく。
「なぜそんなことがわかる」
「それは…………見ればわかります」
今度はあからさまに恥ずかしそうに、そっぽを向きながら答えた。
その反応を見て、俺は目を瞬かせた。しかし一瞬も待たずに体の違和感に気付く。
そりゃ、布団から出れば一目瞭然ですよね。