side b-1
朝というのは誰にとっても始まりである。
それは、暦上一日の始まりが朝、というどこまでもしっかりとした概念が存在するから仕方ないことで、いわば世界の法則であるといえる。
しかしながら、それだけの確固たる概念に支えられた朝であるが、一日の始まりという以外の意味では人によって様々な意味を持つ。清々しい朝や永訣の朝など、同じ朝ながらそこに感じるものは十人十色だ。
そして俺にとって、朝とは忌々しいものだった。
特に、こういう晴れた冬の朝はどこまでも忌々しい。
寒い外気の中になんか出ていく気はないというのに、雲一つない快晴の空に輝く太陽は、日射量だけはいっちょ前に減らしているくせに薄いカーテンなんてものともしない眩しい光を俺に浴びせてくる。その上、大陸から吹き付けてきた季節風が日本の背骨に湿気を置いてくるせいで乾燥した、突き刺すような風が家の外には吹いている。雨の日の方がよっぽど気温は低いが、湿気があるだけで随分とマシな気がするものだ。雪が降るとテンションあがるしな。
朝、目覚まし時計が鳴ると、俺はひとまずそれを止め、もう一度微睡む。スヌーズ機能におんぶにだっこな生活をしている俺はもうこんな風に何度も目覚まし時計が鳴るのを止めては微睡み、止めては微睡みというのを繰り返さねば起きれない体となってしまっていた。
しばらくそれを続けていると、俺もだんだんと意識が覚醒していき、窓から差し込む光を無視できなくなったところで目を覚ます。恐らくこの光がなければいつまでも気持ちよく幸せに微睡んでいられると思うのだが、同じことを考えているのかどれだけ頼み込んでも親は絶対に遮光カーテンを買ってくれない。
しかし、目を覚ましたところで誰が好き好んで温かい布団の中から出るというのか。少なくとも俺は出ない。だから、こんな風にして布団の中でぬくぬくしながら益体もないことを考えているのであった。
あーやばい、極楽ってこんなに身近にあったんだな。これって悟りってやつじゃね?
とはいえ、そんな極楽も長くは続かない。悟ったものだけが身を置ける極楽において瞑想をしている俺を堕楽させるため、マーラ――という名の妹が俺を布団の中から引きずり出しに来るのだ。らめぇ! そんなにしたら入滅しちゃう! いや、そもそも堕落しているのは俺なんだけどな。
ついに奴が来たか。耳を澄ませてみればパタパタとスリッパで階段を駆け上がる音。しかし、その足音はいつになく忙しなく、なんだろう、違和感と既視感と嫌な予感をごった煮にしたようななにかが俺に降りてきたよ。
ドアの向こう側で足音の主は立ち止まる。少しの間隙。
……逡巡、だろうか? 俺の中で嫌な予感はストップ高で膨れ上がっていくばかりだ。
カチャっと慎重に扉のノブが捻られる。そろそろと、おずおずと誰かが部屋の中に入ってきた。その挙動は毎日毎日たとえ安息日である日曜日だったとしても俺の惰眠を妨害しにくる、兄を舐め腐ったあの生意気な妹のものでは決してなかった。すると、他に俺を起こしに来る人物なんてそんなに候補があるわけではない。
母親はこの時間にはとっくに朝ご飯も昼の弁当も作り終えて近所の公園に太極拳だか乾布摩擦だかをやりに行っているし、父親は基本的に夜型の生活をしているからこんな時間に起きているなどありえないし、さらに言うなら起きていたとしても部屋から出てこないだろう。同じ家の中にいるのに一週間一度も会わないなんてこともざらにあるくらいだ。どれだけ引きこもっているかわかるだろう。そもそも父親の中には学校に遅刻するから朝起きなければならないという概念がまだ生きているのか?
家族という選択肢が除外された以上選択肢は一つしかないだろう。というか両親の可能性をつぶす以前に一番可能性が高い人物がいたからな。
しかし、最近はずっと来ていなかったんだけどな。具体的には修学旅行が終わったあたりから。
俺の部屋に入ってきたジェーン・ドゥはしばらくドアを開いたそこで佇んでいたが、俺が寝ていると見るや、ベッドの脇まで寄ってきた。仰向けで目をつむっている俺の顔の何が面白いのかは一切わからないものの、また彼女はそこで立ち止まった。
彼女も修学旅行以降思うところがあったのだろう。それは、振られたから行きづらいということだったのかもしれないし、友人に気を遣ってのことだったのかもしれない。
なんにしろ、その理由は俺の知るところではないし、知るべきことでもないだろう。なによりも誰よりも当事者たる俺はそれにふさわしくない。正直言って、いろいろと背負わせてしまっているようで少しばかり心苦しい。とはいえ、俺にできることはほとんどない。
というわけで、ひとまずは流れに身を任せることとする。
俺にできることがないのなら周りがすることに流されるしかあるまい。
何もしない覚悟を決めた俺が姿勢はそのままに、心の中でだけ居住まいを正して待っているとすぐ横で動こうとする気配を感じた。一層、気構えだけを整えようとしたところ、不意になにかが枕の横に置かれるような音がして、なにかが覆いかぶさって顔にあたっていた忌々しき日光を遮って日陰にする。目蓋の裏の闇が濃くなって、少し安らかな気分になった。
だが待て、おい待て、これはなんか経験のある流れじゃないか?
確かあの時は、起きなければキスするとかなんとか……。
まずい、これはいろんな意味でまずい。主に浮気的な意味で。
いや、いっそ完全に狸寝入りしてしまえばこっちは完全な被害者ということにできるんじゃないか。
理屈としては通るだろうが、こいつがすでに気づいていたらどうする。そのうえで決行してきたらどうする。
いろいろ考えてみたが、そもそも目を開けてしまえばいいのではないか? そうすれば、前回の流れは阻止できる。どうせもう眠ることなんてできないだろうからな。時間的にも流れ的にも。
さあ、目を開け……る……ぞ……?
思い切って目を開けようとした瞬間、こいつはなんと、寝ている俺の腹のあたりに馬乗りになってきやがった!
「おい! なにしてやがる!」