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「ごめん、待たせたか」
コーヒーショップで窓の外を眺めながらボーっとしていたわたしに声をかけてきたのは白いジャージ上下に大きなエナメルバッグを肩にかけた男。運動してきた直後なのか、甘く涼やかな制汗剤特有の匂いを振りまいている。わたしの隣の、一時間ほど前まで幼馴染が座っていた席とは逆側に荷物を置いた。
「まあ、遠征だから仕方ないでしょ」
「悪いな」
その男――谷中晴彦はわたしの一応の気遣いに軽く笑って、財布だけを持ってカウンターへ向かった。なにをするでもなしに彼が戻ってくるのを待っていると、ふと、これから話題に上がるであろう今日一日自分たちを遠巻きに眺めるだけであったあの少女のことが思い遣られ、それと同時に、わざわざあの男と会うためだけにこのコーヒーショップから幼馴染を見送らなければいけなかった事実を思い出し、少々ささくれ立った気持ちになった。結果として、彼が自分の分も含めた二杯のコーヒーカップをお盆に乗せて持ってきてくれたことに、素直に礼を言う気にはなれず、つっけんどんに一言「どうも」というだけに留まった。そんな失礼な態度に対しても彼はただ笑うだけだったことになんとなく反発を感じて、理不尽ないらいらは募っていった。
そんな状態だから、わたしは相手が呼び出したのだからと要件が議場に上がるまで、おごってもらったコーヒーを飲む以外には全く口を開かなかった。いつものなら相手の意図を読み相手を気遣って、話しやすいように自分から切り出しきっかけを作ろうとしたりもするのだが、今日に限ってはそんな気には到底なれない。むしろ、彼が話の糸口がつかめないまま流れてしまうことを望んでいたくらいである。しかし、そう時間もたたないうちに彼は話を始めてしまった。
「……正直ちょっと悪かったと思ってる。こんなことやらせちゃって」
「さっきから、謝ってばっかだね」
さんざんイライラしておいて、実際に謝られるとなぜか溜飲が下がるというよりもどこか居心地の悪さを感じた。だから、相手に態度を明確にすることなく適当に流してしまう。そんな心中を知ってか知らずか彼は煮え切らない態度のわたしに明言を求めるかのように黙って視線を向ける。その視線に、もともと居心地の悪さもあったわたしは少したじろいでしまい、視線を合わせることができず、そっぽを向いた。
それから、いつもなら気にすることもない沈黙に耐え切れず口を開く。
「まあ、わたしは一輝君に好きになってもらいたいだけであの二人が別れてほしいわけじゃないから」
言ってから、むぅと口からうめき声が漏れる。そっぽを向いていたのに、彼が本音を漏らしたわたしに爽やかに微笑んだのがわかったからだ。それにこんな簡単に言わされてしまったわたし相手にもブーイングを挙げたい気分だった。
「それはよかった」
わたしはよくない。私の半生をなんだと思っているんだ。抗議の意味も込めて恨み言を漏らす。
「これで人生歪んだら、あなたのせいですからね」
「責任は取れそうにないな……」
「谷中君に取ってもらう責任なんてないです」
責任なら一輝君にとってもらいたい。というかとるべきだ。いつか一輝君が誰かに刺される日が来そうなのがちょっと怖い。むしろわたしが刺すまである。
それから、興の乗ってきたわたしは彼からこのことを頼まれた時から思っていた単純な疑問を投げかけてみることにした。
「それで、わざわざこんな綱渡りっていうか神頼みするようなことでいいんですか? なんならもっと直接干渉することだってできたでしょ」
今回、彼のフェンシング遠征の日取りが決まった直後に彼から連絡があり、彼のいない――つまり、一輝君にとって逃げ場のない状態でどうにか二人に発破をかけてほしいと頼まれたのだった。実際その時はうまいこと丸め込まれてしまって具体的な目標についてわたしはほとんど聞いていなかった。
「ああ、俺たちみんなが幸せになるためにはやっぱりこうしなきゃダメだと思うんだ。まあ、ほかの方法は試してないから一概にダメとは言えないけど、できるだけ俺たちの、他人の手を使わずにアイツらが気付くことが大事なんじゃないかと」
「気づくって、なにに? 付き合うことは後ろめたくないってこと?」
「それに近いな。後ろめたくないっていうか……とにかくアイツらには自信を持ってほしいんだよ。一輝も榎本さんも振ったとか奪ったとかそういうことをめちゃくちゃ気にしてるだろ」
「本人たちは隠してるつもりっていうか、自分たちでも気にしてることに気付いてない感がありますね」
たぶんだけど、彼らはむしろわたしたちが気を遣っていると考えている様に思える。どちらかといえばわたしたちは彼らが気を遣っていることに気付いて、彼らがぎくしゃくしていることに気付いて、対応しようとしていたのだけれど。不器用なカップルを相手にしていると本当に周りの人間は苦労するものである。
「そうだな。だから、二人が俺たちのことを考えて別れるとか言い出さないうちに気持ちを再確認して自信持って付き合ってほしいんだよ」
つまり、一輝君の唯一の友達である谷中晴彦がいない状態から、さらに、いつも男女が二対二であるから安定しているところを崩すことで、ずっと気を遣っているあのカップルが本音を主張できるところまで追い込もうという企みであったわけだ。そこに降って湧いたように彼らの喧嘩の話が持ち上がり、彼らはさらに追い込まれることになったと。
でも、あんまり追い込みすぎて――
「それ以前に、今日のことで別れ話に発展したりしてないといいけどね」
「…………なにしたんだ?」
彼からは具体的方策については任せられていたので、朝からのわたしの行動についてはわたしの独断だ。一応彼にはメールで喧嘩していたことについては伝えておいたし、それについてストップをかけられたりはしなかったのだから、もしも最悪の事態になったとしてもそれは全部谷中君の責任だよね!
「うーんと、順番に追っていくと、朝、一輝君がベッドで寝ていたからせっかくなので上に乗ってキスを迫り――まあキス自体は失敗に終わっちゃったけど久しぶりにいろいろスキンシップを取っていたことで遅刻の時間になってそのまま一限終わりごろギリギリに二人で登校、その後休み時間はずっと一緒にいて、どうやら美沙ちゃんが先に帰ってやることがあるっぽかったから帰りは一緒にここに寄り道って感じかな?」
もしも彼女が一輝君に何かアクションを取るとすればそれは帰り道だろうなと思ったから、ホームルーム終了後に彼女の様子を確認していた。すると、誰よりも早く教室を出て行き、一輝君を一瞥しただけだった。そのことに一輝君は気づいていないようだったけど、たぶん、彼女は家を訪ねるなり呼び出すなりの方法で一輝君にコンタクトを取ったことだろう。
今頃は会えているだろうか。
「別れてほしいわけじゃないんじゃなかったのか?」
「もちろん」
もう一度言うけど、わたしは一輝君に好きになってほしいだけだ。
「普通に浮気しているようにしか聞こえないぞ」
「とはいっても一輝君、頑なに唇は守り切ったからねー。喧嘩中でもそういう意識はちゃんとあるみたいですね」
最初は寝たふりでごまかそうとしていたみたいだったけど。
わたしの報告に彼はとっても不安になったようで、目を泳がせながらコーヒーを啜った。ため息こそつかなかったものの、最悪の事態――つまり彼らが別れることになったらどうしようかと懸念している様子。
そこでわたしは、彼にも本音を話してもらおうとひとつ質問をした。
「でも谷中君はいいんですか? 美沙ちゃんのこと好きなんでしょう?」
私の質問を受けて、彼は一瞬だけ一切の表情をなくした。それから、いつものように、何事もなかったかのように笑う。その表情自体は、いつもと変わりはなかったのだけれど、どういうわけかわたしにはその表情が諦念と清々しさがぶつかり合った結果としてあることがはっきりとわかってしまった。その時点でもう、わたしは彼の質問の答えがわかった。なんのことはない、彼はもう諦めたし、吹っ切ったのだ。
その二つがもたらす結果は結局のところ同じなのだけれど、まったくもって別な、似て非なるものだ。全く違う二つが両立されている。それはつまり、彼はまだ、諦めきれていないし、吹っ切りきれていないということ。しかしながら彼は完全なる過程を経る前にもう結果を出してしまった。終えてしまったのだ。
朽ちてもいなければ、流されてもいない。しかし、もう戻ることはない。
「まあ、恋愛なんてものは友人から奪ってまでするものじゃないしな。新しく好きな人ができるのを待つさ。最終的に男なんてものは、女なら誰でもいいものなんだぜ」
そう嘯く彼の瞳に悲しみが満ちていたように見えたのは、恐らく私の錯覚じゃない。




