六章 元上司達と小悪党共と天使と悪魔
プー、プー……。「全く、いきなり切るなよ」
受話器を執務デスクの上に戻し、副聖王は嘆息した。その後低下した脳内カフェインを補給するため、冷めたコーヒーの残りを啜る。
「あのマイペース振り、流石は君の息子だな」
「そりゃあ光栄な事で」
「褒めてないよ。一杯どうだい?」
返事を聞いた部屋の主は立ち上がり、奥の簡易キッチンへ。秘書兼妻は短期休暇中。そのため、普段は速やかに処理されるデスクの書類の山は、未だ彼等の身長を越えて積み上げられていた。
「やっぱ美希ちゃんがいないと大変だな」
「年末だしね。まぁパーティーには来るらしいし、偶にはゆっくりさせないと」
出勤前に嗅いだ愛娘の甘い乳臭さを思い出し、知らず知らず口元を綻ばせる。
「ところで、この忙しい上司を是非手伝いたい、と言う素晴らしい奉仕精神は無いかい?」
湯気の立つ漆黒の液体をカップに注ぎながら、ソファでだらける部下へ提案する。
「事務処理能力皆無の俺に?ラキス君にでもやらせろよ」
「それもそうだな。―――で、お前は応援にも行かずダラダラしているつもりか?」
「三つ四つの餓鬼じゃあるまいし、あいつなら大丈夫だって」
そう言った数十年来の右腕は、冬にも関わらずパタパタと上司の顔を扇いだ。持ち主の軽薄さとマッチしない、所々修繕跡が垣間見える紅葉柄の扇子で。
「遅いですね、シャーゼさん……」
同じ頃、瞑洛の北約九キロ地点。名も無き山の麓。
寒空の下、堅く閉ざされた石扉をバックに、聖王代理兼不死王はパイプ椅子の上でそう小さく呟く。褐色の編み上げブランケットを膝に掛け、両手に温かいホットミルクのマグカップを持って。
「預かり物もあるのに……」
隣の椅子を見やる。座面に置かれた透明なラッピング袋には、ツリーや飾り物の形に抜いた色鮮やかなアイシングクッキーが入っていた。
「大丈夫、部下にさっき手紙を出させた。もうすぐ迎えに来てくれるさ」
木の棒で灰を脇にどけ、新たな薪を焚き火に足しながら、誘拐犯はふてぶてしい笑顔で答えた。火中に吊り下げた薬缶を外し、四人分のインスタントコーヒーを淹れる。
「済みません皆さん。私だけ先に頂いてしまって」
「いやいや!お嬢さんはユアン・ヴィーの大事なお友達なんだから、これぐらい当然のおもてなしだよ」
「もう一杯淹れてやろうか?」
「そう遠慮せずに、俺達とゆっくり待とうじゃないか」
言いつつ三人はボスに目で合図を送り、大人しい人質を置いて遺跡の前へ集合。
「若造め、一体何もたもたやっているんだ!?」「いつも俺達をノロマだグズだと散々馬鹿にしているくせに!」
小声で悪態を吐くバラック・ビータ。そのカップを持っていない方の手が、隣にいた部下Aの背中を叩く。
「おい、ちゃんと入れてきたんだろうな手紙は!?」
「ええ、人目に付かないように気を付けながら郵便受けにバッチリ」
その返答を聞き、部下BとCが首を傾げる。
「もしかして奴等、まだあれを見ていないのか?」
「誰か街へ戻って、電話掛けた方が手っ取り早いんじゃ……」
「馬鹿野郎、んな間抜けな真似が出来るか!?」
ボスが反対する中、同調したAも交え、三人で口々に意見し始める。
「だって旦那。あんな如何にもか弱そうな女の子、何時までもこんな寒い所に置いておけないぞ」
「風邪引いて熱でも出されたら大変だしな」
「それにあの子、ユアン・ヴィーのイロにしては信じられない程性格の良い子じゃないか。あんな純真無垢な子を騙すのは気が引けるよ」
「そうそう。今時絶滅危惧種だよな、あんな優しい子。反抗期の娘に爪の垢を飲ませたいぐらいだ」
「お前の所もか。俺も家に帰る度にカカアと組んで虐められてさ……」
「何だって女子供には宝探しのロマンが分からないんだろうな」
途中から話題が家庭問題にすり替わっているが、いつもの事なので誰も突っ込まない。
一方、人目を気にしなくてよくなった悪魔は、拝借した聖者の唇を歪めつつ開いた。
「―――ケッ、人間共め。何触ったかも分からねえ黴菌だらけの手で、俺のまーくんにベタベタ触りやがって……」
忌々しそうに砂を吸ったブランケットへ掌を擦り付ける様に、先程までの天使の影は微塵も無い。あるのは子供のような独占欲と、持ち物を侵害された憎悪。最も恐ろしいのは、彼の人格からは内省する正気すら失われて久しく、更正の余地はとうに無いと言う事だ。
ようやく仮消毒を終えて手を置き、血のように真っ赤な瞳を鈍く輝かせた。
「後三十分して給金泥棒の奴が来なかったら、取り敢えずあいつ等皆殺しにするか……どうせ死ぬのが少し早まるだけだ、どいつもこいつも……」
ニヤリ。
「―――だから精々楽しませてくれよ、ピエロ共。それがお前等がまだ生かされている、唯一無二の理由なんだからな……」