序章 紙面上の恋人達
※この話は『風十篇三 秋扇』の続編です。本編を読む前に、そちらを御一読頂く事を推奨します。
ギィッ、バタン。「戻ったぞ」
毎度懲りずトラブルに巻き込む同級生のニヤけ面を思い出していたせいで、幾分怒気の籠もった声になってしまった。慌てて咳払いし、こんな遅くまで自分を待っていた愛妻を見やる。
「……チッ。何だ、寝ているのか……」
肩まで毛布を掛けてソファに横になり、安らかな寝息を立てるオネット嬢。その細く艶やかな黒髪を梳き、イディオ警部は絨毯の上に膝を着いた。
「全く、風邪を引くぞ……?自分の体調管理もロクに出来んのか、小娘が……」
そう悪態を吐きつつ、寝具ごと軽い身体をそっと抱え上げた。柔らかさの一切無い、人形のような平坦な胸に耳を押し当てる。病弱な心臓の拍動を確かめ、無意識に安堵した。
カツ、カツ、カツ……手摺りを付けたばかりの階段を昇り、二階の寝室へ。
「着いたぞ」
ギシッ。ダブルベッドに妻を横たえ、纏った毛布の上から羽毛布団を掛ける。ここまでやれば流石に大丈夫だろう。
サイドテーブルのランプを点け、一日の土埃と汗で汚れたスーツを脱ぐ。下着姿になり、無意識に眉間へ皺を寄せた。
(何度見ても趣味の悪い寝巻きだ……)
出勤前に椅子へ掛けたパジャマを広げ、反射的に舌打ちが出た。
結婚指輪以外の揃いが欲しかったらしく、妻が無断であの馬鹿トレジャーハンターと買って来たブツだ。胸にはデカデカと猫のプリント。おまけに背面にも御丁寧に「I LOVE CATS」の刺繍入りときている。凡そ神経を疑うセレクトだが、折角のプレゼントで着てやらない訳にもいかぬ。洗濯に出す度、メイドが何か言いたそうな視線を向けてくるのが不愉快極まりないが。
―――良かった、サイズがピッタリで。とっても似合っていますよ、イディオさん。
「こんな物を着せて満足するのか。つくづく変な娘だな、お前は」
選りにも選ってペアルックなど、自分には一生縁の無い言葉だと思っていた。ましてや結婚。それも子が産めぬどころか、下手すれば明日の命さえ危うい女とのなど……。
「飯を食ってくる」
着替えてそう一声掛け、再び階下へ。
案の定、ほぼ手の付けられていなかった二人前の貝のピラフ。それを塩分控えめのレタススープで流し込む。以前は帰宅後泥のように眠っていたが、今は多少なりとも身体を気遣うようにしていた。万が一病気になって収入を失いでもしたら、即夫婦共倒れだ。
完食後歯を磨き、顔を洗って寝支度終了。そこまでやってドッと疲労の出た警部は即座に二階へ上がり、愛妻の横へ潜り込む。
スヤスヤ熟睡する彼女を、正面から抱擁。体温の低い身体を少しでも温めようと腕へ力を籠めた。かつて弱かった自分が、幼くして喪った両親にやって欲しかったように……。
「……お前だけは何処へも行くなよ――――オネット」