第61話 プロポーズ
ロイとしばらく止めどもない会話を綴ったあと、わたしは夕暮れに早くも食事を終えて防寒着に着替えた。
フランシアと違って雪国であるだけに、室内にいても物凄く寒い。
気温が0度を上回る時間より下回る時間の方が多い日もあるらしく、トト村に出発するため外に出ると肌が凍りつきそうだった。
それでもわたしが浮足立っていられたのは、生まれて初めてオーロラを見物できると知っているからだろう。
そうでなければ夜に城を飛び出して北方へ向かうという狂気の沙汰には及ばない。
王都を出発して1時間ほど。
針葉樹の樹海を抜けてやっと到着したのは、ロイの言うとおり10軒ほどしか家が建っていないミニ集落だった。
近代化が進む王都と異なるその村では道は舗装されておらず、家も煉瓦などより木造が多い。
ロイ曰く、ここらの建物は100年前のハインリッヒで見られた伝統的な造りなんだとか。
これはこれで趣があっていい、と窓から集落の明かりを眺めていると、やがて馬車は集落の明かりが見えない丘の上で止まった。
ロイにエスコートされながら降りると、そこは地面ではなく雪の上。召使の者にカンテラで足元を照らされて初めて辺りが銀世界だと知る。
一歩を踏み出すたびに『ズブッ』と長靴が地面に食い込む音がして、童心に帰って遊んでいるとリサにさえ笑われてしまった。
ちなみに彼女にもオーロラのことを説明すると、「是非!」ということで付いてきたのだ。
「ほら、リミューアから見て右上のアレ」
ロイが指差した先には、なんと上空を通り過ぎる何本もの光の列があった。
光りのカーテンとも揶揄されるオーロラだが、現物を見てまさにその通りだと実感する。
波のようにゆらゆら揺れる緑色の光の筋。
はっきりと見える光の本数は4本ほどだが、その周辺には薄っすらと緑色の光が滲んでいる。
光の筋の外側に行けば行くほど色は薄くなり、逆に中心に近づけば近づくほど濃い緑の輝きを見せる。
「すごい!」
初めて見た光景に感動を隠せない。
シャーマリスは緯度が低すぎて雪さえ降らないような環境だから、ちょっとハインリッヒの生活が羨ましくさえ感じる。
そんな時、そっと背後からロイに抱き寄せられ、幻想は頂点に達した。
「お気に召したか?」
「ええ!シャーマリスでもフランシアでもこんな光景見れないから……。ねえ、またここに来てもいいかしら」
「いつでも。今度といわず、我が国で暮らすと言ってくれれば毎日見せてやれる」
「え?」
ギュッと背後から抱き締められ、思わず胸が熱くなる。
遠回しに言って来ているのかな、なんて考えていると、周りから人がいなくなっているのに気づいた。
さっきまでロイの侍従も召使もリサもいたというのに、姿が見当たらない。
「ロイ、周りに――人がいないわ」
「俺が離れるよう命令した」
「何で?」
訊くまでもない質問。
彼は意を決した様子で懐から小さな箱を取り出すと、それをわたしの前に差し出した。
――指輪だった。
「俺と結婚してくれ。リミューア」
一瞬、時が止まったかのようだった。
オーロラの幻想的な光に照らされるリング。見る角度を変えると宝石の部分がキラリと光り、美しい輝きを見せてくれる。
最初は遊びのつもりだったロイとの不倫。
単に心の傷を癒してくれる人がいたから付き合ってみただけ。そんな我儘はいずれ罪となって我が身に帰ってくる。
いつまでもズルズル関係を引きずっているうちに、もう抜け出せないような泥沼に達していた。
「俺はあなたのことを愛している。こんな言葉を使うと気障かもしれないが、絶対にあの男よりも幸せにしてみせる」
あの男――
その瞬間、指輪に手を伸ばしかけていたわたしは我に返った。
「わたしには……ウィルズがいるわ」
「自分の妻を信じず疑ってかかるような男が夫か?」
「それでも……」
政略結婚なんだから仕方ない、とは辛うじて言わなかった。
もしそんなことを口にしてしまえば、ロイはわたしの祖国に行き、同盟の乗り換え交渉をするに決まっている。
そう、フランシアとシャーマリスではなく、ハインリッヒにするように。
「俺はあの男みたいに物事を全て利益・不利益で考えたりしない。ウィルズに比べ、少なくともリミューアが理想とする人物像に近いはずだ」
たしかにそうかもしれない。
ビジネスライクで仕事人間の夫と違い、ロイは柔軟な考えと対応の仕方をする。
でもウィルズにはあってロイには無いものだってある。そんな気がするのだ。
「あなたは子供を身籠っているが、もしこの手を取ってくれるというのなら俺が責任を持って育て上げる。何なら将来の王に据えてやってもいい」
「でも、」
「リミューア」
今、わたしは究極の選択を迫られていた。
ロイを選べば、わたしはきっと将来何一つ不自由なく暮らせるだろう。
きっと彼ならお腹の子供も大切にしてくれるだろうし、それにこの国は異国者に対して寛大で、むしろフランシアにいる時より居心地がいい。
だが本当にそれでいいのか――
彼の手を取ることが本当に幸せなのか――
わたしは昼間にロイから言われた言葉を思い出していた。
『自分が幸せだと思う方を選べ』
ウィルズかロイか。
どちらを選ぶかはわたし次第。自分が幸せだと思う方を選択すればいいだけの話。
だからこそ難しい。
――いや、答えなんて最初から決まっていた。
難しいと考えるのは、どうやって自分自身に打ち勝とうか悩んでいるからだ。
もう迷っていることはできない。
これで全てに区切りをつけなければいけないのだ。
「ごめんなさい」
わたしは指輪を拒んでいた。
「わたしにはウィルズはいる。だから――」
「――そうか」
パタン、と指輪の入ったケースが閉まる音がした。
後悔はなかった。
「出過ぎた真似をして済まなかった。どうか許してくれ」
ロイは右足を一歩後退させると、こちらに向かって貴公子の礼を見せる。
そうだ、これでいいんだ。
自分がとった選択だ。もう引き返せない。「やっぱり」という言葉は二度と使えない後戻りできない道にわたしは足を踏み入れた。
だけど今回は不倫の時と違って正しいと思っている。
あれだけ言い放っておきながら、まだ心ではウィルズのことを愛している。
銀世界が沈黙に包まれたそのとき。
「ロイ王子殿下は何処ー!!」
突然、森の方から馬蹄音が聞こえてきたかと思うと、数名の騎士の男が明かりを馬体に吊り下げてこちらに走って来るのが見えた。
早馬らしい。
「ここだ。どうした」
「ああ、殿下!至急城までお戻りくださいませ!」
「今は忙しい。仕事ならやらんぞ」
「そうではございません!フランシアからウィルズ王子殿下がこちらに!」
その瞬間、わたしたちの身体に電気のようなものが走ったのがわかった。
ロイは油の切れた機械のような動きでこちらを見ると、残念そうに「そうか」とだけ呟き、わたしを連れて馬車に戻る。




