第56話 ハインリッヒへ
「ハインリッヒに行くって、正気ですか!?」
私室に帰ったわたしは、すぐさま女官にハインリッヒへの渡航準備を命令した。
理由はもう言うまでもない。
せっかく2か月ぶりに帰ってきたというのに、またすぐに出かけると知ったリサは心底驚いた様子でわたしにそう問い詰めてきた。
「もうあの人のところにはいられないわ。だから彼のお望み通り出て行くの」
「執務室で何があったのかは察しかねますが、さすがにそれは――」
「今になってもまだ犯人扱いしてくるのよ!?信じられない」
「お言葉ですが、やはり不倫の件が効いたのでは?」
わたしがロイと密かに交際していたことはリサも知っている。
それを見逃してくれた優しい彼女に反抗する権利はないはずなのに、わたしは首を横に振ることしかできない。
「たしかにそれはわたしが悪いわ。でも考えてみて。『ごめんなさい、もうしません』って謝って許してもらったとしても、会う度に犯人扱いされたらたまったもんじゃないわ」
「そうですけれど、今しばらく御考え直しいただくことはできませんか?」
「リサ。助けてもらった身でありながらこんな事を訊くのはアレだけど、あなたはどっちの味方?」
こんなことを問う権利は無いのは分かっている。
リサは重いため息をつくと、わたしの手をそっと握った。
「わたくしめはいつまでも姫さまの味方です。しかしながら本件をわたくしめの主観で判断した時、イジワルされたからといってロイ王子殿下のところに赴くのはやや早計」
「じゃあどうしろっていうのよ。わたしには赤ちゃんがいるのよ?この子まで犯罪者扱いされちゃう」
自分が罵られるだけならまだいい。
だけどなんの罪もない我が子が、ましてや親から猜疑の目を向けられるなんて耐えられない。
それならいっそロイのところに亡命した方が何千倍もいい。
泣きながらそう告げると、リサはやむを得ずといった様子で首肯した。
「わかりました。すぐに用意いたします。……ですが連絡も無しに急に押し掛けて大丈夫でしょうか?」
「その点はちゃんとロイが手を打ってくれてあるわ」
わたしはピンク色のトランクを開けると、中から一通の手紙を取りだした。
「なんですか、それ」
「亡命許可証よ」
裁判終結の日、ロイと別れる際にこんなことを言われた。
「万が一またリミューアが不利な立場を強いられる時があったら、これを使うといい。亡命用のビザだ。これさえあればどんな事情でも国境を通過できる」
ロイは「俺が安全を保障する」とも述べた。
通常はあらかじめ早馬でも用意して国境の連絡員に伝え、事前に連絡をとってから異国に行くのが道理。
でも場合によってはそうもいかないときがある。
その際に使われるのがビザ。
特段の事情がある場合のみ大使館が発給してくれるものだが、ロイは王室権力でそれを裏ルートで手に入れたらしい。
これさえあればいつだってハインリッヒにかくまってもらうことができる。
その日の夕方。
わたしはわずかな手勢を率いてハインリッヒ王国へ出発した。




