第25話 安産祈願
わたしとメリッサの妊娠が発覚してしばらく。
窓から見えるシルヴァ山脈の頂上付近はすっかり雪化粧して、笠をかぶったかのように白く染まっている。
気温もかなり低くなり朝起きるのが苦痛になるこの季節。
庭園の木々が色づき始めた10月の中旬辺りにウィルズと紅葉狩りに行こうと約束していたのだけど、具体的な日時を決めずゆったりしている間に葉は空しくも散ってしまった。
そんなある日の寒い夜。
いつものようにウィルズの執務室を訪れたわたしは、彼の部屋に入るや否やとある異変を感じた。
――なんと夫の執務机が綺麗に整理整頓されていたのだ。
普段から仕事はできるものの、お片付けスキルが3歳児並みの彼は決済を終えた書類を重要かそうでないかに関わらずそこらにポイしてしまう。
書類だけでなく読み終わった本や棚から取り出した道具もまた然り。
そのためわたしが毎日こまめに彼の部屋を訪れては身の回りの片付け等々を担当していたというのに、今日はどうしたことか机の上にキッチリ書類の山ができていて、文房具も全てペン立てにおさまっている。
それだけではない。
最も大きかった変化というのは、彼の部屋に入った途端に覚えのある髪の匂いがしたことだ。
「旦那さま、今日こちらに誰かいらっしゃったのですか?」
サラサラと書類にサインしていた夫は、黒椅子をこちらに回転させて「うん」と笑顔で答える。
「よくわかったね」
「女の勘というやつでしょうか」
机の上には見知らぬ食べものが置かれている。
黄色くて丸いやつがいくつかと、長方形で紫色の菓子?っぽいもの。皿の端にフォークが置かれているから辛うじてそれが菓子なんだろうと認識した。
「それは?」
「ああ、東洋の菓子さ。この丸いやつが『マンジュウ』で、長いのが『ヨウカン』というらしい」
ウィルズは皿の上に乗るそれぞれの菓子を指差して見せる。
ケーキやクッキーを見慣れているわたしにとって、東洋の菓子はなんだか地味な印象を与える。
「さっきメリッサが来て『差し入れに』って持ってきてくれたんだが、これが実に美味い。リミューも食べてみる?」
「い、いえ、わたしは結構です。それより部屋のお片付けは旦那さまが自ら?」
「いいや、メリッサが全部やってくれたよ」
でしょうね。
彼の口からメリッサの名前が出た時点で大体の察しはついていた。
以前わたしがウィルズの執務室を訪れると、同じく身の回りの世話に訪れていたメリッサと鉢合わせしてしまったことがあった。
そのときは引き返すわけにもいかなかったので、気まずい一夜を過ごしたのを覚えている。
後日ウィルズのいないところでお互いに協議した結果、昼間はメリッサ、夜はわたしという具合に呉越同舟しないよう時間が分けられた。
ただ、わたしと違って彼女は毎日彼の執務室を訪れるというわけではなく、一週間に2~3回の頻度で現れる。
できれば毎日通いたいとも言っていたが、フォルニクス家が多くの人とのつながりを持っている分、個人的な夜会やら茶会等に顔を出すのに忙しいらしい。
「なにかお手伝いすることはございますか?」
「今のところないね。強いて言うなら、リミューの淹れた茶が飲みたい」
「かしこまりました」
わたしは踵を返し、テーブルの上に置かれた茶器を用意する。
茶葉は母がわざわざ嫁ぎ先まで送ってくれたシャーマリス王国産のものだ。
農林水産以外なんの目立った産業も無い祖国では、茶葉の生産のみが唯一の有名産業と言っても過言ではない。
お望み通り茶を淹れて持って行ってやると、ウィルズは待ちきれない様子でわたしから奪い取るようにしてカップを手にした。
「うん、やっぱりリミューの淹れた紅茶が一番だ」
「そんなの誰が淹れても変わりませんわ」
「いや、淹れる人によって結構個性が出るよ。意外に」
ウィルズは半分ほど飲んだ茶をテーブルの上に置いて微笑する。
「ではわたしとの相性は?」
「抜群」
ふふっとお互いに笑みを交換する。
こんな幸せな日々がずっと続いてくれればいいのだけど。あいにくわたしの側には少し目障りな女が一人。
ウィルズの手元にある菓子に内心で舌打ちしていると、彼は何かを思い出したようにポンッと手を叩いた。
「ああ、そういえばリミューに伝えておかなきゃいけないことがあるんだった」
「伝えなきゃいけないこと?」
まさか新たな側妃を娶る予定があるとか?
娶るまでに至らなくとも、お見合いとか?
思い切って懸念材料を片っ端から並べてみるものの、彼はいずれの質問にも首を横に振った。
「そんなんじゃないよ。あさってにでもアールニヒト領に日帰りで行こうと思ってるっていう話」
わたしは話に出てきた地名を聞いて目を丸くした。
アールニヒト領というのはフランシアになる前の旧王朝の首都があった場所だ。
当時の王城は焼失して残っていないが、城下だった場所には昔ながらの街並みがまだ残っており観光も盛ん。
しかもそこは軍の要衝としても有名。
シャーマリスの密偵として、兵の配置や地形といった軍事機密を収取するためにも是非連れって欲しい土地でもある。
「ご旅行ですか?」
「あー、まあ詰まる所はそうかな」
珍しくウィルズが釈然としない。
「観光――というより、市内にあるブロイア大聖堂に行ってとんぼ返りするだけだけど」
「大聖堂に?」
「ほら、リミューとメリッサが僕の子を身籠っただろ?だから安産祈願にでも行こうかなって」
なるほど。
ブロイア大聖堂は約500年もの長い歴史があり、聖堂内に置かれている聖母像は安産・健康を司る神を模したものとして知られている。
特に戦乱が多かったこの国では安泰を望む人々による教会への信仰が厚いらしい。
でもシャーマリスの人はとにかく宗教に無関心で、教会に祈りを奉げに行くという彼の行動はわたしにとっても少し特異な感覚だった。
「ではわたしもお伴してよろしいですか?」
もし彼と同行して領地の現状等といった機密を得ることができるのなら、これは棚からボタ餅。
ゆえに自分も連れて行くよう頼み込んだわけだが、ウィルズは苦笑しながら首を横に振った。
「リミューを連れて行ってあげたいのは山々なんだが、昔からの教会には男が一人で行くと決まってるんだ」
「それはなぜ?」
「そんなの僕に訊かれても困るよ。しきたりなんだから」
ごめん、と謝られ、わたしの期待と嬉しさはみるみる萎んでいった。
普通は安産祈願というと本人も行くものなのだが、まあ国が違えば文化も違うのだから仕方ない。
「わかりました」
でも一応気になったのでメリッサにもこのことを伝えてあるのか問うと、是の回答が返ってきた。
「彼女にも一通り説明はしてあるよ。どうしても行きたかったのならまた今度個別に行こう。な?」
「ええ。でもその時はちゃんと日時を決めてからにしましょう。また紅葉狩りみたく予定が流れても困りますから」
「来年ちゃんと連れて行くからその件は許してくれ」
「別にいいですけど忘れないでくださいね。それに、来年の今頃にはこの子もいるんですし」
腹に手を当てて見せる。
まだ膨らんでもいないけれど、何事も無ければ次の夏には出産する予定だ。
ウィルズは微笑ましげにわたしの腹をそっと撫でたあと、「分かってる」とだけ言って仕事を再開した。




