憤怒と冷静
自身よりも圧倒的な強者と正面から相対したときに選択できる行動は少ない。
相手からの攻撃はどれもが必殺の威力を持っているのに対して、自分の攻撃は相手にはほとんど傷を負わせることができないからである。
それは現在のフィリアとシャウラーレニエの関係も変わらない。
一撃でもくらえば致命傷になる攻撃を持ち、さらに圧倒的なスピードを備えたシャウラーレニエという魔物は、魔法使いのフィリアには最悪とも言える相手だ。
今、両者の間にある20メートルという距離などシャウラーレニエの前には無いに等しい。
(とりあえず、まずは撤退すること。このまま正面から戦ってても何にもできない…)
シャウラーレニエの猛攻で、すでに満身創痍と言ってもいい程のダメージを負っているフィリアは、落ちそうになる意識を必死に保って逃げの一手を選択した。
眼前の脅威を観察し、一瞬の隙を探す。
その数追にも満たない膠着状態ののち、先に動いたのはシャウラーレニエ。
地面を抉り、蹴って再びの跳躍。
開いていた距離を一足で詰め、フィリアに脚を振り下ろす。
突き刺さればその場で死ぬことが確定している致死の一撃を前に、彼女は動いた。
「イルヤル ドゥン アルゥ! 幻の霧よ欺け!」
――《イルヤル》 司るは幻惑,《ドゥン》 司るは霧。
魔法の完成と同時にフィリアの周囲に一瞬で霧がたちこめ、彼女の姿を覆い隠した。
しかしシャウラーレニエの行動は止まらない。先程まで彼女がいた場所目掛けて槍の脚を突き立てる。
だがその先に手応えはなく、脚の先は地面に突き立てられているだけだった。
そしてすぐに濃霧が晴れるも、すでに見渡せる場所にはフィリアの姿はない。
逃げられた。
その事実に8つの瞳が憤怒によって真紅に染まり、シャウラーレニエは声を上げながら獲物の追跡を開始した。
◇
シャウラーレニエから逃れたフィリアは今、戦いの場から離れた草陰に隠れていた。
相手の探索網を妨害するために、離脱後すぐに《バンスィ》と《イルヤル》の魔法を使った。
――《バンスィ》司るは妨害。
魔法の発動気配はその前に発動した幻惑の霧に紛れて分からないだろう。
《バンスィ》の呪文でシャウラーレニエの探索網を妨害し、《イルヤル》で気配を掴みづらくしてやっているため、少しは時間が稼げる。
加えて、あの恐ろしい魔物の声は聞こえてくるが、その距離はだいぶ離れてもいる。
まさかここに来た時は洞窟内の広すぎる空間に感謝することになるとはフィリア自身、思っていなかった。
(とりあえずまずは応急手当をしないと)
改めてフィリアは自分の状態を確認してみるが、よくもまぁ今まで生きていられたものだ、と思うほどだった。
深い浅いの差はあれど、体中に擦り傷と打撲の痕。左の鎖骨にはひびが入っているだろうし、右足は火傷で動かすのもやっとといった状態。
普通ならばこんな傷を負った時点であの大蜘蛛に殺されていてもおかしくはなかっただろう。
フィリアは極度の緊張と傷による疲労から、小さくも荒い息を吐きながらアイテムポシェットに手を伸ばす。
そうして中から下級治癒薬と魔法薬を取り出して、ビンの中身を一気に煽る。
治癒薬と言ってもランクが低いため、完全には傷を癒すには至らないが飲まないよりは幾分かマシになるはずだ。
数秒のあと、彼女は身体中を薬の効果が駆け抜けるのを実感すると、少しだけ身体が楽になったような気がした。
(ほんとは魔法で回復しちゃいたいけど、今は魔力を使ったら絶対に気付かれる。諦めよう……)
しかし、魔力を使わなくてもそう長い間は隠れてはいられないだろうとフィリアは予測する。
上位の魔物は総じて感覚が鋭敏な相手だ。故に彼女は見つかる前にこれからの行動を決定しておく必要があった。
(洞窟からの脱出…、は無理だろうなぁ。入り口で何か引っかかった感じがしたのって、たぶんあいつの探知網だろうし…。無理やり脱出しようとしても、この足だと入り口のあの細くて長い道で追いつかれてあっという間に……。うー、嫌、それだけは絶対に嫌よ。間抜けすぎるもの!)
ふるふると顔を左右に振りながら想像してしまった光景を忘れようとするフィリア。その様子だけを見ていれば緊張感の欠片もない状態である。
(誰かに連絡が取れればいいんだけど、やっぱり無理だよね。音声圏外だったのはさっき確認したし…)
フィリアはその他にもいつか案を考えたが、その結果出せた答えは一つだけだった。
それはつまり生きてここから出たいのならば、あの恐ろしいシャウラーレニエを打ち倒す他ないということ。あの大蜘蛛となんかして戦わなければならない。そのことを考えると恐怖から震えが走ったが、彼女はそれを体を丸め込むようにすることで押さえ込んだ。
(大丈夫、落ち着けわたし。まずは冷静に冷静に…。学園の教えその1、危険なときほど冷静になること……)
そして精神集中、彼女の集中のイメージは湖に走る波紋が消えていく様子。気持ちを落ち着けたあとに、外に意識を向けてやれば視界が先ほどよりもクリアになった感じがしていた。
前方左、100メートル先に大きな魔力がある、間違いなくシャウラーレニエのものだろう。
それを意識するとフィリアは自身の持ち得る手札を思考した。
(わたしの攻撃方法は魔法。だけどあいつが相手だと下級や中級程度の魔法じゃ全然ダメ。まともに傷を負わせるなら上級以上の魔法が必要になるの確定してる。でも、上級の魔法っていうとわたしの持ってる物だと発動までに少なくとも30追はかかる。
それに、もしダメージを与えることができたとしても、ただの上級の一撃だとたぶんそのまま押し切られてそれでおしまい。それならやっぱり最強の威力のもので、中でも最速の魔法、その一撃に賭けるしかない…!でもそれにはどうにかして発動までの時間を稼がないと……)
と、そこまで考えたとき右手がアイテムポシェットに触れた。
そして一瞬の間をおいて一つの閃きがフィリアの頭を駆け抜ける。
(集音器と伝音器! そうだ、これを使えばもしかしたら…!!)
ぐっと堪えるように口を引き結び、フィリアは生き残るために作戦に移った。
シャウラーレニエ戦はあと1回で終了予定です。