うりと夏休み〜うり〜
「ホラ、とっととでていきな!」
「う・・・」
「もう、ココにいたってアンタに食わす飯はないんだよ!」
「ぁぅ・・・。」
「村へ帰るなり野垂れ死ぬなり好きにしな!」
「けほっ・・・。」
「おおいやだ、二度と帰ってくるんじゃないよ!」
けほっ。
乾いた咳が、一つ。
冷たい空気が、ひんやりと乾いていて。
冷え切った全身が干からびていくようで、ぎゅっと自分の両肩を抱く。
町に、連れてこられたあの日も、寒かった。
同じくらいの年の子と、手をつないで、「コワイ」に襲われない様に、体をちぢこませて。
町を連れられて歩きながら、一人、一人と吸い込まれていく大きな家を見ていたのは、どれくらい前だったか。
冷たい眼差しを向けられて、
「入んな。」
と、腕を引っ張られ、じろじろと見定められて、それからどの位あの家に居たのか。
土間に、破れたゴザを一枚。
そこが、幼女の寝床であり、食事場所であり、部屋であり。
辛うじて湯気が立つ、固形物が混じったといった程の粥を日に二、三度。
朝は日の出前から、夜は主が寝静まるまで。
床を磨き、店先を掃き、洗物をし。
冷たい水に小さな指先を裂かれ、破れ衣に足をしもやけにして。
どれ程の間、すごしてきたのだろうか。
ある日、幼女の生まれ育った村に病が訪れた。
先ず、咳から始まり、高熱が出る。
長い者でも半年かそこら。短いものでは、半月。患った後、村の外れに土饅頭が増えた。
じわじわと流行りはじめた病は、村中に広がり。
働き主が病となれば、収入も減る。
貧しい村に、医者を呼ぶ金などあるはずもなく、食料もなく。
病に襲われる前にと、口減らしにと、それぞれの思いを込められて、町へと売られていく、年端も行かない子供。
村に比べれば、裕福といえる町。
人の出入りも多く、それなりに賑やかな表舞台。
賑やかで、華やかであっても、病は公平に襲い掛かる。
咳をするものを見れば、病と恐れ。
病を恐れて出歩く人も、減り。
そうなれば、店の売り上げも減る。
収入が少なくなっては、余分な人間を置いておく余裕もなく。
只でさえ、辛うじて固形物が入っていた程度の粥は、日に一度になり、湯になり。
真冬に、湯を沸かす手間と費用を惜しまれて、水になり。
家人に病が現れれば、残された者は避難し、家人以外の人間が、世話にあたる。
例えば、小遣い銭程度で買った小間使いの娘。
一月も働かせれば、十分に元は取れるのであるから、万が一、病が移っても、捨てればよい。
変わりは、幾らでも手に入る。
「ふうぅ・・・。」
冷えた指先に、息を吹きかける。
「けほっ!」
吸い込んだ空気にが、乾いた喉を刺激する。
少しの間、肩を震わせて咳込む。
じわっと滲んだ涙を、指で拭い、唇に。
温かくて、しょっぱい涙は、乾いた唇に吸い込まれ。
その、乾いた喉までは届かない。
「とー・・・ちゃぁ・・・。」
薄暗い、森の中。
此処を通って街に連れられていったのは、いつかの昔。
何度も夢に見た、帰り道。
「かーちゃあ・・・・。」
あの時手をつないでいた、あの子は。
すすり泣いていた、小さな男の子は。
足を引きずりながら歩いていた、あの女の子は。
誰も、いない。
持ち物も無く、寒さから身を守る衣服も、いつかの破れ衣。
何度も願い、焦がれた、村への帰り道。
いつか、きっと、共にここを歩いてきた皆と共に帰れるのだと信じて、それを希望に過ごしてきたこれまでの日々。
おかえり、と。
そういって抱きしめてくれるあの手は、この道の先。
皆で、手を繋いで帰れるはずだった道。
今は、誰も、居ない。
「・・・っく。」
こみ上げてくる「サミシイ」に、襲われそうになる。
ぐっと自分の肩を抱いて、はるか彼方、上空の星を見上げる。
立ち止まり、見上げた空には、丸い月。
凛とした静けさが、冷えた体を包む。
まるで、冷たい空気が、霧のように。
冷たい霧が、水のように。
冷たい中を突き進んで、歩いた後にはほんの少しでもぬくもりが残るのだろうか。
振り返る後には、闇。
伸ばした指先に触れる空気は冷たく。
再び、幼女は前を向いて、歩き出す。
キュルル・・・
小さな音に、目を覚ます。
「・・・へったぁ・・・。」
腹をさすり、ぽつり、と呟く。
歩き疲れ、枯葉の積もった木の下に座り込んだまま眠りに落ちたのか。
破れた衣の下の、むき出しの腕が血の気を失って、ひんやりと冷たい。
顔の表面も、足も。
まるで、血が通っていないかのように、青白く、冷たい。
ただ、ぐらぐらと回る視界と、絶え間ない渇きがまだ生きている、ということを実感させる。
せめて、夏であったのなら、夜露で少しは渇きを癒せるのに。
雨も降らず、乾いた真冬の森の中。
霜柱でも立てば、ひりつく渇きを癒せるのに。
体を起こし、落ち葉を掻き分けてみるが、何も無い。
カサカサ、と冷たく、ささくれ立った手に木の枝が容赦なく刺さる。
土を掘って見ると、そこには僅かに朽ちて、柔らかくなった木の葉。
指先で揉んで見ると、しっとり柔らかい。
キュルルルル・・・
鼻先に近づけて、臭いを嗅ぐ。
土のにおいに混じって、湿った、森の中で嗅ぐにおい。
ほんの少しでも、渇きが癒せれば、空腹をごまかす事が出来れば。
じっとそれを見つめて、おそるおそる、そっと口の中へ。
一噛み、二噛み。
急激に胃の方からこみ上げるものを感じて、激しくえづいて。
「・・・っぇっ・・・っかっ!」
口の中のものを吐き出す。
唾液と、黄色い胃液に混じった、僅かに噛み砕いた土と、朽ち葉。
口の中いっぱいに苦い味。
微かに滲んだ涙を震える指先で拭い、舌先に。
急激にこみ上げた吐き気のせいでか、引きつるように腹が痛む。
乾いた喉を潤す程の涙は滲まず、僅かに目を潤わせ、舌先に微かな塩味と、温かさ。
再び、幼女は歩き出す。
「!」
ひび割れた足は、血の気も無く。
乾いた指先の感覚はとうに無い。
何度も躓き、滲んだ血を舐め、乾いた唇の剥けた皮を飲み込んで。
長い、長い森を抜けて。
見えた先にあるのは、懐かしい、村。
幾度夢に見たであろうか。
あの、寒い日に。
泣きながら首に名前札を下げてくれた母親の顔を。
病に伏して、薄い布をかけて、枯れ木のように痩せ細った母に支えられ、何度も頬を撫でて泣いていた父の顔を。
あの、暖かかった手の平を。
涙も、枯れ果てたかに思われた、少女の目から、一滴。
ひりひり、とカラカラに乾いた頬に涙が伝い、ボロボロの衣服に落ちる。
「・・・とー・・・ちゃぁあ、かぁ・・ちゃああ!」
掠れた声で、叫ぶ。
力なく痩せ細り、立っている事すら不思議な、幼女の体から発せられる言葉。
恋しくて、恋しくて。
叫んだ声は、か細く、小さいそれであったとしても。
「と・・ちゃぁあ!か・・ちゃぁっ!」
けほっ、とむせながらも、ひたすらに、走る。
荒れ果てた、畑。
音の無い、村。
まっすぐに、ただまっすぐに、家を目指して。
煙の一筋も、ない。
誰一人として、外を歩くものも無く。
乾いた空気に混じって、僅かに風に吹かれて土埃が舞う。
バタッ。
足がもつれて、幼女が転倒する。
ガサガサに乾いた手のひらに、擦り傷。
そして、血が滲む。
あと、少し。
あと少し。
もうすぐ、あえる。
感覚の無い腕に、力を込める。
そして、右足に。
次に、左足に。
顔は、まっすぐ前にむけたまま。
もうすぐ、もうすぐだ。
あとちょっと、頑張れば。
父が。
母が。
また、あの手のひらが。
カタッ。
乾いた音を立てて、既に開いている家の戸に、手を掛ける。
人、一人いない、懐かしい村。
小さな、小さな、ボロボロの家。
それでも、あたたかで、懐かしい、その家。
「とー・・・・・」
けほっとむせながら、呼ぶ、父は。
母は。
「・・・」
呆然と、立ち尽くす、幼女。
ぱく、ぱく、と、口が言葉を捜して。
戸に掛けていた小さな手が、だらん、と落ちて。
一歩、二歩。
ガランとした、家の中。
三歩。
微かに臭うのは。
懐かしい、あの、夢に見た臭いではなく。
四歩。
シン、と冷え切った家の中に、幼女が見たものは。
五歩。
土間の端。
ボロボロの布と、枯れ草に重なるように。
とん、と膝をつく。
その指先に触れたのは。
白い、白い、細い、骨。
しゃがみこんだ小さな幼女の周りに、優しい音は無く。
吹き込む隙間風のヒュウウ、という音が、只、響く。
「とー・・・ちゃ・・・かー・・・ちゃ・・・?」
恐る恐る、その、骨に手を伸ばす。
見覚えのある、汚れた着物。
遠い昔の、夢の記憶にある、抱いてくれた時にみた、着物。
触れた骨は小さくて。
ボロボロの着物に温もりは無く。
崩れ落ちるようにしゃがみこんだその体を撫でてくれる人も、いない。
ヒュウウウウウ、と吹き込んだ風が、体に刺さるように冷たくて。
「・・・とっ・・・ちゃああああ!!!かちゃあああああああああ!!!!!!」
泣き叫ぶ声は。
その、小さな体が、搾り出す、咳き込みながらの叫び声は。
「とちゃ・・・っ・・・けほっ・・・げほげほっ・・・・っく・・・!かちゃあああ・・・・!!!」
誰にも、届かない。
「ぅあああっ!とちゃあああああっ・・・くっ・・・!!!かちゃああああああ・・・げほっ・・・ごほっ!!」
無人の村の、誰一人にも。
「とぉちゃあああああ!!!かぁちゃああああああ!!!!」
幾度、夢をみただろうか。
目覚めれば、ひんやりと、心地よいところにいて。
ある時は、同じ年頃の少年や少女と、川に。
また、ある時は、山へ。
幾度、夢に落ちたのだろう。
目覚めるたび、少年も少女も変わる。
服装も、村も。
あのとき、目覚めた自分を不思議そうに眺めていた少女は。
木の実をわけてくれた少年は。
優しく、頬を撫でてくれたあの記憶は。
泣きながら、首に名前札を掛けてくれたあの記憶は。
眠りに落ちて、全てを忘れて。
夢から覚めて、混ざっていく記憶は。
いつか、帰りを迎えてくれる場所が、あることを信じて。
次に見る夢も、夢から覚めても、幸せであるように。
───ぱちっ。
「・・・!?」
開いた目に映るのは、男の顔。
「ぇぇぇぇえええええっ!?」
次に、聞こえたのは、驚愕の声。
たっぷりと深呼吸するほどの、間が開いて。
「うわあああああああああああああああああ!!!!・・・・・・ハァハァ、びっくりした・・。」
ひとしきり、驚いたあと、じっと顔を覗き込む、男。
「目開いてるとほんと、本物みてーだなー・・。」
顔にかかった髪の毛を、どけてくれる。
そして、頬を撫でられて。
「って、ひぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!!!」
抱き起こされた、体。
その男ごと、床に倒れこんで。
「な、なんなんだよー・・・ジィちゃん、頼むよー・・・。」
すうううっと、ここは、夢じゃない、と幼女に意識が戻ってくる。
前に目覚めたのは、いつだったか。
そのとき、一緒に遊んだのは、少年と、少女。
名を、なんといったか。
「ケンタぁ!ずるい!」
「なーにがずるいもんかぁ、・・・あ!コウモリだ!」
「うそだぁ!」
「うそなもんあるけ!みてみ、ほら!」
見上げた頭上には、小さな影。
翼を広げて、森へと飛んで行くのが見える。
ジリジリと、暑い夏。
夕焼け色に染まった空。
吹いてくる風が肌に心地よくて、懐かしくて。
「したっけ、ケンタぁ、瑠璃様、又明日ねぇ?」
「おー、又明日なぁ!」
そう、アカネと、ケンタ。
手を振って、又明日、と。
握り飯を持って、川で水遊びをして。
どこまでも赤い、夕焼けの道を三人で手を繋いで帰った。
山道を歩いて、アカネの家へ。
田んぼのそばを通って、ケンタの家へ。
そして、また眠りについて。
「よし、警察いこう。」
ひんやりと涼しい土蔵の中、じっと向き合って。
きゅっと、幼女の腕に手を掛けて、その感触に不思議そうに首をかしげた後、額に手を添える。
「ぇー・・・っと。」
目の前の、驚いた顔。
言葉を捜すように、一呼吸、二呼吸と目が空をさまよって、息を吐くと。
「すいません、いっこ聞いていいでしょうか。」
「ぁぃっ。」
あー・・・と、言いかけて、一人頷いて、先を続ける、男。
「アナタ、何者なんでしょうか?」
何か考えているような、途方にくれたような顔をして。
それでも、ぽんぽん、と頭を撫でてくれる、男の手。
てをつないで、どこいくの?
そと、くらいのに、どうしてあかるいの?
そらには、せんがはってあって、あちこち、ひかって。
「俺の頭がおかしいのか?」
それでも、じーっと、みつめてくれて。
ぽんぽんってあたま、してくれて、てをつないでくれた。
いっしょに、ねたの。
あったかかったの。
目覚めるたび、違う世界。
全てが新しく、初めてに思えて。
星の明かりの他に、月明かりの他に、夜道を照らす光。
触れてみると硬くて、ひんやりとした壁。
あの日、走った森は、道は、今はどこに?
帰りたかったのは、願ったのは、どこに?
一人、寒くて、暗くて、心細くて。
それでも走ったのは、どこに行きたかったのか。
何を目指して、走っていたのか。
思い出せない。
思い出せない。
でも、つないだ手が、あたたかくて。
「うり、俺の家族。つまり、これからずっと一緒ってことで。」
背負ってくれた、彼の口から出た言葉。
かぞく?
ずっと、いっしょ?
「しっかりつかまってろよー?」
ぐいっと持ち上げられて、でこぼこな田舎道を走り出した彼の腕が、温かい。
考えるよりも嬉しい事がたくさん舞い降りて来て、目覚めるのが幸せで。
眠りについても、そこは、冷たい森の中じゃない。
目が覚めても、一人じゃない。
もしかしたら、幸せな夢を見ているのかもしれないと、明け方早く目を覚ましても、
「ぅぁーゃーと?」
「あー、あとちょっと・・・。」
「ぅー・・・きぁぁぁぁぁぁ!」
彼の上に飛び乗ると、頭を撫でてくれる、手。
隣に居る、夢じゃない。
おいしいもの、たくさん。
いっしょに、おふろ。
いろんなところ、てをつないで。
「ぱんつ」をくれて、「ぷりん」をくれて。
「いーち、にーい、はーん、ちーい、ごっ。」ってして。
あたま、なでてくれた。
ぎゅって、だっこしてくれた。
いっしょに、いてくれた。
いってくれた。
「かぞく」で、「ずっといっしょ」って。
「・・・俺の両親が残してくれた財産、ですよね。」
「アンタをここまで育ててやって、それで何が不服なわけ?」
「俺が純粋に金額として受け取れる分って、今現在で幾ら位あるんですか。」
「・・・だから、何回もいってるでしょ。」
「どういうことっすか。」
繋いだ手が、小刻みに震えているのを感じる。
外はじりじりと暑いのに、ほんの少し指先が冷たい。
見上げた彼は、言葉の合間、ずっと唇を噛んで。
ずっと、いっしょ。
「かぞく」って。
ずっと、いっしょ。
ぁゃと。
ぁゃと?
「ぁゃと、いたい?」
「いや、久々にすげぇ緊張したりで、だな。うまいメシ食ったらすぐ良くなるから、心配すんな?」
「ともろーし?」
「お、いいなー、ほんとうまかったもんなー?」
「ぁぃっ!」
これがあれば、きっと、げんきになる。
また、いっしょにあそんでくれる。
ふと記憶が交差する。
いつか、畑で。
あれは、夢?
裸足で砂埃をあげて走ったあの道。
最近寒くなったからと、干草を集めたあの記憶。
草を編んで、袋を作って。
干草を詰めながら、そうっともぐりこんだあのときに嗅いだあの臭いは。
そのあと、何があった?
ゴホゴホと咳き込んでいたあの肩をさすって、水を汲んで。
それから、どうなった?
走った。
そう、走った。
また水を汲んであげたくて、咳き込む肩をさすってあげたくて。
しわしわの冷たい手をさすってあげたくて、暖めてあげたくて。
だから、走った。
どこを走った?
なにを見た?
なにがあった?
痛いの、苦しいの、なおしてあげることが、できた?
「・・・ほんと、・・・うりのおかげで元気になったから。どこも、いたく、ないよ。」
ぎゅうっと抱きしめて、じっと目を見て。
服の裾で、鼻をつまんでくれた。
月の光が明るくて、彼が不意に、涙を零して。
「うり、ほんと、ありがとな。ほんと、うりにあえて、良かった。」
そういって、もう一度ぎゅうっと抱きしめてくれた。
嬉しくて、くすぐったくて。
夕方の、夏のにおいが立ち込める畑で、二人で手を繋いで、家に向かって走った。
一緒に、晩御飯にしようって言ってくれた。
おうち。
ずっと、いっしょ。
ぁゃと、いっしょ。
そう、ずっと一緒。
走って、走って。
彼に届けたとうもろこし。
彼は目覚めて、元気になって。
げんき、なった?
なおしてあげるの、できた?
・・・まにあった?
「ぁじゃとっ、もぅ、いたい、ない?」
「・・・ほんと、・・・うりのおかげで元気になったから。どこも、いたく、ないよ。」
ぎゅっと抱きしめて。
「・・・うり、ありがとな。」
間に合った。
助ける事が、出来た。
ちゃんと、届けてあげる事が出来た。
あの日、戸をあけて見た光景が、少しずつ温かくなる。
気のせいかもしれなくても、夢かもしれなくても。
それでも、気持ちは、きっと。
「あ、バァちゃん!」
「おやぁ、三宅さんとこのニィちゃん、今日も暑いねぇ?」
「こんにちわー、買い物ですか?」
「そうよぉ、バァちゃん甘いもの好きだから、砂糖買いに来たんだゎあ。」
キコキコ、と音がする、不思議な乗り物。
「自転車」と隼人が言った、それに乗っているのは。
きっと、初めて逢うはずなのに。
なんだか、じわっと温かくて、ほんの少し、寂しくて。
それでも、嬉しくて。
キーンと頭が痛くなって、甘くて、おいしいものを食べた。
小さな「ジョウロ」で水を撒いた。
おにぎり、食べて、オニヤンマを見て、口の中に何かが飛んできて。
「バァちゃん」が、おいしいものを一杯くれて。
眠りに落ちて、それでも撫でてくれる暖かな手を感じて、幸せだったこと。
──ホラ、もうすぐつくんだからちゃんとして!
・・・。
ゲームばっかりしてないで、外の景色でもみたらどう?
うるさいなー、いいとこなんだから静かにしてよ。
せっかくの旅行なのに、ゲームばっかりして!──
微かに聞こえてくる、声。
じっとしているのに、田んぼも、川もも、手をのばしても届かない後ろに過ぎて行く。
手を伸ばして。
───手を、伸ばして。
いつかどこかで。
いつか、どこかで。
手を伸ばして、届かなくて。
届いた先には。
届いた先には・・・?
振り返る先には、冷たい空気。
一歩、一歩近づいて、伸ばした手の先には、
折り重なるように、
ボロボロの。
ボロボロの。
とーちゃぁ、かーちゃぁあああ?
るり、かえってきた。
むら、かえってきた。
とーちゃ、かーちゃ。
おうち、かえりたい。
おうち、かえりたい。
おうち、かえりたい。
「うり、大丈夫か?うり!」
──イタいヤツがいるよー、ホラ。
ナニ言ってんの、アレ。
うりがなんとかって、ナニ?
電波きちゃってるんじゃないのー?
それウケるんだけどー。
「うり、・・・うりっ!!!!!」
とーちゃ、かぁちゃ?
るり、かえって、きたよ。
おうち、きた。
とーちゃ。
かーちゃ。
・・・どこ?
とーちゃ。かーちゃ。
「なぁ、早く、帰って来いよ。俺、待ってるからさ。」
あったかい、手のひら。
ぽとっ、と温かい、何かが、頬に落ちる。
つぅっと頬を伝って、滑り落ちて、やがてひんやりと冷たくなって。
どこ?
まっくぁ。
かえってこぃ?
まってぅ・・・?
とーちゃ・・・かーちゃ?
ぅー。
「ちゃんと、おかえりって言ってやるから。」
おかえりっていってくれる?
るり、かえってきて、いい?
るりの、おうちここ?
あの森を抜け、冷たい道を走ったら。
あの戸をあけたらそこには願い続けたあの家が。
信じて疑わなかった、未来が。
たぁいまって、おうち?
ぁゃと・・・?
ぁゃとっ!!!
「おかえり。」
「たぁまっ!」
あの日、迎えてくれた、あの記憶。
太陽がじりじりと照りつけて、水を零すと、地面がきゅるきゅる、と音を立てていた、あの記憶。
ぎゅっと、抱きしめて、名前を呼んで、おかえりと。
頬に落ちた、温かい感触と。
あの日の、麦藁帽子と、セミの声は、今でも目をつぶるたびに、瞼の裏に、鮮やかに。
確かに、「おかえり」と。
「うーりー、ほら、口開いてると湯がはいるぞっ!」
「ぅ?」
ざばーっ。
「ぁー♪」
「お、気持ちいいか?」
全身に、温かい湯。
「うり嬢、頬に泡が。」
「ぃゃとっ♪」
頬を拭ってくれる手は、温かく。
「寒いと思ったら、ほら、外みてみっ!」
「お。雪である。」
「ぅき?」
月明かり越しに、白い光が転々と空から降ってくる。
窓から手をのばしてみると、その手に触れるのは、ひんやりとした感触。
「明日、雪積もるといいなー、そしたら、カマクラ作ろうぜっ!」
「うむ。中で一杯やろう。」
そう言って、すぐ隣で手の平に雪を受ける、男。
「隼人。」
名を呼ばれ、振り返る。
つられて、その声の主を見る。
「土鍋は、あっただろうか。明日は間違いなく積もるようだ。クリスマスにカマクラとは、風流な祝日になるな。」
「嬉しいなー、土鍋はあるから、うまいもん買いに行こうぜっ!・・・って、雲罫、肩に泡がついてるぞ。」
もう一人、雲罫と呼ばれた男がにっと笑って、肩の泡を洗い流す。
「うり嬢、今夜は枕元に靴下を置いておくのを忘れぬように。」
「ぅ?」
「ほら、昼間バァちゃんとミヨコさんがくれただろ?」
昼間、二人がくれた、大きな入れ物。
赤くて、硬くて、足を入れるカタチをしていて。
その中には、たくさんの美味しい物が入っていて。
「ぉぉおお!」
クリスマスブーツ、という、それを、二つ。
お菓子を取り出して、足を入れて、歩いて。
晩飯のあとで、隼人と雲罫がくれたのは、小さな柔らかい、靴下。
赤くて、ふわふわしていて、温かくて。
「今夜、寝る前には枕元にあれおいておくんだぞ?」
「ぅ?」
「そうすると、明日の朝目が覚めたら、良い事があるのだ。」
「くつった、おいたぁ、いいこと?」
「うむ。」
「ぁぃっ!」
にゃーん。
「お、えこ、おかえりっ!」
「では、そろそろ出ようか。」
にゃーん。
「んじゃ、いーち、にーい、さーん!」
「ひー、ごっ、おーく!」
「七、八、九。」
「にゃーん。」
「っかー!、夏の風呂もたまらねぇけど、こう、寒い日に風呂つかって、じわーっとくるのもたまらねぇよなっ?」
「うむ。体の芯から温まり、外気との気温差がまた心地よい。」
「ぁー♪」
風邪を引かないように、と念入りに頭と体を拭いてもらい。
いつもの廊下を渡って、居間へと戻る。
澄んだ冬の空気の中で空を見上げれば、一面の星がチカチカと瞬いている。
「ほら、うり、腹でてるぞっ?」
「ふむ。近いうちにうり嬢にハラマキを進呈しよう。」
「はあまち?」
「はらまきっ・・・って、雲罫、編むのか?」
「やってみよう。出来ないことはないと思われる。」
「マジかっ!?」
「うむ。可愛らしい、猫の飾りが売っているのを先日のスーパーで見かけた。あれを貼り付けて、一つ作ってみようではないか。」
そういうと、すっと抱き上げて、肩上に担ぎ上げる、雲罫。
「きゃぁあああああああ♪」
目線が高くなり、開ける視界が新鮮で、懐かしくて。
手を伸ばし、ぺたぺた、と彼の坊主頭を撫でる。
その横には、隼人が笑いながらぽんぽん、と背中を優しく叩いてくれる。
襖を開けて、居間に入り、掘りごたつにあたり。
隼人の膝に乗って、分厚い布団を被り、彼が入れてくれたリンゴジュースに口をつける。
「雪、うれしいなー。」
「うむ。都内ではそう積もるという事はないのでな。我は一度、カマクラを作ってみたかったのだ。」
「あ、俺も!滅多につくれるもんじゃねぇよなっ?」
「明日の夜は、カマクラの中で聖夜を祝おうではないか。」
「うんうん、うり、明日はパーティーするぞっ!」
「かぼちゃっ!?」
以前、「ぱーてぃ」と。お祝いと。
一面に並べられた、おいしいもの。
火を吹き消して、食べた、甘いもの。
「かぼちゃ、すきだなー、よし、かぼちゃも買おうな?」
「ぉぉぉおおお!」
「ぷりんもかうぞー!」
「きゃぁぁああああ!」
袈裟懸けの男が、ふと黙り込んで。
人差し指を立てると、片目を開けて言う。
「・・・かぼちゃプリン、というのはどうだ?」
「!!!!!」
「それ、いい!!!」
しんしん、と雪が降る。
静かな夜に、三人で布団に入り、枕元には、小さな猫。
隼人が読んでくれるお話は、マサカリを担いだ少年が、熊と相撲をして。
忘れないように、靴下を置いた枕元。
ゴロゴロ、と心地よい、猫が鳴らす喉の音。
雲罫が掛けなおしてくれる布団からは、日向のにおいがして、穏やかで。
思わず、うつらうつらと、瞼が重くなり、暖かな夢に誘われる。
「うり、寝たか?」
「寝たようだ。では。」
がさごそ、とそうっと体を起こしてうりの枕元を探る、二人。
チリン。
「む、・・・大丈夫だな?」
「うん、寝てる。」
カサコソ。
「あれ。」
「む。」
その枕元に、靴下は無い。
「忘れたのか?」
「いや、そんなはずは・・・む、隼人。」
手探りで見つけたその場所は、隼人と雲罫の枕元。
そして、えこの側に、不器用に揃えたクリスマスブーツ。
「・・・いいことあるから、って、うりっ。」
「・・・思いがけず、プレゼントをもらったな。」
そういって、二人で暗がり、月明かりの元笑いあうと。
「では、こうしよう。」
「だなっ。」
えこの側のクリスマスブーツに、赤い小さな鈴のついた首輪を。
そして、もう一つのクリスマスブーツをうりの側において、そっと包みを仕舞い込む。
「うん、これでいいな。」
「喜んで貰えると良いのだが。」
「間違いないさっ。」
しんしん、と雪が降る。
静かな夜。
「明日は、一杯うまいもの作ろうなっ。」
「うむ。我が人生最高のクリスマスとなることは間違いない。」
「俺もだっ!」
微かに鈴の音が聞こえたのは、夢か、それとも。
目が覚めて、あたり一面雪が積もって。
枕元には、幸せを願った贈り物。
これからも、幸せであるように。
これからも、日々が温かく、幸せであるようにと願いを込めて。




