胸の中には風船がある
教師が古文の口語訳を黒板に書いている間、俺は呆然と窓の外を眺めていた。
落ちこぼれ高校ではあるが、タチの悪い問題児が集まる、という類いの学校ではないため、授業風景はいたって静かだ。もちろん、マンガ読んでいたり、手紙が回ったりという程度のことはあるが。
二棟の校舎は二本の連絡通路で各階がつながっていて、上から見るとエの字を二つ、横に並べたようになっている。連絡通路の横、突き出した部分に教室はあって、俺の席からは、小さな池と、向かいの校舎の職員用出入り口とが見える。
池には鯉がいる。赤が二匹と黒が三匹。
鯉を眺めながら、俺は以前聡一がなにやら言っていた、妙にテツガク的な話を思い出していた。
あいつは言った。
「誰もが主人公だと、小説を書いていると思い知らされる。どんな脇役にも、そいつなりの考えと行動と人生があって、そいつの目から見る世界では、そいつこそが主人公なんだよな」
さっぱり要領を得ない話だ。
「だーかーら、誰か一人が主役であとは脇役、ってのは、映画とかドラマとか、物語の中の話であって、いわばフィクション。現実では、みんながみんな、かけがえのない主人公なのだ」
「・・・・・・また、なんかにカブレたか、エセ哲学者」
「哲学じゃねぇよ。いや、待て、哲学か?」
「どっちでもいいよ」
聡一の言葉が間違っている、ということを、俺は知っていたから、どうでもよかった。
どう考えたって、ドラムはバンドの主役にはなれない。主役はボーカルであり、ギターであり、時にはベースも頑張れる。だが、ドラムは、あくまで縁の下の力持ちだ。
俺自身についても、それは言える。
常に人をサポートする役。面倒な役目を押し付けられる役。一番になれる能などない男。
聡一のように、曲作りなんてできないし、詩も書けない。小説なんて、夢のまた夢だろう。聡一は、詩をノートに書き、小説はワープロ書きするが、俺はワープロなど触れたこともない。
俊介のベースは正直言って脅威的だ。技術だけじゃない、確かなリズム感と、本番でアドリブかますセンスと度胸。正直、俺は咄嗟にアドリブ入れろと言われても、反応できない。実力の差か。
あかねにいたっては、生まれながらの主役だ。美人だし、明るいし、詩織の件だけでなく多くの女子のお姉さん的存在だ。
それで、俺にはなにが残るだろう。
ドラムは二年やってるが、今だにリズム音痴のドラマー、俊介にずいぶん助けてもらっている。
一応、スタジオやライブハウスの予約を入れるのは俺の仕事だが、言ってみれば雑用、バンドのリーダー(専門的にはバンマスと言うらしい) なんてものではない。
聡一はしょっちゅう「プロ目指す」 なんて言っているが、技術やセンスをはかってみて、バンド内で唯一無理だと断言できるのが、俺なのだ。
これほど脇役らしい脇役はいない。
・・・・・・そういえば、俊介は大学に行くとか言ってたな。
つまり、そいつなりの考えや人生っていうのは、そういうことか?
自分で考え、定めた未来へ向かう者。たしかに、主役には相応しい。
だが、俺は。
漠然とした、当たり前であろう未来を想像しようとして、それすらできない自分がいた。
高校三年間を適当に過ごし、土壇場でどうするか考える。たぶん、そんなところだ。
俺には、定めるべき将来もない。
「誰だって、ステージに上がれば主役なんだぜ」
そう力説する聡一に、俺は笑ってやったのを覚えている。
「裏方さんだっていなきゃ、ステージは成り立たないぜ」
そう、俺は裏方だ。
胸の中で、風船が膨らむ。
俺の体の中には、風船がある。
わけもなく膨らんで、俺の体を内側から破裂させようとする、巨大な風船だ。
喧嘩をしたりドラムを演奏したり、そうすれば少しは縮むが、すぐに、また風船は膨らんでいって、俺の体を内側から押し上げる。
割ってしまえば楽なのに、どんな無茶をしても割れない風船。内側から俺を苦しめて、そのくせ、絶対に肋骨を破って外に出ていくことのない、無慈悲なエネルギーの塊。
俺が手足を振り回して暴れるのは、その風船にあらがうため、苦しさを払いのけるため、破裂してしまうのが恐ろしいから。
スタジオ・アーベの細長い個室では、奥にドラムがこちらを向いて鎮座している。
ドラムの椅子に腰かけてると、右手にベース俊介、左にギター聡一、そして入り口近くにボーカルあかねが、内側を向いて立つ形になる。
「ちゃんと考えてきたかー」
聡一がギターをジャヤーンと鳴らしながら、偉そうに言った。
彼の新曲ができそうもないので、急遽新たにメジャーの曲をコピーすることとなったのだ。
曲は、聡一いわく「誰も気付かないが、素晴らしくポップでキッチュで美しい」 ライク・ア・バージン。いわずと知れたマドンナのヒットナンバーだ。
今回はさらに、原曲を16ビートのダンス風にアレンジしようと、例によって聡一があきれる提案をしていた。
ちなみに、バンド内では、楽器店などで売っているスコア、つまり楽譜を見ることが、原則禁止だ。ミミコピ、つまり耳で聞いてコピーしろ、という無茶な要求で、音痴な俺はドラムでなかったら即リタイア間違いなしの無慈悲な掟だった。
二度ほど、お互い探りあいながら演奏してから、聡一が難しい顔で俺を見た。
「もっとテンポあげようぜ。これじゃ、タテにノレねーよ」
「タテがいいのか? いや、しかし元の曲のテンポがさ」
「原曲なんざ関係なし! 俺様のインスピレーションにひっかかった瞬間、この曲はマドンナの曲ではなく、俺様のライク・ア・バージンになったのだ。処女大好き!」
無茶苦茶を言う。
苦笑を隠しきれない俊介が、シンバルを叩いて俺を呼んだ。
「テンポもそうだけど、もうちょっとドラム遊ばせてもいいんじゃない? 洋平の腕ならもっといろいろアレンジできるでしょ」
「いや、ここは、アレだ。機械っぽく、ずっとチキチキタンチキチキチキタン、だけでいこうかな、と。まずいか?」
「まあ、そういうのもアリだけど・・・・・・それならもっと、なんて言うかさ、余裕を持ってやったら? なんか、いつも、まるでいっぱいいっぱいな、凄い形相で必死になってるみたいに見えるから」
「そうか?」
まあ、必死と言えば必死だ。リズム音痴のドラマーが味わう苦悩など、貴様にはわかるまい。
「あ、そう言えば」
エフェクターをいじくる聡一が、ふと顔を上げた。
「さっき小木さんから電話があった」
「ボートクラブの?」
ライブハウスだ。
「お前ん家に電話したらいなかったから、って。キャンセルで予定が開いたんだと。ちゃんと伝えたからな。じゃーテンポアップしてもう一回」
俺はスティックを変則的に打ち鳴らした。
カン、カン、カッカッ。
「ライク・アッ・ヴァーズィン、フウッ!」
あかねがばちこーんと派手なウインクをした。