チタン合金の祝福
聡一の小説を持って、俊介が俺の部屋へやってきたのは数日後。
「ワープロの画面より、こっちの方が読みやすいでしょ」
そう言って、笑顔でワープロ用紙の束を差し出す俊介に、俺は思い切って、加藤とのことを喋った。
加藤は、俺があかねを好きだと思っていたこと。俺がそれを否定したこと。彼女が泣き出したこと。キスをしたこと。
「噂の恋愛ティーチャーの正体が、これだものねぇ」
俊介は呆れ顔で、砂糖入り麦茶を舐めた。彼の好物だ。
「それにしても、彼女、ずいぶん勇気を振り絞ったもんだ」
「勇気だと?」
「そうだよ」
そんなこともわからないの? という顔で俊介はグラスをくるくる回す。
「イエスかノーか、明確な答えを求めるのは、とても勇気が必要なことだよ。洋平の答え次第によっては、即別れることになるかもしれない。そうでなくても、そんな疑いを抱いていることを知られたら、大事なカレシが怒るかもしれない」
「別に怒りはしないが」
「もしかしたら、だよ。もしかしたら、笑われるかもしれない、嫌われるかもしれない、それとも・・・・・・」
「別にそんなことにはならねぇよ」
俊介の言葉に対する正しい対応ではないと知っていて、俺は突き放した。
実際どうなるか、ではなく、加藤の気持ちを言っているのだ。あの話題を持ち出した時、彼女は、俺がどう反応するだろうかと、様々な想像をしたに違いない、と言っている。
それは、わかる。
様々なイヤな想像に打ち負けて、長いあいだ、あかねに気持ちを打ち明けられなかった俺には、よくわかる。
「だいたい、今さらなぁ」 と言ってから、俺は続きを考えた。「・・・・・・あんなふうに思われてたなんて、知らなかったぜ。相手がなに考えてるのか、わからんもんだな」
「そりゃあそうだ。しょせん、自分は自分、他人は他人。考えなんか、わかりっこない」
そいつは味も素っ気もありゃしない。
「だけどね」 俊介はちょっと黙って「たとえば」 と続けた。「洋平の場合、加藤の気持ちがわからない、って思った時は、加藤も、洋平の気持ちがわからないんだ」
「なんだよ、それ」
「相手を理解する距離、みたいなものがあるんじゃないかな。相手の考えがわからない時は、同じ距離を隔てている相手も、こちらの心が読めない。だから、お互いが、自分の気持ちはこうなんだ、って教え合うことで、距離を縮めないといけないんだ。あ、距離って、物理的な距離じゃないよ」
ンなこたぁわかってる。どれほど近づいたって、あかねの気持ちはわからない。加藤の考えてることを想像する方が、今ではよほど簡単だ。
「だけど、それって簡単にできることじゃないよね。だって、相手が距離を縮めることを拒んだら、ただ拒絶された痛みだけが残るんだ」
その通り。その痛みを恐れる男性代表がここにいる。
「今度のことなんて、泣き出すくらいだから、ほとんど駄目だと思ってたんじゃないかな、彼女。それなのに、白黒をつけるために一歩踏み出したのは、勇敢だと思うよ」
いちいち俊介の言葉が俺の脳みそに突き刺さる。
全然勇敢ではないこの俺が、彼女の勇気をもてあそんだ。それを知っているくせに、潔く認めることができない。
我知らずうつむいてしまった俺に、俊介は笑いかけた。
「ま、いいんじゃないかな。学校やめて、少し腐ってたからねぇ、洋平は」
うるせぇ。
「彼女に捨てられるんじゃないかと思ってたんだ。いやー、よかったよかった」
よくない。全然よくない。
「ところで、真面目な話、これからどうするの? 定時制にしろ通信制にしろ、高校に戻るなら・・・・・・」
よせ、やめろ。その話は出すな。
俺は仏頂面で麦茶を喉に流し込んだ。
これからどうするのか。考えた瞬間に、目の前が暗くなる。
定時にしろ通信にしろ、学校に戻る気はさらさらない。かといって、就職にも踏み切れない。
未来の見えない理由が、自分の中途半端な無気力にあると、夜通し考え結論に至った。しかし、答えがわかったところで、どうにもしようがない。
一歩を踏み出しなにかを始めるためのエネルギーが、俺の胸の中にはないのだ。
「・・・・・・調理師の免許取るとかさ。洋平、聞いてる?」
「ああ」
素っ気無く答えて、ふと、笑いたくなった。
なんで、こんなくだらないことを、大真面目に話さないといけないんだ? 俺はまだ十六だぞ、将来を決める十六歳が、日本全国にどれくらいいるだろう?
「ドラムでメシを食う、ってのもアリだよな」
まるきり冗談で言うと、俊介は苦笑いした。
「そうなると、ベースは俺で、ボーカルはあかねか」
「曲はお前が作れよ。俺はそういうの、さっぱりだ」
「できるかなー。あかねの方が、案外音感が確かだから、任せてしまった方がいいかも」
などなどと、馬鹿話で笑いあっていた時、母が部屋へやってきて、黙って電話の子機を差し出した。
母が去ってから、俊介がつぶやく。
「こういう親子関係って、俺には理解できないな」
子機を耳に当てて「あいよ、もしもし」 と少しばかりのカラ元気を振り向けると、耳に心地よいチタン合金の声が飛び出してきた。
『でかしたぞ、ようちゃーん、どんどんぱふぱふ』
目茶苦茶ハイテンションなあかねが、電話の向こうでなにか叩いている。カスタネットだろうか? 意味がわからん。
「なんだ、いきなり。こっちは、伸介と将来設計について綿密な打ち合わせをしてるところだ、お前も来るか?」
最後の一言は、聡一がいた頃の合言葉みたいなものだ。ついつい口に出た。
『なに言ってんのよ、かすみと超ラブラブのく・せ・に! 聞いたよー、聞いちゃったわよー、初キッス』
ああ、一番聞かれたくない人の耳に届いたか。いつかはかすみも口を割るだろうと思っていたが。
『おめでとう! 女ッたらしの面目躍如だね!』
最も祝福してほしくない人からのオメデトウ。まったく嬉しくない。それに、なんだ? 女たらしってのは?
『それが言いたかったの! それじゃ!』
俊介にも聞こえていたようで、口元を押さえて笑いをこらえている。
「・・・・・・なんだよ?」
「いや、いいコンビだなー、と思ってさ。洋平とあかねは」
ツーツーと無機質な音を吐き出す子機を、俺は見つめた。
逃げ出したい。
加藤の愛情からも、彼女を騙す自分の愚かさからも。
将来とまでは言わずとも、なにかを自分で決めて始めなければならない「明日」からも。
なにより。
あかねの声を聞くだけで苦しくて、顔を見れば胸がつまって、考えるだけで身悶えたくなる弱々しい自分の心から。
なにもかもを投げ出したい。
死ぬことができれば、どれだけラクだろう。
いつか、同じことを考えたな。そう想いながら、ふと部屋にある手鏡を見た瞬間、俺は凍りついた。
そこに、聡一の顔が見えたからだ。いや、正確には、通夜で見た、棺におさまる死者の顔が。
それは本当に一瞬の錯覚で、そこに映っているのは自分の顔だとすぐ気付いたが、胸の動悸はおさまらなかった。
見間違えたのもわかる。
鏡に映る無表情な俺の顔は、無気力を通り越して、まるで魂の抜けた人形のようだった。
無気力に日々を過ごし、なにも為さず怠惰に生きること。
もしかしたら、今の俺の状態は、死ぬということ、死んでいくということと同じなのかもしれない。
いつか感じた底知れない穴の闇を思い出して、体が震えた。
駄目だ、自分ではどうすることもできない。脱出したくても、体が動かない。心がふるわない。
自分のせいだと知っている。己れの怠惰を知っている。知っているけど、叫びたい。
誰か、助けてくれ。
だが、人に助けを求めるなど、俺のプライドが許さなくて・・・・・・
ベッドの上に、そいつを見つけた。
俊介が残していった、ワープロ用紙の束。
『茜色の空の向こう』
表題が目に飛び込んできた途端、俺はそいつを手に取っていた。
助けてくれ、聡一。