注文したのはエビセット
昼間のうちに、俊介から教わった方法で小説をプリントした。
驚くのは、フロッピーディスクに記録されていた小説の数だ。長短それぞれの未完成小説が、数え切れないくらいあった。
その全てを完結させるつもりであったのか、それとも単なる失敗作かは知らない。だが、聡一の持っていた、創作意欲というエネルギーの膨大さが窺えた。
えらく手間をかけてようやく二つ分をプリントし、約束していたファーストフード店へ向かった。
あかねと奈美が、けたけた笑いながらなにか話をして、俺を待っていた。
「遅い!」
あかねに睨まれて、反射的に「悪い」 と謝った。「思った以上にプリントに手間取って」
「それが?」
奈美が、俺の手にある二つの封筒を指差した。
「ああ、聡一の遺稿だ」
彼女たちにそれぞれ手渡してから、俺は注文するためカウンターへ向かった。
後ろで、鼻をすする音が聞こえた。
ああ、振り向きたくない。かける言葉など思い浮かばない。
注文に悩んだフリして時間を稼ぎ、ゆっくりと席へ戻った時、奈美は泣いてはいなかった。あかねに肩を支えられて、大ぶりの封筒を胸に抱いてうつむいている。
「この小説、どんな話だった?」
あかねに聞かれて戸惑った。「いや、わかんね」
「まだ読んでないの?」
「奈美ちゃん読むのが先だろ」 とってつけた言い訳だ。
「お前のノートはどうだった? いろいろ書いてあったろ」
「聡一、字、下手すぎ」
それは同感だが、同時に俺も字が下手だ。
「新曲、けっきょく詩が書けなかったみたい。曲はできてるのにー、とか悲鳴みたいなこと書き殴ってたりするの」
「そうか、詩も終わってないか」
どきり、とした。なにかが、腹の底に沈んだ。
なんだ、今のはなんだ?
「それじゃ、あたしはもう行くね」
あかねが早々に立ち上がったので、俺は慌てた。
「なんだ、呼び出しといて、これだけか?」
「鈍いわねー。かすみに気を使ってるの。ようちゃんとは、バンド以外じゃ会わないよ、って約束したんだから」
「馬鹿な、かと・・・かすみがそんなこと、気にするはずがねぇ」
「もちろん、かすみだって顔には出さないわよ。けど、あたしにはわかるの。ピーンとくるの。疑われてるなー、ってね。そんな気、さらさらないのにねー」
どんな気だか気になる。わかるがわかりたくない。
「奈美、行こ」
「あたしは・・・・・・」 ちょっと逡巡を見せてから、奈美は小さく笑って首を振った。「洋平くんに話があるの」
「ようちゃんに?」
あかねは珍妙そうに俺と奈美を見比べた。
いや、俺の顔を見たって答えはないぞ。俺だって知らん。
「・・・・・・ま、いいけど。それじゃ、この小説は、読んだら俊介に回すね」
「ああ」
俺も奇妙な表情をしていたと思う。
奈美が俺に話とくれば、聡一のことしかない。今まで一言も恨み言を言わなかった彼女が、とうとうあの夜のことで、俺を責めようというのだろうか。
あかねが去ってから、しばらく、肌に痛い沈黙が続いた。阿呆でも馬鹿でもいいから、早く言ってくれ。それとも、俺が自発的に謝るのを待っているのか? あるいは無言がそのままプレッシャーになると計算しているのか。
俺がなにか言おうとした時、先に奈美は口を開いた。
「ひとの心って、わからないよね」
言葉の意味は理解できたが、脈絡がわからなかった。世間話の前フリか、それとも遠回しに俺を責めるテクニックか。
「ひとの心って、他人の?」
「そう。わからない。だから、人と人のつながりって、凄く怖い面がある。そう、聡一が言ってた」
聡一という名前が奈美の口をついて出ると、それだけで俺は身がすくむ。
「あいつが?」
奈美はうなずいた。
「怖いっていうのは、いくつかあって、たとえば誤解だとか思い違いが、時には人を殺すことになること」
殺すなんて大袈裟な。ある意味、聡一らしい。
「だから、時々、人はひとの心が恐ろしくなったりする」
「んー、しかし、わからないもんなんだろ? 他人の心なんて」
「目に見えないし、聞くこともできない。手で触れられない。体感できないから、確かめようがなくて、理解できない」
自分自身の心さえもあやふやで掴みどころのない俺は、反論が出てこなかった。
「まあ、そうかもな」
「だけど、ひとの心は、その人の行動や言葉、表情を見て、たくさん想像して、理解しようと努力することができる」
奈美は、ひたと俺の目を見つめた。
「『洋平は凄い、あれほど他人の気持ちを理解しようと努力するなんて、俺には無理だ』 聡一の言葉よ。『自分のこととなると、あんなに臆病なのに』 って。あたしも同感」
どういう反応をすればいいのか、しばらく迷った。
「・・・・・・臆病って、俺のことか?」
「そう」
ここは怒るべきか、それとも笑うべきか。感情の発露とは咄嗟に出るものであって、一瞬でも迷ってしまった後では、自分の気持ちさえわからなくなる。
「それは、また、なんだな」
臆病。わかってる。自分で十分理解している。聡一、お前に言われるまでもない。
「本当に」 と奈美が俺の思考を遮った。「かすみのことが好きなの?」
「は?」
今度はなんの話だ? 加藤と付き合い始めたのは、聡一の死後だ。今までの話とは関係ないじゃないか。
「あ、当たり前だろ、そんなの」
「女ってね、愛情がいっぱいほしい生き物なの」
今度は女ときた。話飛びまくりだ、大丈夫か、奈美。
「なんの話だよ」
「いいから、聞いて。女って、ね、人を愛したい、って、いつも思ってる。だから、好きな人をたくさん愛するわ」
なんの話だ、それは。ドラマか映画のセリフをパクってきたのか? 『愛する』 なんて言葉は俺のボキャブラリーの圏外だ。生で聞いたのはほぼ初めてだ。
「同時に、それと同じくらいか、それよりもっと、人に愛されたいって望んでる。いつもいつも、好きな人に、たくさん愛されたい、って。だから、今のかすみは、見てられない」
「なにが言いたいんだ? エッチしろって話だったら、そんなの奈美ちゃんの知ったことじゃ」
「そうじゃない」
奈美は、ずっと胸に抱いたままの封筒を、よりいっそう力強く抱き締めた。
わかっている。エッチしろとかしないとか、奈美は、そんな話題を自ら持ち出すような女性ではない。どちらかというと控えめで、自ら人を傷つけることはせず、そのくせ誰相手でも態度を変えない芯の強いひと。
わかっているさ。だが、ひとの心はわからない。俺の想像を裏切る一言を浴びせかけられることなんて、ザラにある。だから、怖い。
「俺と、かすみとは」 そこまで言って、なにが言いたいのかわからなくなった。
「洋平くん、残酷だよ。愛してあげられない人と、ずっと一緒にいるなんて。愛してもらってばかりじゃ、不公平。聡一なら、きっとこう言う。『この、臆病者め』」
今度はぐさりと来た。
なんでわかるんだ、俺の気持ちが?
そう、たしかに俺は、加藤のことを好きだと、断言できない。あかねを好きだった気持ちと、同じくらい強くて重くて苦しい想いを、加藤に対していだけない。
「本当にかすみのことを好きになるか、それとも、他に好きな人がいるのなら」 奈美は少し言葉を切った。「・・・その人を愛するべきだと思う」
二者択一というわけか。
なんとも気まずい沈黙が過ぎ去った後、奈美が立ち上がって、「帰るね」 とテーブルのトレイを握った。
その手を見つめながら、俺は声を絞り出した。
「あの夜のことだが」
奈美の手が止まる。
「悪かった。あんな飲み会、やるんじゃなかった。さっさと切り上げてれば、いや、俺がもう少ししっかり仕切っていれば」
「洋平くんのせいじゃないわ」
正直、そう言われても顔を上げられない。彼女の顔を見ることができない。
その通りだ、と言ってほしかった。お前のせいだ、と罵ってほしかった。その方が、ずっと罪が軽くなるような気がしたから。
「公園で飲もう、って、言い出したの、あたしだもん」
その言葉の意味が頭に浸透するまで数秒。反射的に顔を上げた時、奈美はすでに背中を見せていた。