茜色の空の向こう
ワープロを持ち帰っても、すぐに中身を読む気にはなれなかった。
なにかを始める、という行為には、とてつもないエネルギーが必要不可欠だ。かつての俺は、胸の中に膨らむ風船があって、エネルギーはそいつから拝借していた。
・・・・・・と、言うより、常になにかをしていなければ我慢できない、苛立ちや不安に押され続けていたのだと思う。その、俺の背中を押すものこそが、胸の内の風船だったのだろう。
だが、今、俺の体の中に、かつて巨大なエネルギーを溜め込んでいた風船が、ない。
消えた。きれいさっぱりなくなった。
最初はせいせいしたと思い、胸に巣食う虚脱感も、不完全燃焼のくすぶりだろうと思っていた。しかし、時が経つにつれて、それが違うとわかった。
かつて風船のあった場所には、巨大な穴があいている。イメージにすれば、そんなところか。凄まじい虚無感、なにもしたくないという倦怠感、意味もなく張り付く疲労感。
仲間の前では以前と同じように振る舞い、部屋に帰って疲れきった体を横たえる毎日。笑顔一つとっても、無理に作らないと浮かべられない。
これは、なんだろう?
あの風船は、一度破裂したらなくなる代物だったのか? 不完全なかたちで割れたために、復元されないのか? それとも、以前となにかが違うのか。
部屋にいる時の俺は、思考を停止させて、ただ天井を見つめるだけだ。食欲もなく、日課だったドラムの練習さえ始める気力がなく、マンガ一つ読みたいとも思わない。
そんな状況で、聡一のワープロに電源を入れ、手探りで操作を学び、死んだ者の書いた小説を読もうなんて、できるわけがない。
俊介は、そんな時に来た。
「やっぱり、ワープロに手をつけてないね」
ほぼ唯一、今の俺のだらけっぷりを披露できるのが、俊介だった。かつては聡一もそうだったが。
「たるい」
「いかにも無気力って感じだね。昼間のドラムもそうだった」
気付いていやがったか。
「バンドもしてない、学校もないで、いきなり無目的になって、気力わかなくなった?」
そういうのではないと思う。そもそも、俺は、目的を持って生きてたわけじゃない。
俊介はワープロに電源コードをつなぎながら、軽い口調で「専門学校とかもあるしさぁ」 と話し続けた。「高校でも、定時制とか、通信制とか。通信はいいらしいよ? 週に一回学校通うだけで、あとは課題やってりゃ卒業できるんだってさ」
「・・・・・・そのワープロ、俊介が持って帰れよ。俺には扱えない」
わざと話題を変えたのだと、たぶん俊介は気付いただろう。
俊介は笑った。
「洋平がもらったものだろ」
「宝の持ち腐れってやつだ」
「少しずついじってけば、そのうちキーの打ち方とか慣れるよ」
「お前、できんのか?」
「少し。もう壊れたけど、親父が残した古いパソコン、いじったことある。昔、ね」
俺は少なからぬショックを覚えた。
非常識なほど愚かなことに、今の俊介の言葉を聞くまで、まったく気付かなかった。
友人と家族の違いがあれ、親しい者の死を経験することが、彼は二度目なのだ。
気付けなかった自分に衝撃だ。
「電源入れて、あ、なんか書いてある。小説だ」
「フロッピーに入ってるんじゃないのか?」
「本体の容量じゃ足りないから、ディスクに記録するんだけど。本体にもデータのバックアップ機能はあるからね。これは、聡一が死ぬ直前に書いたものかな。すぐ続きを書くつもりだったんだろう」
ぞッ、と背中に冷たいなにかが張り付いた。それは、聡一の冷えてゆく体温の記憶だったかもしれないし、あるいは、画面にある言葉が、死者の世界から届けられたような気がした寒気かもしれない。
「題名は『茜色の空の向こう・4』 なんだ、バンド名じないか。4ってことは、1から3もあるってことだな。ディスクに入ってるのかな?」
「どーすんだ?」
「とりあえず、ディスクに記録して、1から順番に目を通してみよう」
素直に気持ちを表現するなら、怖い、だった。
なぜ怖いのか、当時の俺にはわからなかったが、おそらく、聡一の書き残したものとの対面が、俺を現実に直面させるのだと、恐れたのかもしれない。
「やめとこーぜ。終わってない小説は、あいつ、絶対に見せなかったじゃねぇか」
「しかたない。奈美からお願いされてるから」
「奈美ちゃんが?」
聡一の元彼女を思い浮かべる時、心臓を直撃するのは罪悪感だ。俺のせいで・・・・・・
「ワープロの話、あかねに聞いたらしくて。未完の小説を読みたいって」
三枚目のフロッピーディスクに目当てのものを探し当てて、操作は俊介任せのまま、ワープロと一緒にもらってきたインクリボンと用紙をセットするのを眺めた。
聡一はいつも、こんな面倒なセット作業をして、印刷していたのか。一人黙々と。
が、印刷が始まった途端に、俺の顔は真っ青になった。
ウィーン、ガシャン、ビュイー、とけっこう大きな音がする。
「俊介!」
俊介が慌ててキーを叩くと、プリンタはすぐに止まった。
しばらく待つ。
ドアを叩く音がした。
「なんだ、今の音?」
父の声に、俺は「なんでもねぇーよ」 と冷や汗混じりに虚勢を張る。
父はドアの向こうでフンと鼻を鳴らし、「家に置いてほしかったら、静かにしてろ」 と告げて足音を遠ざけていった。
俊介は肩をすくめた。
「おっかないね、相変わらず」
「威張り散らしてるだけだ。てめーに自信がねぇんだろ」
それは俺だろ、と胸の内で声がした。