久しぶりのドラム
胸の内から、風船がなくなった。
最初は、不完全燃焼のためにくすぶっているのだと思ったけど
不思議だ
俺は、胸の内にある風船を、失った。
なぜだろう。
この虚脱感は、なんなのだろう。
父は一通りの説教をした。
いや、説教というより、罵詈雑言で罵ったといった方が正しいだろう。バカアホから始まって、ホームレス確定の能無しデクノボーと怒鳴っていた。将来に対する助言も提言もなく、最後は好きにしろと言ってそっぽを向いた。
母は、俺を無視するようになった。
自然、俺は部屋にいるよりも、外にいる時間の方が長くなる。
自由になった時間を活用して、とりあえずバイトを三つ掛け持ちし、あいた時間に加藤と会い、あかねや俊介と馬鹿騒ぎした。
退学前と、たいして変わらない生活。学校がバイト先に変わっただけかもしれない。
ただ一つだけ。
いくら馬鹿騒ぎしても、心は少しも楽しくなかった・・・・・・
九月の半ば、久しぶりにバンド仲間で会おう、というので、俺はスティック片手にスタジオ・アーベへ向かった。
スタジオの前には、見慣れたあかねの自転車の他に加藤のものもあり、さらに見知らぬスクーターが止まっている。
Aスタへ入ると、あかねが加藤とお喋りをし、俊介は黙々とエフェクターをいじっていた。
「外の原チャリ、もしかして俊介のか?」
開口一番訊ねると、俊介はニヤリと笑って免許証を取り出した。
そんなもん、裸でポケットに入れておくなよ。見せびらかしたくて、しかたないんだろ。
「外にあるヤツは、先輩に安く譲ってもらったんだけどね」
「早いなー、誕生日今月だろ? ソッコーじゃねぇか」
「免許ある方が、選べるバイトもハバ広がるしね」
無駄話をしながら、椅子とハイハットの高さを調節し、スネアの角度とシンバルの位置を整える。
懐かしい感触。
聡一の死からこっち、俺はずっとドラムに触れていなかった。
あかねが象さん型のギターを鳴らし、スタンドに固定したマイクに言った。
「最初なにやるー」
「マイクで喋るな! うるせーよ、あかね!」
俺が叫んで力一杯スネアを叩くと、曲を悟った俊介がすかさずベースで乗ってくる。
昔と同じ、スタジオの匂い、ドラムの音、はじけるようなベース、そして。
聡一だけがいなくなった、バンドという形の仲間のありよう。
加藤が、隅でどこか所在なげに立っていた。
曲の合間にスネアのネジを締めたり緩めたりして音を調整しながら、二時間という時間はあっという間に過ぎ去った。
「三人だと、やっぱイマイチだねー」
言いにくいことを涼しい顔で言う俊介。
たしかに、聡一がいないのは大きい。だが、それ以上に、イマイチの理由は俺にある。
不思議なことに、胸の中の風船を失った俺は、以前は感じていたはずの、楽曲への一体感をまるで失ってしまっていたのだ。
そんなドラムでは、ろくな演奏になるわけがない。
俺は話題から逃れようとした。
「ところで、なんでかすみがいるんだ?」
加藤のことを、俺はかすみと呼んでいた。本人にそうしてくれと頼まれたからだが、今だに慣れない。
「あたしが連れてきたの」 あかねはあっけらかんとした顔だ。「だって、密室でようちゃんと会うのよ? 変な誤解されちゃヤだし」
「二人きりってわけじゃねぇだろ、俊介もいるし」
「いいよ、俺って確かに影薄いから」
俊介が肩を落としている。
いや、そういう意味の会話ではないぞ。
スタジオを出ると、あかねが空を見上げてヤバイと言った。
「雨ふりそう」
空を眺めるのが好き、というだけあって、あかねの天気予報はテレビのそれよりよく当たる。
「じゃ、急ぐか」
今日集まった理由を、スタジオ内であかねから聞いている。
なんでも、聡一の母親が、バンドのメンバーに会いたいと言っているそうだ。
なんとなく気まずくておばさんとおじさんを敬遠していた俺は、罠にはまったような気分だった。
呼ばれたと言っても、聡一は俺やあかねと同じマンションに住んでいたのだから、それほど仰々しい話ではない。俊介にしても、今やスクーターの機動力を手に入れたのだ、鬼に金棒である。
とはいえ、気持ちは重くなった。
おばさんは、俺たちを居間に通すと、まず深く頭を下げた。
「お葬式のとき、みんなにひどいこと言って、ごめんなさいね」
そんなことがあっただろうか? 聡一の葬儀の前後は記憶があやふやで、よく覚えていない。まあ、俺たちが息子を殺したようなものだから、おばさんがなにを言っても陶然のことだと思うが。
「おばさん・・・・・・いいんです、だって、あの時はみんな・・・・・・」
あかねは早速なみだぐんでおばさんの肩を押さえた。
息子を失った母との対面だ。哀しみに沈む空気は予想していた。だが、なぜだろう?
俺が感じる、この奇妙な違和感。
聡一があらわれて、「なにやってんだオフクロ」 と照れた顔する姿が目に浮かんで、思わずヤツの部屋のある方を振り返っていた。
「そちらの方は?」
「あ、加藤です。このたびは・・・・・・」
「あら、そういえば、聡一のお葬式にもいらしてくださった?」
「はい、その・・・・・・」
「わざわざありがとうございます。あの馬鹿息子も、あんなにたくさんの人に送られて、あっちでいい気になっていると思います。そういう子だから」
俺たちの後ろで、加藤はしゃっちょこばった体を一層縮めていた。
気を使ったのか、あかねが「かすみはね」 と余計な紹介を加えた。「ようちゃんの彼女なの。もう、ラブラブなんだから」
小学生の頃から俺もあかねもかわいがってくれたおばさんは、鳩が豆鉄砲食らったような、と言えばいいのか、驚いた表情で俺と加藤を見比べた。
「あら、そう、そうなの、へえ」 それから、失礼だとでも思ったか、慌てて笑顔を作り、「お似合いのカップルね。おめでとう、洋平ちゃん」
このおばさんにかかると、俺も俊介も今だにちゃん付け、子供扱いだ。
「俺たちに、なにか話があるって聞いたんだけど」
話が先に進みそうもないので、俺は強引に割って入った。
「バンドのメンバーに」
「ええ」
おばさんは、少し黙って考える素振りをして、ふと、寂しげな笑顔を作った。
「みんなに、正直に答えてほしいんだけど」
正直に?
この手のフリにろくな話はない。俺たちは緊張した。
「聡一が生きていたら、将来、どうなっていたと思う?」
・・・・・・
俺たちは顔を見合わせた。
もし聡一が生きていて、ずっと生き続けて、十年後辺りにどうなっていたか。
どこかの誰かが、いつだったか、そんな話をしたこともある。
――やつには才能あるから、きっと、簡単にプロになっていたさ。
そう言ったやつは、聡一がどれだけ努力をしていたか、知らないのだろう。フレーズ一つ造り出すだけでも、あがいてもがいて苦悩したことを知らないのだ。
――まー、なんだかんだ言ったところで、普通の大人になってたんじゃないか?
そう言ったやつは、聡一の持つエネルギーと不断の自己練磨、周囲の迷惑も省みぬ一種盲目的に目的へ突き進む猪突猛進的な性格を、なめている。少なくとも、普通では終わらない。
だが、それらを否定してのち、聡一を最もよく知る俺たち三人と、ヤツの恋人であった奈美とは、答えを見出せないでいた。
・・・・・・考えたくなかったのかもしれない。仮定の話であっても、親しい友人のいない未来を、平然と語れるほど、まだ心は割り切れていないということか?
「ミュージシャンか小説家、だろうなぁ」
俺が何気なく、無難な答えを出すと、おばさんは俺の目を見つめてきた。
「本当にそう思う?」
目を逸らしたい欲求にかられたが、ここでそっぽ向くわけにもいかず、俺は言葉もなくうなずいた。
「少なくとも」 と、横から俊介が救いの手を入れてくれた。「クリエイターではあったと思う」