嘲笑
とてつもなくハッピーで、そのくせ、キスの一つもできない小心者の夏は、終わった。
あかねはあからさまに「キスとか、そういう行為っていうのは、相手が自分を好きなんだ、っていう確認のために必要なものなの。ようちゃんならわかるでしょ?」 なんぞと言って、加藤からの相談窓口という顔で説教していたが、俺はまだ、一線を越えるのに躊躇いがあった。
まるで子供だ。自分のことながら、あー、情けない。
ともかく、そんな夏休みも終えて、始業式当日。
当然のように、俺は式後に呼び出された。
公園での乱痴気騒ぎの首謀者として、誰よりも先の事情聴取と処分伝達だ。
実は、事情聴取の方は、あの事件直後にあらかた終わっていたので、簡単に済んだ。
問題はその後だった。
「遅いな、野々村先生は」
生活指導の井浦が、書類をめくりながらつぶやくでもなく言った。
「すぐに来るとおっしゃってたが」
「担任なんていいじゃねぇか。さっさと処分くだしてくれよ、井浦先生だって暇じゃねぇんだろ?」
「ああ、今日だけで十人がとこ呼び出す予定だからな。まったく、お前ら、馬鹿な真似をしてくれたもんだよ」
生活指導室は暑い。窓は開けているものの、かろうじて微風が入る程度で、気休めにしかなっていなかった。
「しかし、下苗が亡くなるとはな」
ぼそりと言った井浦の言葉に、俺は顔をうつむけた。
騒ぎの直後より、時間が経つにつれて、心の重りは重量を増した。世間でよく言うところの、実感がわく、ということなのかもしれない。始業式でも、無意識のうちに、生徒の列に聡一の姿を探していて、そうしている自分にショックを受けた。
「俺も、いろんな生徒を見てきたから思うんだがな、あいつは、大物になるか大損するか、どちらかの人間だった。結果的に、後者の予想が当たってしまったわけだ」
まさか、天敵である生活指導教諭から褒められるとは、と俺は自分のことのようにこそばゆくなったが、考えてみれば、さて、これは褒められたことになるのだろうか。
「下苗にしろお前にしろ、もう少し頭がいいとも思ってたんだが。ほら、例の署名騒ぎ、あれはお前が音頭を取ったんだろ?」
「無駄だったけどね。生徒の声って、教師には届かないもんなんスね」
「なにを言ってる」
井浦が苦笑いを浮かべ、長テーブルに組んだ両手を乗せた。
「勘違いしているようだから、言っておくが、あの署名騒ぎはな、お前の間違いだ」
カチンと頭にきた。
「なにが間違ってるンスか?」
「まず第一に、生徒の声を何百集めようが、下苗聡一のしでかしたことが、過去に遡って帳消しになることはない。極端な話、人を殺した人間を、実はやさしい人なのだと何人が弁護したところで、罪は消えない」
それは確かに極端だ。
「過半数の生徒が処分に反対したら処分撤回、なんて話も、民主主義的に思うかもしれないが、実は違う。これは、ただの数の暴力だ」
「難しい話はわかんないっスね、俺、頭わりぃの知ってるでしょ」
「だが、荒事は詳しいだろう? 普段から親しんでるんだ」
「そいつは決め付けだ、偏見だ、生徒を侮辱してる」
「まあ、聞け。署名運動というのは、人の声を集める最も簡単で最も重労働な、素晴らしい行為だ。だが、今回の一件にかぎり、お前たちの行為には、正当性がない」
正当性ときた。そんなものをいちいち考えて生活している大人とは違うのだ、知ったことではない。
「あの場合、まず最初に下苗が頭を下げ、反省していますという姿を見せなければならなかった。そんな素振りもなしに、ただ署名を集めて差し出しただけでは、署名に正当性を持たせることはできず、それは数を背景にした恫喝以外のなにものでもない」
井浦の言うこともわからないではないが、ただの理屈だ。聡一は、けして頭を下げはしなかったはずだ。退学とプライドを秤にかければ、退学なんぞ軽すぎて吹っ飛んでいく。
「下苗が土下座でもして、お前が集めた署名を持ってサポートすれば、結果は違ったんだろうがな」
生徒に土下座させようってのか、この横暴教師。
と井浦を心中で罵ってはみたものの、気分は晴れなかった。
もっといい方法があったかもしれない。それは、聡一が退学になってから、ずっと頭の中にあった後悔の念だ。
井浦に言われるまでもなく、俺は自分を責めてきた。
「ああ、野々村先生」
井浦の声に顔を上げると、いつの間に入ってきたのか、度のきつい眼鏡をかけた男がいた。
「署名騒ぎの話ですか?」
椅子に腰かけながら、野々村は薄ら笑いを浮かべて俺を見つめた。
「お前も馬鹿な真似したものだな、浦木」
面と向かって生徒を馬鹿呼ばわり。野々村は以前から気に入らない教師だったが、ますます嫌いになる。
「職員会議じゃ、大爆笑だったぞ」
まず目が気に入らない。このどんぐり眼、一歩間違えれば狂人の・・・・・・え?
今、なんて言った?
「野々村先生」 と制止の声をかける井浦を、野々村はまあまあと逆に制した。
「こういうことは、教えておいた方が、生徒のためにもなるんです。なにをすれば笑いものになるのか、知っておくのは本人のためになりますよ」
「しかし・・・・・・」
難しい顔の井浦と違って、野々村の薄ら笑いは変わらない。
笑いもの? なんの話だ?
「PTAでも、あの薄汚れたノートは、散々笑われたそうだ。正直、クラス担任の私まで恥ずかしい思いをした。まったく、馬鹿げたことをしたものだ」
すっ、と体温が下がったような気がした。
くだらないプライド――本来の字義とは異なる意味合いのものかもしれないが――俺の体を構成して、心を覆い隠す唯一のパーツ。
罵られてもそしられても、このパーツがはじき飛ばして心には届かない。だが、このパーツには弱点もある。
蔑まれ笑われることに耐えられず、過剰に反応して制御を失ってしまうのだ。
「まったく、生意気というか、小ざかしいというか・・・・・・」
野々村の言葉は途中で消えた。
反射的に立ち上がった俺は、後から、自分の中の怒りに正当性を与えた。
――笑われた。
雨の中を走り回るあかねや俊介、自分の非を素直に認めた隆太、雨を吸って膨らんだノート、集めた署名を持ち寄った時の、達成感に似たみんなの笑顔。
それを、嘲笑われた。
こいつは、嘲笑ったのだ。
胸の中で、風船が割れた。