表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/30

嘲笑

 とてつもなくハッピーで、そのくせ、キスの一つもできない小心者の夏は、終わった。

 あかねはあからさまに「キスとか、そういう行為っていうのは、相手が自分を好きなんだ、っていう確認のために必要なものなの。ようちゃんならわかるでしょ?」 なんぞと言って、加藤からの相談窓口という顔で説教していたが、俺はまだ、一線を越えるのに躊躇いがあった。

 まるで子供だ。自分のことながら、あー、情けない。

 ともかく、そんな夏休みも終えて、始業式当日。

 当然のように、俺は式後に呼び出された。

 公園での乱痴気騒ぎの首謀者として、誰よりも先の事情聴取と処分伝達だ。

 実は、事情聴取の方は、あの事件直後にあらかた終わっていたので、簡単に済んだ。

 問題はその後だった。

「遅いな、野々村先生は」

 生活指導の井浦が、書類をめくりながらつぶやくでもなく言った。

「すぐに来るとおっしゃってたが」

「担任なんていいじゃねぇか。さっさと処分くだしてくれよ、井浦先生だって暇じゃねぇんだろ?」

「ああ、今日だけで十人がとこ呼び出す予定だからな。まったく、お前ら、馬鹿な真似をしてくれたもんだよ」

 生活指導室は暑い。窓は開けているものの、かろうじて微風が入る程度で、気休めにしかなっていなかった。

「しかし、下苗が亡くなるとはな」

 ぼそりと言った井浦の言葉に、俺は顔をうつむけた。

 騒ぎの直後より、時間が経つにつれて、心の重りは重量を増した。世間でよく言うところの、実感がわく、ということなのかもしれない。始業式でも、無意識のうちに、生徒の列に聡一の姿を探していて、そうしている自分にショックを受けた。

「俺も、いろんな生徒を見てきたから思うんだがな、あいつは、大物になるか大損するか、どちらかの人間だった。結果的に、後者の予想が当たってしまったわけだ」

 まさか、天敵である生活指導教諭から褒められるとは、と俺は自分のことのようにこそばゆくなったが、考えてみれば、さて、これは褒められたことになるのだろうか。

「下苗にしろお前にしろ、もう少し頭がいいとも思ってたんだが。ほら、例の署名騒ぎ、あれはお前が音頭を取ったんだろ?」

「無駄だったけどね。生徒の声って、教師には届かないもんなんスね」

「なにを言ってる」

 井浦が苦笑いを浮かべ、長テーブルに組んだ両手を乗せた。

「勘違いしているようだから、言っておくが、あの署名騒ぎはな、お前の間違いだ」

 カチンと頭にきた。

「なにが間違ってるンスか?」

「まず第一に、生徒の声を何百集めようが、下苗聡一のしでかしたことが、過去に遡って帳消しになることはない。極端な話、人を殺した人間を、実はやさしい人なのだと何人が弁護したところで、罪は消えない」

 それは確かに極端だ。

「過半数の生徒が処分に反対したら処分撤回、なんて話も、民主主義的に思うかもしれないが、実は違う。これは、ただの数の暴力だ」

「難しい話はわかんないっスね、俺、頭わりぃの知ってるでしょ」

「だが、荒事は詳しいだろう? 普段から親しんでるんだ」

「そいつは決め付けだ、偏見だ、生徒を侮辱してる」

「まあ、聞け。署名運動というのは、人の声を集める最も簡単で最も重労働な、素晴らしい行為だ。だが、今回の一件にかぎり、お前たちの行為には、正当性がない」

 正当性ときた。そんなものをいちいち考えて生活している大人とは違うのだ、知ったことではない。

「あの場合、まず最初に下苗が頭を下げ、反省していますという姿を見せなければならなかった。そんな素振りもなしに、ただ署名を集めて差し出しただけでは、署名に正当性を持たせることはできず、それは数を背景にした恫喝以外のなにものでもない」

 井浦の言うこともわからないではないが、ただの理屈だ。聡一は、けして頭を下げはしなかったはずだ。退学とプライドを秤にかければ、退学なんぞ軽すぎて吹っ飛んでいく。

「下苗が土下座でもして、お前が集めた署名を持ってサポートすれば、結果は違ったんだろうがな」

 生徒に土下座させようってのか、この横暴教師。

 と井浦を心中で罵ってはみたものの、気分は晴れなかった。

 もっといい方法があったかもしれない。それは、聡一が退学になってから、ずっと頭の中にあった後悔の念だ。

 井浦に言われるまでもなく、俺は自分を責めてきた。

「ああ、野々村先生」

 井浦の声に顔を上げると、いつの間に入ってきたのか、度のきつい眼鏡をかけた男がいた。

「署名騒ぎの話ですか?」

 椅子に腰かけながら、野々村は薄ら笑いを浮かべて俺を見つめた。

「お前も馬鹿な真似したものだな、浦木」

 面と向かって生徒を馬鹿呼ばわり。野々村は以前から気に入らない教師だったが、ますます嫌いになる。

「職員会議じゃ、大爆笑だったぞ」

 まず目が気に入らない。このどんぐり眼、一歩間違えれば狂人の・・・・・・え?

 今、なんて言った?

「野々村先生」 と制止の声をかける井浦を、野々村はまあまあと逆に制した。

「こういうことは、教えておいた方が、生徒のためにもなるんです。なにをすれば笑いものになるのか、知っておくのは本人のためになりますよ」

「しかし・・・・・・」

 難しい顔の井浦と違って、野々村の薄ら笑いは変わらない。

 笑いもの? なんの話だ?

「PTAでも、あの薄汚れたノートは、散々笑われたそうだ。正直、クラス担任の私まで恥ずかしい思いをした。まったく、馬鹿げたことをしたものだ」

 すっ、と体温が下がったような気がした。

 くだらないプライド――本来の字義とは異なる意味合いのものかもしれないが――俺の体を構成して、心を覆い隠す唯一のパーツ。

 罵られてもそしられても、このパーツがはじき飛ばして心には届かない。だが、このパーツには弱点もある。

 蔑まれ笑われることに耐えられず、過剰に反応して制御を失ってしまうのだ。

「まったく、生意気というか、小ざかしいというか・・・・・・」

 野々村の言葉は途中で消えた。

 反射的に立ち上がった俺は、後から、自分の中の怒りに正当性を与えた。

 ――笑われた。

 雨の中を走り回るあかねや俊介、自分の非を素直に認めた隆太、雨を吸って膨らんだノート、集めた署名を持ち寄った時の、達成感に似たみんなの笑顔。

 それを、嘲笑われた。

 こいつは、嘲笑ったのだ。



 胸の中で、風船が割れた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ