タイムマシンがほしい
夜半に電話があって、俺は自室でコードレスフォンの子機を眺めていた。
あかねから、だ。
両親にとって、俺を悪の道に引きずり込む連中の中でも、彼女は特別警戒対象である。そんな空気を察していて、あかねは、滅多に俺の家には電話をかけてこないはずなのに。
深呼吸を一つして、俺は受話器を耳に当てた。
「もしもし」
『ようちゃん? 聞いたよ、かすみから、話』
頭の中からいろんな雑念が吹き飛んで、最後の最後に後悔と自責の雑念が残った。
加藤にあんな電話したら、あかねに知られる可能性だってあった。そんなことも考えずに、俺は馬鹿みたいな真似をしてしまった。くそッ、聡一、それもこれも、全部お前のせいだ。たぶん。
「なんの話だ?」
『もう。わけわかんないわ、ようちゃんの方から告白したんでしょ?』
むう、どこまで知っている?
『なのに、土壇場で怖気づいて腰が引けたんでしょ?』
「おッ、怖気づいたとはなんだ!? 誰が女相手にして怖気づくかよ、俺を誰だと思ってんだ」
『誰って、ようちゃんよ。本番のプレッシャーに弱いくせして、から元気ふりまく軟弱者』
むかっ腹が立った。こいつは、普段、そんな目で俺を見ていたのか! 事実だから、なお痛い。
「て、てめッ」
心の底ではわかっていた。あかねは、俺の性格を知っている。魂胆もなしに、こんなことを言ったりはしない。
挑発でもしてるのか?
『かすみ、泣いてたよ』
言われた瞬間、ヒートアップしていた心が、急速にクールダウンした。それは、恐怖だった。
まさか、俺がかけた一本の電話が、人を泣かせたのか? 加藤を、そこまで傷つけてしまっていたのか。
電話の内容を思い出し、どちらかと言うと俺の不能っぷりを暴き出してはいたが、彼女を傷つけるものではなかったはず・・・・・・とまで考えて、いやいや、と頭を振った。
女ってやつの心は、さっぱりかわからない。なにか不用意な一言が爆弾になったのかもしれん。
「・・・・・・加藤に、謝っといてくれ。変な電話かけて、悪かった、って」
人から嫌われるということも、俺にとっては恐ろしい出来事だった。冷たい視線や嫌悪の表情、侮蔑の言葉がどれだけ人を傷つけるか身を持って知っているし、たった一度の舌打ちだけでも、脳裡を深く突き刺す杭となりうると知っている。だから、嫌われるのはいやだ。
「ホント、悪かった」
『それでいーの? ごめんなさい、って言って、それですます気?』
「なにか言いたい」
『かすみのこと、好きなんでしょ!?』
少しばかり言葉を頭の中で反芻させて、びっくりして受話器を叩きつけそうになった。
なんでそーなる!? 俺がいつそんなこと言ったんだ、どこでそんな話になった!
「ばッ、ばッ、ばッ、ばッ」
言葉が出ない。なんでもくそもない、俺が昼間にこの口で言ったんじゃないか。
この世で最も誤解されたくない人の、俺的史上最悪の勘違いを否定しようと、頭の中に言葉がむなしく飛び回る。
ああ、確かに、ぶっつけ本番は苦手だ。せめて心の準備をさせてくれ。
『かすみだってね、中学の時から、ずっとようちゃん見てたんだから。人のことばっかり世話して自分なんかどーでもいいようちゃんは、知らなかったでしょうけどね!』
人の世話? なんたる曲解。
俺は自分が一番かわいい。他人の顔色窺うのは自分のためなのに。
・・・・・・悪い誤解ではないな。そう思われていたのなら、なんとなく、よし、だ。
とまで考えて、おや、とあかねの話の前半部分に驚いた。
「ちょっと待て、あかね、加藤は確か、俊介と同じ中学だろ? 俺が聞いた話じゃ、中学ン時は、俊介のファンだったとか」
『誤魔化してたのに決まってんでしょ、この能天気バカ。かすみはずっと一筋よ』
うーん、しかし。
「加藤の性格からしたら、すぐにコクってきそうなもんだがなぁ。俺、ずっとフリーだし」
『もう、この阿呆!』
まるでなにか投げつけてきそうな怒声に、反射的に体をすくめていた。
「なんだよ」
『あたしとあんた、付き合ってるって噂、気にしてたの。そんなこともわかんないの、やっぱデリカシーのかけらもないのね!』
「そんな噂、あったっけ?」
『アンタの頭は究極鈍感ミステリーね』
意味がわからん。
『影でこそこそ言われてたの。見つけるたびにはっ倒してきたけど、この噂、なかなか消えなくて』
噂の存在はハッピーな気分にさせてくれる。なぜ、たかが噂なのに、こんなに嬉しいの?
だが同時に、消防隊の消火活動のように、噂を踏んづけて消して回っているあかねを想像して、俺まで踏みにじられて消えてしまいそうになった。
はっ倒してまで否定しなくてもいいじゃないか・・・・・・
『今は、あたしも正式に付き合ってる彼氏いるし、ようちゃんの気持ちもはっきりしたし。かすみが泣く理由なんて、なに一つないじゃない』
俺の気持ちがどこでどうはっきりしたって? たしかに、はっきり勘違いされてはいるが。
「なあ、あかね、あのさ、今日の電話はそういうんじゃなくてさ」
『なに!? まさか、かすみが言う通り、賭けの対象にでもしてたっていうの!? 乙女心を!』
今度こそ、時空を越えて石でも投げつけてきそうな剣幕だった。
違う。違うが、近い。遊び一歩手前だ。しかし、いいのか、それを言ってしまって? あかねはきっと激怒する。今のテンションから言って、十中八九間違いない。
否定する言葉が出てこない。俺は誰より、あかねに嫌われるのが怖い。
『いい? 明日、珈琲長屋で待ってるから』
有無を言わさぬ口調で駅前の喫茶店の名を告げて、あかねは電話を切った。
なんでこうなった?
深い深い後悔の中で、俺は受話器を呆然と眺めた。