自由の結果
大きな池のある公園は、外周を遊歩道が通り、雑木林とも呼べる茂みがあって、地面は半分が芝敷き、遊具もなんとなく新しい。
「奈美ちゃん、なんで公園なんて?」
買出し組を待つ間、俺は何気なく訊ねた。
奈美が、俊介と話していて背を向けている聡一を見やり、それから、やや離れて新恋人と仲睦まじいあかねを見た。
「あの時が、一番楽しかったね」
それじゃ答えになってない、と言おうとして、やめた。
ああ、立派に答えになってるな、ソレ。
「心ってやつは、脳みその電気信号と脳内分泌物質の副産物だよ」
酔っ払った俊介が脈絡もなくいきなり話しかけてきた。
地べたに座る俺の隣に腰かけ、飲め、と紙コップを差し出す。
手に持つスルメを口に放り込んで、俺は焼酎らしい酒の入ったコップを受け取った。
「そうだろ? 突き詰めて突き詰めて終局まで考えていけば、結局脳みそだって内臓の一種だ。物理的な働きで人間の体を動かしてる。だったら、心だって」
「逃げるなシュンー」
聡一がはいつくばって俊介を追いかけてきた。
「てめぇのその馬鹿馬鹿しいかちこちの頭をやーらかくしてやる」
「だってそうじゃないか」
「違―う! 心は、脳みそからはみ出してんだ。感じることってのは、神経の電気なんかじゃねぇ」
「末端神経が刺激を受けて、脊髄を通って脳にいたる。それが感じるっていう」
「電気信号とやらのアレだと、もっと効率的なはずだろ。けどな、心ってやつは、非効率的で複雑で無茶苦茶だ」
二人とも、相手の話をろくに聞かずに、自分の説を述べている。
眺めていても楽しいが、眺めているだけというのはなんだかむなしいので、立ち上がってベンチへ向かった。
公園では、あちこちで車座になった男女が、思い思いに酒を酌み交わしていた。踊りだすやつもいるし、下手な歌を披露する者もいる。
いくつかのグループへ声をかけて回り、その度に一杯飲むハメになった。
池に飛び込む馬鹿が出てきて、一匹だけ住み着いているカモを追いかけ回した。
宴もたけなわと言うやつだろう。みんなが笑って、ところどころで泣いたり怒ったりしてるやつもいたが、ともかくにぎやかな飲み会になった。
と、思いながらベンチに腰かけると、少し離れた公衆トイレを出たあかねと、目が合った。
すぐに目を逸らして、星空を見上げる。
俺は星座を探すのが苦手だ。必死になって探し、見つけてみると、えッ、こんなにでかいのか!? といつも驚嘆する。たぶん、俺の小さな感性は、星空のスケールについていけないのだ。
足音がして、俺は体が動かせなくなった。
目を向けたい、だが駄目だ。
なぜ駄目だか、よくわからない。ただ心が俺を制止する。動くな。星空を見続けろ。
「ようちゃん」
久しぶりに聞く、懐かしい呼び方だった。
「なんだ、あかねか」
初めて気付いたという顔を彼女へ向けて、俺は無意識のうちに腰をずらして、席を譲った。
あかねはどすんと腰を降ろし、さっきの俺と同じように空を見上げた。
彼女が顎をあげ、白い喉を覗かせて空を見上げる姿。思えば、今まで当たり前のように思っていたが、ここ一月あまり、その姿を見ていなかった俺にとっては、ひどく感情をかき乱される光景だった。
「空がきれいだね」
「青空の方が好きだろ?」
「うん」
「どこまでも続く、雲ひとつない、真っ青な空とか、それに、ナントカ言う、雲の模様とか」
「上で強い風が吹いてると、それもしょっちゅう風向きが変わったりする風、すると、雲はちぎれて、離れて、またくっついて、渦をまいて」
「朝と夕方、特に朝か? 澄んだ空気に、赤と青とオレンジと黄色と、その中の乱れた雲」
「あれはね、絵画に匹敵するよ。スケールで言えば、どんな名画もかなわない」
なんとか平静に話せているはずだ、と自分に言い聞かせた。酔った頭が急速に冷めたとはいえ、基本的に今の俺の血中アルコール濃度は馬鹿みたいに高い。どんな馬鹿をしでかすか、自分でも予測不能だ。
俺の名は浦木洋平、十六歳、ドラマー、好きなものあかね、嫌いなものあかねの彼氏。
自分のパーソナルデータを頭の中に引っ張り出し、よし、まだ正気だ、と正気でない脳が判断を下していた。
「さすが、あたしのこと、よくわかってんじゃない」
「昨日今日の付き合いじゃねぇからな。俊介に言わせれば、俺は気配りのできるイイ人なんだぜ」
「・・・・・・やさしいからね、ようちゃん」
「俊介にも言われたけどさ、それ、なんか違う気がすんだよ。俺は別に、やさしいとかそんなんじゃねぇ。人の顔色窺って生きる臆病モンさ」
そう言ってから、俺はわざとらしく公園を見渡した。
「それより、お前の新恋人ほっといていいのか?」
あかねはしばらく俺の横顔を見つめてから、一角を指差した。
「なんか、みんな冷たくするから、隅っこ行っちゃった。ようちゃんから言ってよ、仲良くしてあげて、って」
つまり、アレか。それを言うために、今、俺に声をかけたわけか。
怒りではなく、やりきれないむなしさだった。
「・・・・・・言っておくよ」
絶対言わん。仲間はずれにしてやる。
「用はそれだけか? ならさっさと行ってしまえ」
「え? な、なによ、その言い方。久しぶりに二人で話してんのに、頭きた。その言い方には腹たった」
「うるせぇ、昔は用もねぇのにまとわりついてきたクセしやがって、今じゃ打算で身を寄せてくるのかよ」
「うあ、きた、久しぶりに来た。予感がする。あたしが自分を抑えきれなくなる予感がする」
「ホントのことだろ」
「あたしがいつあんたにまとわりついたの!?何時何分何秒!?」
「合格発表の日の一時二分十九秒だ」
思わず反射的に答えてしまい、俺ははっとなってフォローした。
「辺りかまわずみんなに抱きついてたじゃねーか、お前。アレだ、アレ」
実際には、あかねが抱きついたのは、常に彼女の近くをキープしていた俺だけだ。それは確認している。心にガッツポーズ決めて時計を見たから時間も確かだ。
「アレは・・・・・・」
あかねがなにか言おうとした時、突然、目の前に聡一が現れた。
ぜーはー息を乱している。
「いいか、聞け、洋平。人生は円なんだ」
「はあ?」
わけがわからん。いきなりなんなんだ、この男は。
聡一が無理矢理引っ張ってきたらしい俊介は、立ち止まった途端に地面に砕け、ぶっ倒れた。飲みすぎたか。
「円だ。俊介は直線だ、って言うんだがな、違うんだ。円だよ、円」
実際には、聡一の舌はろくに回っていなくて、言葉を聞き取るのも困難だった。
「俊介が言うには、これは俊介の言葉だぞ、俺のじゃないからなあ」
酔っ払い特有のしつこさだ。
「人生は直線とか言うんだ。誕生でヨーイドンとスタート切って、ゴールが死だ」
死ときたか。壮大な話だ。俺には無関係だ。
「しかしな、実際は違うのだ。人生は円、例えるなら陸上のトラック競技だ。あちこちにスタートラインがあって、ゴールもある。スタートしてゴールして、またスタートしてゴールする、それが人生だ、違うかきみたちぃ。って、なんであかねがいるんだ?」
「でもさあ、同じ場所をぐるぐる回るなんて、面白くないわ。進歩もないじやない」
「それだ、それ! 西洋文明の毒素に蝕まれた愚か者たちの妄想よ! 進歩が全てよいわけではないのだ!」
ばりばり欧米発祥の音楽にハマッていて、デジタル楽器を操る聡一が、自分を全否定する。
「一直線の人生観は西洋思想だ。少なくとも、俺が知るかぎりではそうだ」
「そんなもの、西も東も関係ないわ」
「あーる! 原初の起源から終末まで一直線の西洋思想と、輪廻転生に根付いた繰り返しの円は決定的に違ーう!」
聡一、テンション高すぎだ。言葉使いがかなり怪しい。
「そもそも、スタートとゴールっつう考え方自体反対だ。大反対だ。始めも終わりもなく、ただ、ぐるぐる回るのだ。ぐーるぐーる」
「そういうの、停滞って言うのよ。あたしは、一直線に走りたい。死ぬことまでまで考えてないけど、もっとスケール小さいところでも、スタートがあってゴールがあって、あたしはまっすぐ走りたい。実際にできるかどうか、自信はないし、いつもおかしな方に行っちゃうけど」
「走ればいいさ! ただ、一直線だと思うから、一度しかないと思うから、怖かったり不安になったりするのさ! いいか、人生は円だ。つまりな、案外、やり直しがきくもんだ、と俺は言いたいのだ。なのに、この俊介はまっすぐだ、交わらない、とかわけのわからんことを」
ああ、そうか。
聡一の言いたいことがわかって、俺は思わず笑った。
聡一らしくないが、彼なりに俺たちを気遣ってくれているのだ。
退学になったが、まだまだやり直しはきくんだぞ、と。
「つまり陸上競技は人生だ」
どういう経路でそう達したのかわからないが、聡一は結論づけた。
「それは納得。だけど、人生はトラック競技じゃない、マラソンよ。二度と、同じコースを同じ方向で走ることはないわ」
反論するあかね。
見ているだけで楽しいが、間に入っていけない自分が情けなかった。
あかねのそばにいるだけで幸せで、ところが、新恋人へ視線を向ければあらゆる痛苦が俺を襲い、胸の中でむやみやたらと風船が膨らんでいく。この風船が破裂したら、とんでもないことをしでかすだろう、という予感があった。
たぶん、なにか叫んでいたと思う。酒というものは怖いなあ。
俺は立ち上がって、池へ向かって走った。途中で、半分ほど中身を残した焼酎ビンをかっぱらい、水の中に飛び込んだ。
冷たかった。だがそれ以上に、爽快だった。馬鹿をやるのは、これほど気持ちのいいものなのか。
池にビンを浸して水を入れ、水割りにした焼酎を喉に流し込んだ。
すっきりした。
水位が膝までの池で、泳いでみた。
快感だった。
目の前には輝く世界が広がっているように思えた。
聡一が走ってきて、ばしゃばしゃ近づいてきた。
「話の途中で逃げるな、洋平。座れ、いいから落ち着け」
水中に座り込んた聡一は、俺の腰にしがみついている。池の真ん中で、落ち着けもくそもない。
座ると、みぞおち辺りで水面が広がる、奇妙な状態で向き合うことになった。
「いいかぁ、円というのはぁ」
俺が焼酎のビンを傾けると、聡一がひったくるようにして奪い、ごくごく飲んでいた。
見ると、あかねまで池に飛び込んではしゃいでいて、あかねの新恋人は呆然とそれを眺めていた。信じられないという顔だ。
あかねがどんな風に猫かぶってたか知らないが、新恋人くんは彼女を知らない。あかねは、夜のプールにだって飛び込むんだぜ。
宴終わって、ゴミを片付けたのは平静組だ。
酔っ払ってわけわからなくなったやつは、早々に帰している。いたら迷惑ふりまくだけだ。
片づけを終えて、俺はぐったりしている俊介と聡一に声をかけた。
「帰るぞー」
「ぅおう」
答えはしたが俊介はぐったりしていて、聡一もすでに意識がない。
困ったな、と思った時、あかねが俊介の頬を引っぱたいた。
おおい!
「立てぇー! 終点だぞぉー!」
意味がわからん。
俊介はよろよろと立ち上がり、手の平の形にばっちり赤くなった頬を撫でた。
ともかくも、シラフの奈美に手伝ってもらって、比較的酔ってない――比較であって酔ってはいる――俺が聡一を背負った。怪しい俊介は怪しいあかねが面倒見た。
あかねの新恋人とやらは、消えていた。聡一を送る、と言い張る彼女に、好きにしろよと捨てゼリフを吐いて帰ったのだ。
あかねに対してなんて言い草だ。あいつはいつか、必ずぶち殺す。
俊介は団地も近かったのですぐに済んだ。
問題は聡一だった。
「ねぇ、聡一くんの体、凄く冷たい」
奈美が不安そうに言うのもわかる。
こいつは俺の背中で三回嘔吐して、おかげてこっちはゲロまみれだ。
そのうえ、聡一の体が震えて、いつからか、意識が回復したとも思えない、寝言みたいな、意味不明の言葉を繰り返し始めていた。
言葉と呼んでいいのかどうか。少なくとも、聡一の言葉は言葉になっていなかった。
体がどんどん冷たくなっていく。激しかった呼吸が、今では途切れ途切れだ。わけのわからない泡を吐き出し始めている。
不吉な予感がした。今まで、こんな症状、出会ったことがない。あかねも奈美もひどく狼狽していた。
不安に押されて、走り出していた。酒の効果のおかげで、筋力はいつもの数倍の性能を発揮したと思う。
さくら病院とやらに直行した時、俺の体はゲロ以外にも聡一の小便やらなにやらで汚れていた。
病院という、独特の静謐さを持つ廊下は、時間の経過をひどく遅くさせる効果がある。
奥の処置室へ運ばれた聡一の帰還を、今か、今かと待っていた。
下苗聡一、享年十五歳。死因、急性アルコール中毒。