序 妄想萌え出る空
山本増太の脳内はメイドで埋め尽くされていた。
東京からの帰りの飛行機。その機内で、増太は買ったばかりのメイドものコミックを読みふけっている。隣の席の白髪のおじさんが不快そうな顔をしているが、そんなことは気にしない。
秋葉原はもちろん、建設中のスカイツリーや国会議事堂の見物も終え、高校の夏休みを利用した彼の一人旅は満足のいくものとなるはずだった。
何もかもが順調だったたびの最後の最後に、それは起こった。アナウンスは着陸態勢への移行を告げ、増太の読むコミックの物語も佳境に入る頃、突然機体が大きく揺れた。機内のランプが不安定に明滅し、乗客たちは異常事態を察知する。
誰かが悲鳴を上げた。増太も顔を上げ、あたりを見回した。
異変はさらに起こった。まず、エレベーターの降下時の様な加速度が内臓にのしかかる。
「おいおい……」
そしてそれは瞬く間にエスカレートし、全身を掃除機で吸われるような感覚に変わる。
「やばいだろっ……、これっ」
その場にいる皆が、気付いていた。この飛行機は真っ逆さまに落ちている。もはや助かるすべはない、と。
周囲の乗客が意識を保つことすら困難な状況で、増太は再びコミックに目を落とした。表紙では黒髪ショートヘアーのメイドが微笑んでいる。白いカチューシャが眩しい。
「ちょっ……、俺こんなとこで死にたくないんです。メイドさん」
二次元のメイドは答えない。
「ああ、でも最後にリリーちゃんの笑顔を見ながら死ねるなら本望かも……」
リリーとやらは、やはり答えない。笑顔のまま、増太を見ている。
「リリーちゃん可愛い……」
機体が風圧でつぶされるのではないかと言うほどの、すさまじい風の音。
「リリーちゃん……。リリーちゃんリリーちゃんリリーちゃんリリーちゃんリリーちゃんリリーちゃんリリーちゃんリリーちゃんリリーちゃんリリリーちゃんリリーちゃんリーちゃんリリーちゃんリリーちゃんリリーちゃんリリーちゃんリリーちゃんリリーちゃん、はぁはぁ……!」
座席の窓から地上の景色が見えた。地面にたたきつけられる数秒前。全ての者の悲鳴が轟音にかき消された瞬間。
「死んだら、二次の世界に行けるかな……」
「その必要はありません、マスター」
「え?」
彼はまだ生きていた。悲惨な飛行機事故の唯一の生き残りとして、テレビや新聞の取材も何度か受けた。大した怪我もなく、まさに奇跡と言われる類の生還だった。
検査入院だけで退院した増太は、夏休みの残りをのんびりと楽しんでいた。窓の外には青い空と入道雲が見える。クーラーを利かせた部屋で、彼はいまだメイドもののコミックを読んでいた。こうしていると、何もかも嘘だったように思える。何一つ変わらぬ日常。
「ああ、エリカちゃんもいいなぁ。メイドでありながらも、ご主人様に対して素直になれないこの感じ……たまらないっ。この作者の新刊も、買い、だな」
「むぅ。ツインテールのメイドさんの方がいいんですかぁ? マスタァ」
「いやっ、別にそういうことじゃ……」
唯一つ、隣にリリーがいることを除いては。