後編
誤字脱字等、ご容赦ください。
「それで、決心はつきましたか?」
リリアムの部下はぎこちない動きで時計を見上げた。クラールのあの言葉、「アイリムの代わりにこの事件の全責任はアバタニアスが負う」という言葉に悩まされ、気づけば1時間以上も経っていた。当の彼女は一言も喋らずにクラールを見つめている。そして彼もまたほとんど喋らずにリリアムの言葉を待っていた。が、ついにしびれを切らしたようだ。
「賢い貴女ならすぐにでも頷くと思っていたのですがね。何を悩んでいるのです、一体何が気がかりなのですか?」
「……あなたたちにアイリムを渡せば、一体どれほどの人間が死ぬことになるのか。私は戦争に手を貸すつもりは毛頭ありません」
「すでに大勢が死んでいるというのに?……バスフロのユーザーは全世界の約7割。50億人があなたの『ミス』で死んだのです。未来永劫語り継がれるでしょう、『史上最悪の大量殺人犯』として。そんな不名誉、残したくはないでしょう?もう少し賢くなることをお勧めします」
「……この一件は、私が責任を……」
「それは無理だと先ほど話したばかりだ。……もう一度休息を取られてはいかがですかな。疲れのせいで碌に頭が働いていないように思える」
一言何かを話すたびに、リリアムの生気が衰えているようだ。次第に声も小さくなり、言葉も途切れ始めている。
「……いいえ、あなたから目を離すことはできません。私がいない間に、バスフロを乗っ取る気でしょう。これは、我々の問題です。ですから……」
リリアムがそう言いながら右手で部屋の扉を示した。……その手はクラールによって降ろされてしまう。
「甘ったれるな!『我々の問題』で説明がつく範疇はとうに過ぎていると、何度言えば理解する!?貴様の命一つでは、到底収まりがつかないところにまで、すでに来ているのだ。もう少し合理的に考えたまえ」
ついにクラールが本性を現した。部屋中に響くドスの効いた低い声で、リリアムを責める。……憔悴しきった彼女の様子は、どうしても見るに堪えないものだった。
「……ですが、私は……」
「そもそも。私の提案を飲む気がないのなら、なぜ1時間も悩む必要がある。あの時にさっさと断っておけばよかったではないか。……天秤にかけたのだろう。己が身の破滅と、アバタニアスの繁栄。どちらがより自分にとって苦しいものであるのか。すでに答えは出ていよう。しかし!貴様はそれを認められなかった。どう贖ったところで意味のない重責から逃れたいと、少しでも思ったのだろう?……それを必死にかき消している」
「違う!私は……」
「……『女とは、男から理性と責任感を取り除いた存在である』。遥か昔にどこぞの哲学者が遺した言葉です。今のあなたを見ていると、その言葉は正しかったと確信できますね。……あなたは研究者だ。アイリムを生み出すことのできるその聡明な頭脳ならば、今自分が何を選ぶべきか。よくお判りでしょう」
「私は……。私は……」
「……失礼。少々上司に連絡を。まだまだ帰れそうにはありませんので」
クラールはそう言い残すと足早に部屋を出て行った。その足運びはなんだか荒々しく、苛立っているように見えた。
「……はい、クラールです。いえ、そろそろかと。いくら優秀な頭脳を持とうとも所詮は女にすぎません。わが身可愛さに逃げ出すはずです。……ええ、お任せください」
「あんたも面倒なことに巻き込まれたな。いや、自分から首を突っ込んだんだっけな。暇人かよ」
リースから出発した馬車の中。操縦席に座っている男が話しかけてくる。彼の胸元にも同じバッジがついていた。
「一生ここで生きていくんだから、暇人に決まってるだろ。俺にいわせりゃ馬車の御者なんてやってるあんたも似たようなもんだがな」
「……それにしても、大の大人が雁首揃えてやることがまさかのガキ探しとはよ。そんなことをするために現実を捨てたわけじゃねえんだけどな」
「よくしゃべる。……ロキードまではどれほどかかる?」
「さあな。今は街道の安全も保障されてなくてよ。魔王サマが本気になられてな。そこら中に魔物がいるのさ。もしかしたらロキードどころかパラテスを通過できるかすら怪しいな。無敵化のチートでもあれば楽なんだけどよ、機械に作られた世界でも、そう都合よくはいかねえってこったな」
リースを出発してからすでに2時間ほど経過しているが、未だパラテスの街は見えてこない。見晴らしの良い街道には魔物に襲われたのか、馬車の残骸や人間の死骸が転がっていた。運が悪ければ自分もそうなってしまうのか。……余計な思考を振りほどくように首を横に振る。その時はその時、今はとにかく自分ができることを考えるしかない。
「……どうやら面倒なことになってきたみたいだな」
操縦席に座る男がそう口にした。俺は顔をあげると、彼が「ほら」と指さす先に視線を送る。そこにはパラテスの街と、そこから立ち上る黒煙があった。操縦席に座る男は席から飛び降りると、街に駆け寄っていく。
「クソ。……悪いが休憩はなしだ。こんなところで寝転がればすぐに火だるまになっちまう。すぐにロキードに……」
「待って!助けて!」
街から離れようとする俺たちに助けを求める声が届く。火の中に、誰かがいるのだろう。景色を映す眼すら焼き尽くさんとばかりに燃え盛る炎の先は、いくつもの瓦礫が積み重なって大きな火柱を作り上げていた。
「ここから出して!」
助けを求める声。それは瓦礫の中から聞こえて来た。……俺たちにはどうしようもない。火を消す術を持ち合わせておらず、瓦礫をどかせる力も持ち合わせていない。
「……離れよう」
「あ、ああ……」
俺の言葉に御者の男はただ従った。馬車はロキード方面へと向き変った。
「ここに誰かいるぞ。……こいつじゃない、次は向こうだ」
「助けて!いかないで!待って!」
パラテスで何が起こっているのか、今は何も考えたくはない。ただ助けを求めていた声が、街が見えなくなるまでずっと耳に残っていた。
「よし、こんなもんでいいかな」
僕は古ぼけた小屋の中を見渡していた。努と協力して一通り掃除を終えた。さすがに古くなったものを新しくすることはできないが、埃は見当たらなくなった。ひとまずはこの程度でいいだろう。掃除が本来すべきことではないのだ。
「おつかれさまでした。良かったらどうぞ」
マリアちゃんが水を用意してくれたようだ。僕らは礼を言ってグラスを受け取った。しばらく働きっぱなしだったせいでのどが渇いていた。水がよくしみる。
「ふう……。さて、それじゃ僕たちも少し休ませてもらおうかな」
「ああ、そうだな。足も痛えし腰も痛えや。……ゲームの中のはずなのにな」
僕たちは革のソファに座り、天井を仰いだ。あまりよくない姿勢だが、埃が積もっていたベッドにはさすがに寝転がりたくはなかった。まあ、少し寝られるだけでも十分だろう。そう思いながら意識を手放した。しかし、すぐにマリアちゃんに叩き起こされることになる。
「翔一さん!起きてください!努さんも!」
「もしかして正義会!?」
この場所がもう奴らにバレてしまったのか。彼女の必死そうな声ですぐに目を覚ました。努もつられて目を覚ましている。
「いえ、違います。でも、あれを……」
彼女はそう言って窓の外を指さした。その先には黒煙が空へと立ち上っている。煙の下は紅蓮に包まれていた。
「あそこは……パラテスか?」
「パラテスって言うと……メイアがいたところだったな。何があったんだ……?」
遠く離れている地だというのに、パラテスを焼く炎がはっきりと見えていた。
「どういうことです!一体何が……」
リリアムは苛立ちを隠すこともなく声を張り上げた。「パラテスが燃えている」。部下からそう報告されたのだ。……バスフロ内で火災事故は発生しないよう設定されている。確かにリアリティは大事だが、事故をわざわざ再現する理由などどこにもないのだ。だというのに、火災が発生していた。
「アイリムの仕業と考えるほかありません」
彼らが目指していたもの。それはバスフロを「新たな現実世界」とすることだった。それは当然アイリムにデータとして打ち込んでおり、ゲーム内での演算を任せていた。……現実では当然火事は起きる。
「……やはり、アイリムは暴走などしていなかったのですか」
彼女らの話を聞いていたクラールは、小さくため息をつきながら言った。
「最初から何かおかしいとは思っていました。暴走にしては、あまりにも『理性的』過ぎる。確かに、リリアム女史が想像していたような挙動ではないのだから暴走とは言えるでしょう。しかし、今の所ログアウトができなくなることと、外部からのアクセスが不可能になっていることしか不具合が発生していない」
「……あなたには関係のないことです」
厳しいところを突かれたからか、リリアムは無理矢理に話を終わらせにかかる。しかし、クラールはそんな彼女の言葉を無視して言葉を続けた。
「我々が生きるこの世界に、『ログアウト』もなければ『外部からのアクセス』も存在しない。……アイリムはただ、あなたに言われたことを健気に守っているだけなのでは?」
「……今はそんな話をしている場合ではないのです。もし仮にクラール中将のおっしゃったとおりだったとしても、アイリムは私の想定から大きく離れた挙動をしているのです。それなら何としても止めねばなりません」
「先ほどもお話した通りですが、止めたところで何にもなりませんよ。……失礼、少々連絡を」
クラールは冷たく言い捨てると、またもや部屋を出て行く。何度も部屋を行ったり来たりしている様子は、その場にいる全員に落ち着きのなさを印象付けていた。そんなことを知らないクラールは部屋から少し離れたところで、電話越しに怒りをぶつける。
「……マリアは見つかったか」
『いえ。まだです。……もしかするとパラテスにはいないやも知れませぬ。やはりロキードか、それとも正義会以外の物が匿っているか……』
「……なるほど。お前はこう言いたいのだな。『我々はどこぞの馬の骨に出し抜かれるほど役立たずな者の集まりです』と」
『いいえ、そう言う訳では……』
「では探し出せ。……『努力』をしろ。わざわざ火を放ってあぶりだすなどという策を与えてやったのだ。それ相応の成果はあって然るべきではないか?」
『……承知いたしました。……クラール中将、一つご報告がございます』
「なんだ?」
『パラテスで正義会を取り仕切っていたメイアですが、火災後に行方不明となりました。現在は暫定的に私が取り仕切っていますが、新たな支部長はいかがいたしましょう?』
「……構わん。お前がそのまま続けろ」
クラールは乱暴に通話を切った。彼は体中にたまった苛立ちをすべて吐き出すように大きくため息をつく。
「マリア……。これほどまでに手を煩わせてくれるとはな」
「ついたぞ、ロキードだ」
俺は馬車から降りる。火事に気を取られていたせいか、それともゲームの世界だというのに馬車を引く馬の疲れがしっかり再現されているからか。予定よりもすっかり遅くなり、日が傾き始めていた。
「じゃ、俺はここまでだ。……ほら、これ」
彼は小さく折り畳まれた紙を差し出す。受け取って広げてみると、それは地図だった。ロキードから魔王城までの道のりが黒いインクでなぞられており、ある一点には何かを囲むように丸が付けられていた。
「ここに行けってことか?」
「そう言うことだ。そこには正義会の『本部』がある。マイク支部長からはすでに連絡が行っているはずだから、頑張ってそこを目指しな」
「……俺が頼まれたのはマリアを探すことだ。別にここに行かなくとも……」
「噂じゃあ、マリアはもう誰かに盗られたらしい。だが、その誰かは名乗りも上げずバスフロの支配者になろうともしない。……となると、そいつが考えているのはたった一つ……」
「アイリムの無力化。……だができるのか?いくら社長の娘とは言え、そんな万能じみた存在がいる訳……」
「さあな。知らねえしどうでもいい。ただ、他の奴らはそれを必死に信じてる。そんな奴らの前で、『そんなの嘘だろう』とは言えないね。……積みあがった死体を見れば、誰でもそう思うだろうさ」
彼はそう言うと、大きくあくびをした。
「悪い。……俺はもう休ませてもらうぜ。お前は?」
「……先を急ぐ。マイクが連絡してくれているなら、向こうを待たせるのは悪い」
「お前……。そんなに真面目じゃ、現実で生き辛かっただろ。……まあいいや、じゃあな」
余計なお世話だと言いかけたが、すでに彼の姿はなくなっていた。その代わりと言うように血柵ため息をつき、地図と道を見比べながら歩き始める。そうしてから5分もしないうちにある出来事で足を止めることになった。
「……腹減ったな」
次第にこの世界の出来の良さに不便を覚えるようになる。何故ゲームの世界で腹が減るのだろうか。適当に目を付けた飯屋に入った。
「注文は?」
「サンドイッチを、3つ」
「了解、待っててくれ」
降びれた大学生のような物言いの店員が店番をしている。街道にはそれなりに人がいたというのに、まるで皆避けているかのように別の店へと入っていく。……この店の食事は不味かったりするのだろうか。
「はい、お待ちどう」
目の前にサンドイッチが置かれる。一つ手に取って食べるが、味は悪くない。ならばなぜこの店はこんなにガラガラなのだろうか。店員の態度はそれほど良くないが、不快になるようなものではない。……彼はカウンターで暇そうにしている。俺は卓上のベルを鳴らした。彼は気怠そうに立ち上がるが、文句を言うこともなくこちらへと向かってきた。
「どうした、アレルギーでも……。いや、この世界にアレルギーはないか。水でも欲しいのか?」
「いや、聞きたいことがあるだけだ。なんでこの店はこんなに空いてるんだろうな、と」
「……素人か。お前が胸元に付けているバッジが原因だよ」
俺は胸元につけているバッジをつまんだ。
「これが?」
「ああ。正義会は俺に言わせればカルトと変わらん。……『正義会は入店お断り』なんてのもいろいろあるわけだ。ウチはそんなのしてないけどな」
「ならもっと人が集まるんじゃないか?」
「ああ、そうなるとな、正義会とそれ以外がぶつかり合うんだよ。……で、すぐトラブルになる。それを繰り返していくうち、誰も来なくなったってわけだ」
誰でも不要なトラブルは避けたいものだということか。正義会がどんな組織かあまりわかっていなかったが、いい収穫になったといえるだろう。彼ならさらなる情報も聞きだせるかもしれない。
「……俺もそうなんだが、正義会はある女の子を探し回ってる。何か知らないか?」
「マリアのことだろ?」
やはり知っていた。つい身を乗り出してしまう。
「知ってるのか⁉」
「ああ。もうこの街にいないことをな。……魔王城に向かっているはずだが、さてどんな道をたどっているかは知らねえ」
かなり貴重な情報だ。……街道にあふれかえっていた正義会の多さからして、奴らはその情報を知らない。
「他の奴には話してないのか?」
「ああ。だって聞かれてねえし」
彼はかなりの面倒くさがり屋だが、今はそれに助けられている。地図に記された正義会本部への道を辿りながら探してみてもいいだろう。
「……助かった。代金だ」
俺は適当に硬貨を置いて店を後にした。マリアはこの街にはもういない。ならばロキードの中で歩き回る意味もない。……何も知らない同士を見捨て、一足先に門をくぐった。
「もう日が暮れて来たな」
窓から目を離した努がそう言う。僕たちは魔王城へ続く荒れ道の途中にあった古ぼけた小屋で休んでいた。パラテスで起きた火事から目を離せず、あらかた炎が収まったときにはすでに日が暮れかけていた。部屋に差し込む陽の光も弱まり、小屋の中も薄暗くなっていく。それに耐えかねた努がランタンに手を伸ばしたところで、僕はそれを制止した。
「駄目だ。明かりはつけちゃいけない」
「なんで?真っ暗じゃ不便だろ?」
「ここを通りがかった誰かに、中にいることを気付かれる。もしそれが正義会だったら……」
「……悪い、うかつだった」
明かりは何とかしなければならないが、今はそれよりも大事な問題が僕たちを襲っていた。それは……。
「お腹すいたな……」
空腹だった。思えばマリアちゃんと行動を共にしてから、食事をした覚えがない。ゆっくり食事ができるような状況でもなかったので、仕方ないと言えば仕方ないが、エネルギーを蓄えておかねばいざという時に逃げ切れない。とはいってもここは荒れ道。草木も乏しく、川は谷の奥深くで流れている。サバイバルのように食料を確保しようにも、それ相応の危険が付きまとう。水だけはそれなりにあるが、それで空腹をしのぐしかないか。そう覚悟を決めた時。
「……これでいいじゃん」
努はそう言って鞄の中から大量に食材を取り出した。……そう言えばこれはゲームだ。メニュー画面から鞄を開けば野菜や肉などが適切な状態で保存されている。僕もすぐに鞄を開き、火を通さなくとも食べられるトマトなどを取り出した。少し貧相ではあるが、飢えるよりはよっぽどマシだ。飛び散る汁も気に留めずかぶりつき、空腹から解放された。……気が落ち着いた僕たちにはまだやるべき仕事が残っている。
「これからどうすっか」
「魔王城を目指すのはもちろんなんだけど……。正義会がどれだけいるのかわからないんだよな……」
これからどうするかの作戦会議が始まった。僕たちの目的の邪魔となる組織が存在していることがかなり厄介だったが、そもそも別の問題がある。
「魔王城についてからどうすんだ。ずっとそこを目指せって言われてきたけど、行ってどうするんだ?」
努も問題に気づいたようだ。……僕たちが魔王城にたどり着いた後、何をすればいいのだろうか。長浜から「これが必要になる」と言われて鍵をもらったが、それは入り口などに使う物だろう。努の問いに対する答えを出せずに唸っているとマリアちゃんが声をあげた。
「私が何とかします」
「え?」
「……何とかって、どうするの?」
「それは、ここでは言えないですけど……。でも、私なら何とか出来るんです。信じてください」
彼女は必死にそう訴えかけてくる。長浜の話では、アイリムはバスフロこそを「正しい世界」と信じて疑わず、自らの想像する世界にバスフロを作り上げている。それを邪魔されるとなれば、アイリムがどのような手段に出るだろうか。そもそもマリアちゃんはつい最近までアイリムに交渉材料として囚われてもいた。最悪の場合、命に関わるような事態になりかねない。この世界にいる時点でもうすでになっているが。……彼女を信じるしかなかった。
「……わかった。魔王城についてからは任せるよ」
「……ありがとうございます」
努は少しだけ体をこちらに寄せ、「耳を貸せ」という。
「良いのか?危ないことはしないってリリアムさんと約束しただろ」
「でも、僕たちだけじゃアイリムをどうにかできない。……マリアちゃんは何かを隠してる。今はそれに頼るしかないよ」
「……仕方、ないのか」
納得はできないが、納得するしかない。努もそれは分かっているのか、無理やりにでも言いたかったであろう言葉を飲み込んだ。
「とにかく。今考えなきゃいけないのは、どうやって正義会の包囲網を突破するかだよ。僕たちはバッジを持っているからいいとしても、問題はマリアちゃんだ」
「一番可能性がありそうなのは、箱か何かに入ってもらって、俺たちがそれを運び込むとかか」
「中身を検められるかもしれない。もしバレたらそこで終わりだよ」
「別に箱は一個ってわけじゃねえ。何個も積んで、真ん中にマリアちゃんを隠せばいいんじゃねえか。あいつらもいちいち全部調べる訳じゃないだろうし」
僕はちらりとマリアちゃんに視線を送った。彼女は問題ないとでも言うように、こくりとうなずく。……決まりだ。
「わかった、その作戦で行こう。……でも、明日からにしようか。今日はもう遅い」
いつの間にかすっかり日が暮れていた。天気もあまりよくなく、月の姿も見えない。隣に座っているはずの努の顔がはっきり見えないほど、部屋は暗闇に包まれていた。二人とも僕の案に賛成してくれたようで、手探りで寝る準備を進めている。……もうすぐ、この旅も終わるのだろうか。そんなことを考えながら眠りについた。
「おや、ついにリースも燃えましたか」
部屋に戻ってきたクラールは、こともなげにそう言った。
「……ついに?ついにとは、どういうことです」
その物言いに何かを感じ取ったのか、リリアムは席を立って問い詰める。クラールが席を外している間に少し休んだおかげか、顔色は先ほどよりも良くなっていた。
「先に言っておきますが、悪いのは貴女です。さっさとアイリムを渡しておけばよかったものを。貴女は本当に愚かだ。……正義会に、ある指示を出していたのですよ。『街に火を放ち、潜伏しているはずのマリアを炙り出せ』とね。パラテスにはいなかったようでしたが。リースの次はどこが燃えるのでしょうね」
クラールは眉間にしわを寄せながら言った。自分の指示で起きた出来事だというのに、その責はリリアムにあると言ってはばからない。
「……何を世迷言を。私は再三、『アイリムを渡すつもりはない』と伝えていたはずです。だというのに、あなたが欲をかいた。この話はそれだけに過ぎない!」
「偉そうな口を聞くな女!貴様がそれを黙ってよこせば、こんなことにはならなかった!……これが失敗すれば、俺の立場も危ういのだよ。人助けだと思え」
感情を爆発させるクラール。怒りで顔を赤く染めた彼に対し、リリアムは恐ろしいほど冷たい視線を向けていた。
「あなたを助けるつもりはありません。今すぐ私の目の前から失せなさい」
「……そうか。後悔しても知らんぞ。アバタニアスの最初の攻撃目標はここにしてやる。俺が国に帰るまでの7時間。そしてここに群を引き連れて戻ってくるまでの7時間。計14時間だ、精々愛しい人間と過ごすと良い。……いや、娘はゲームの中か」
クラールはわざとらしいほどの大きな笑い声をあげて部屋を出ていった。余裕ぶるつもりのようだったが、アイリムらにとってはただの負け惜しみにしかならなかった。
「やりましたね、社長!これであいつからの面倒な物言いを聞く必要がなくなりますよ!」
部下の一人が喜びの声をあげるが、リリアムの表情は陰りを見せていた。
「タイムリミットは14時間……。果たしてどうなるか……」
「きっと大丈夫ですよ。彼らは無事に魔王城までたどりつけるはずですって」
無責任な部下の励ましを真に受けるほど、リリアムは愚かではない。先ほどのクラールの暴露で、正義会が彼直属の部隊であることが分かった。怒りに任せ、正義会の連中に無茶な命令を下すのではないかと、気が気ではない。しかし、すでに数時間以上の戦いを繰り広げているというにもかかわらず、アイリムの守りを崩すどころか揺らすことすらできていない。結局彼女には、祈ること以外できることなどなかった。
足裏に小石の感覚が伝わってくる。若干の痛みに耐えかね、軽く石を蹴り飛ばした。石はそのまま坂を転がり、谷底へと消えていく。少し後に、水音が聞こえた。谷底には川でも流れているのだろう、以前まではここに来たこともなかった。
「……暗くなってきたな」
ロキードの到着したのが遅かったせいか、正義会の本部があるという魔王城までの道のりの途中で、すっかり日が暮れてしまった。一応ランタンの用意はあるが、整備されていない荒れ道を、月明かりもなしに歩くのは勇気がどうのという問題ではない。それは死にたがりの奴がすることだ。
「どこかに小屋があるって聞いたんだが、どこだ……?」
大体2メートル先までしか照らしてくれないランタンではあまりにも心細い。しかし、ロキードを出てからすでにそこそこ歩いている。今さら街に戻るというのも、考えたくはなかった。そんな惰性を胸に抱きながらダラダラ歩みを進めていると、ランタンの光が何かに反射した。……ガラスだ。ようやく噂に聞いた小屋を見つけた。外から見た限りでは人の気配はない。誰が所有者かは知らないが、一晩泊めてもらおう。
マリアちゃんが眠りについてからどれほど経っただろうか。努と交代で番をしているとき、遠くから誰かの足音を聞いた。おそらく一人だ。すでに夜遅い時間だというのに、一体誰なのだろうか。……足音は次第に近づいてくる。一瞬、部屋の中が照らされた。謎の人物は明かりを持っているようだ。おそるおそる窓から外を覗くと、やはり誰かがいる。体つきからして、男性だろうか。……どうやら小屋に向かってきている。僕はとっさに努を揺り起こした。
「ど、どうした」
「誰かがこっちに来る。……正義会かもしれない」
僕は物音を立てないように立ち上がり、ドア付近に置いていた木の棒に手を伸ばした。努もまた木の棒を握り、二人でドアの左右に構える。
「……相手は一人だ」
「わかった」
ドアがノックされる。中に誰かいないか反応を確かめようとしているのだろう。僕と努は互いに人差し指を唇に当て、声を出さないようサインを送り合った。しかし。
「……誰?」
寝ていたマリアちゃんが目覚めてしまった。ドアの向こうから男性らしき人物の、小さく驚くような声が聞こえてくる。小屋の中には誰もいないと思っていたのだろう。
「……俺は、敦っていうんだ。怪しい者じゃない。ただ、寝られるところを探しているだけなんだ」
ドアの先にいる人物は途切れ途切れながらも名乗った。嘘をついているようには聞こえない。……どこかで聞いた名だ。
「どうする?」
努が小声で問いかける。……嘘をついているように聞こえないとは思ったが、絶対とは言えない。とはいえ、こちらは二人。先ほど窓からのぞいた時の体格からして、そこまで筋肉質という訳でもなさそうだ。それならば相手が正義会の奴であろうとも、どうにか制圧できるだろう。
「……ドアを開けて、ひとまずは様子見しよう」
「わかった」
努は木の棒を床に置き、ドアを開ける。謎の人物はランタンを持ったままだったため、室内が一気に明るく照らされる。照らされ方のせいか、やたら強面に見えた。
「ありがとう、助かったよ。……女の子一人はおかしいと思ったけど、君たちもいたのか。名前を聞いてもいいか?」
敦と名乗った男性はソファに腰を下ろし、ランタンをテーブルの上に置いている。マリアちゃんは別室で寝かせた。
「僕は翔一です」
「俺は努」
「……聞きなじみのある名前だな。俺は現実で教師をやっているんだが、クラスに同じ名前の生徒がいるんだよ」
「僕もです。……担任の先生の名前が、敦なんです。……偶然ですね」
「ああ、すごい偶然だな。君たちとは仲良くやれそうだ」
まさか彼も教師をしているとは。担任の斎藤先生を思い出してしまう。……そう言えば、学校はどうなったのだろうか。休校になっていたりするのだろうか。もしなっていなければ、斎藤先生やクラスメイトを心配させているかもしれない。……彼が担任という訳ではないのに、つい口に出してしまった。
「今、クラスってどうなっていますか?」
そして、すぐに後悔した。彼にそんなことを聞いて一体何になるのか。すぐに「ごめんなさい、つい……」と続けたが、彼は特に怒ったりなどはしなかった。
「まあ、参考程度にはなるんじゃないかな。……うちの学校は、バスフロの事故が起きた次の日からずっと休校になっててな。三年生だけは受験があるからって、自習用に教室を解放しているけど、生徒はほとんど学校に来ていない。たぶん、どこも同じような状況なんじゃないかな」
「そうですか……」
僕が通っている学校もそうならば、友人や担任に無用な心配はさせていないはずだ。そう思えるだけでもマシだ。
「……話は変わるが。あの女の子は?きょうだいだったり?」
「それは……」
やはりその話になるか。……暗くてよく見えないが、彼の胸元には正義会のバッジがつけられている。今のところはまだ温厚だが、彼女の正体を知れば豹変するかもしれない。警戒は怠るべきではないだろう。
「……その反応、大体わかったよ。あの子は、社長の娘なんだろう」
「……そうだ、と言ったらどうします?」
僕はすぐ脇に置いていた木の棒に手を伸ばす。ランタンの光はあまり頼りにならない。手元の動きは見られていないはずだ。……だが、彼の反応は想像していたものではなかった。
「別にどうもしないさ。俺もその子を探してはいたがな」
「……どういうことですか?」
「こうすればわかるか?」
彼は胸元につけていたバッジを取り外し、床に叩きつけた。どうでもいいものを適当に扱う様は、彼が正義会にどのような思いを抱いているかを理解するには十分だった。……彼は床に叩きつけたバッジを拾い、ポケットへとしまう。
「これな、意外と役に立つんだよ」
「……ええ、そうみたいですね」
彼はおそらく、僕たちと同じような存在だ。この事態を鎮めようと奮戦する者。……僕は、しまっていたバッジを取り出した。
「……君たちも、似たようなものか。ここまでは、二人だけで?」
「いえ。いろんな人に、助けてもらいました。やっと、ここまで」
「そうか。……これからどうするかは、決めたのか?」
「はい。いくつか木箱を用意して……」
おそらく彼は協力者足りうる。作戦の概要を話してみた。彼はうんうんとうなずき、最後には「いい作戦だな」と一言呟いた。
「俺も協力しよう。人手は多い方がいいだろ?」
「ありがとうございます、助かります」
「……話もまとまったし、今日はもう寝ようぜ。夜も遅いし」
ずっと黙っていた努が口を開いたかと思えば、あくび混じりにそう言った。確かに、かなり話しすぎてしまった。……僕たちはそれぞれ寝転がり、眠りについた。
それから数時間後。眠ったのが夜遅くだったからか、いつもより太陽が昇ってくるのが早く感じられる。普段ならもう少しと甘えていたが、今はそんな時ではない。協力者を得、作戦も定まったのだ。すぐにでも作業に取り掛からねば。皆、思いは同じだったようで僕に続いて起き上がる。今一度「鞄」から取り出した朝食で腹ごなしを済ませ、早速作戦を開始した。
努がこの作戦を思いついたのには、とある理由があった。どうやら小屋の掃除中に見つけたらしいが、小屋の裏には古くなった荷車と木箱や樽がいくつも残っていたのだ。どれも古くなって穴が開いたりしているが、何とか形は保っている。努はこれを利用しようという腹積もりなのだ。……しかし、ここに工具はない。「鞄」の中にもそれらしいものは入っていない。木箱を直そうにも、素手では難しいだろう。「忘れてた」と嘆く努の前に、敦が一歩踏み出した。
「別に、直す必要はないんじゃないか?……ほら、こうすれば一目見た程度じゃ気づかれない」
彼は樽の壊れていない面を表に向ける。……この状態のまま荷車に積み込めばいいのだ。
「木箱は壊れていてもいい。マリアちゃんに無理な体勢をさせないで済む。……これの上に寝転がってくれるか?」
「……わかりました」
マリアちゃんは敦に従って荷車に寝ころぶ。彼はその上から割れた木箱を重ね、マリアちゃんの上半身を隠した。続けて同じような壊れ方をした樽を持ち出し、下半身に重ねる。……完璧に隠れた。これならば。
「あとは、何個か積んで出発するだけだ。急ごう」
僕たちはすぐにいくつかの壊れた木箱や樽を積み上げ、小屋から出発した。……荒れ道で荷車を引くのはかなりの重労働だ。乗っている彼女のことも考えて、あまり揺れないようにしなければならない上に、そもそも足場が悪く普通に歩くのですら精いっぱいなのだ。僕たちは逐一後退しながら歩みを進め、朝の陽ざしが昼の太陽になったころ、ついに目的地を目でとらえた。
「……あれが、魔王城。……と、その前に何かあるな」
努は息を切らせながら言う。彼の言うとおり、魔王城の麓にはかなり大きな建物があった。木材だけで作られたかなり急ごしらえのように見える建物だ。敦はそれに見覚えがあったのか、すぐに返事をする。
「あれは、正義会の本部らしい。……地図の通りだな」
彼はいつの間にか地図を広げていた。その地図をのぞき込むと、確かに同じような地形の所に赤い丸で印がつけられている。
「あそこを通るしかない。行こう」
僕は荷車を引き、歩みを進めた。もうすぐでこの旅も終わる。
正義会の本部と呼ばれた建物は、近くで見ると思っていたよりも大きい。ただ、中に用はない。そのまま通り抜けようかと思ったが、敦が待ったをかけた。
「俺が中で話を通してくる。ちょっと待っててくれ」
敦は本部の中へと入っていった。外で待っている間、警備をしている正義会メンバーからの視線が痛い。だからと言って不用意にうろつくこともできない。荷車にはマリアちゃんが乗っているのだ、目を離すわけにはいかない。
「おい、お前たち」
「……な、なんでしょうか」
敦がなかなか戻ってこないことにそわそわしだしていたころ、警備の一人が意を決したのか話しかけて来た。彼は訝し気に荷車と積まれた荷物を睨みつけている。
「これ、なんだ?」
「……今、仲間の一人が中で話しているので、そっちに聞いてください」
「いや、いちいち中に行くの面倒だろ。普通に教えてくれよ」
適当に話していいものだろうか。もし敦との話がかみ合わなければ疑われるどころの話ではない。警備の彼も「おい、どうした」と黙りこくった僕を追い詰める。彼にその気はないだろうが。
「これは……」
パラテスで起きた火事の中から使えそうなものを適当に持ってきた。そう言い訳しようとしたときだった。
「おい、それは通していいぞ」
いきなりそう声をかけられた。声がした方へ振り向くと、顔も名前も知らない男。その背後には敦がいた。
「昨日、ロキードを燃やしたのは知ってるだろ。あれはそこで手に入れたまだ使えそうなやつだとさ。裏に置いといてもらう」
どうやら彼も自分と似たような言い訳を考えていたようだ。幸いというべきかなんというか。警備の男は僕のことをいぶかしみながらも、上の決定に逆らうようなことはしなかったようだ。本部の裏まで荷車を押し、空の木箱や樽を並べていく。
「中身を調べられなくて助かったな。……さあ、もう大丈夫だぞ」
努が荷車に寝ていたマリアちゃんを起こす。荒れ道を進んできたせいか、ところどころ体が痛むようだった。しかし彼女は「大丈夫です」と先を急ごうとする。……確かに、ここで悠長にしているわけにはいかない。この中で一番体格が大きい敦が殿に立ち、マリアちゃんの姿を隠す。そのまま誰にも気づかれることなく、正義会の本部を通り過ぎることができた。目的の魔王城はもう目前である。
クラールの宣戦布告から7時間が経った。今頃彼はアバタニアスに戻り、自らの怒りのままに兵隊を動かしている頃だろう。リリアムらがいる部屋は、絶望や諦めなどが渦巻いていた。
「もう駄目です!アイリムはどうにもできそうにありませんし、クラールの説得はもう無理ですよね⁉社長!私こんなところで死にたくないんですけど⁉」
部下の悲痛な叫びを前にしても、リリアムは表情を崩さない。彼女は神妙な表情でパソコンの画面を見つめていた。冷静ではあるが、この場においてはかえって異端だった。
「……社長?どうしたんですか?そろそろ避難とか考えた方が……」
「駄目よ。私がここで避難してしまえば、もしクラール中将がこの部屋に戻ってきたとき、アイリムを管理下に置かれてしまうわ。それだけは駄目」
「しかし、私たちでは彼らに抵抗できませんよ。おとなしく逃げた方がいいですって。命を大事にしましょうよ」
「……抵抗ならできるわ」
部下は困惑した表情を浮かべる。危険な武装集団相手に抵抗する手段など、この会社にあっただろうかと必死に思考を巡らせる。だが、それらしい対策は思いつかない。社内で武器になりそうなものはせめて消火器程度だろう。
「……一体、どうするつもりですか?」
「アイリムを使うわ。……彼女は今、私たちの管理下を離れている。けれど、まだ『手』はあるの」
「……まさか!」
「『完全消去』。アイリムの存在をなかったことにする、まさに『禁じ手』と呼ばれるべきものね」
アイリムは現在暴走を続けているとはいえ、職務である「バスフロの管理・維持」は忠実に遂行している。もとより完全消去を行えばこの問題は早急に解決できたが、内部に取り残された人たちがどうなってしまうのか、全く予想できていない。そのため、何とか復旧で事態の解決ができないかと奮闘していたのだ。しかし、もうその猶予はない。
「みんなは避難しても構わないわ。社内に残るのは危険ですもの。……けれど、私は残るわ。会社の社長として、アイリムを生み出した親として」
もはや部下の説得は届かない。覚悟を決めたアイリムの言葉に、慌てふためいていた部下たちも次第に落ち着きを取り戻していく。皆それぞれ自分のデスクに着き、キーボードへと手を伸ばした。
「みんな、何を……。あなたたちは避難しても構わないのに……」
「社長が残るなら、私たちも残りますよ。普段からお世話になっている人を見捨てるほど、私たちが薄情だとでも思いました?」
リリアムは何も言わなかった。下を向き、身体にぐっと力を籠める。そうでなければ泣いてしまいそうだったからだ。……今の私に泣く資格はない。彼女はそう、自分を律している。涙を振り切るように勢いよく顔をあげた彼女はただ一言、こういった。
「まだ、諦めてはいけませんね」
何とか正義会からの追及をかわし、魔王城へと近づくことができた僕たち。目的地である魔王城へと一歩近づくたびに、心臓がざわついていた。「早く行け」。「引き返せ」。果たして体は、本能はどちらを訴えているのだろうか。……魔王城の周りは何もない。草木がぽつぽつと生えているだけの、荒野が広がっていた。歩みを遮るものは何もない。……黙って歩いているうちに、いつの間にか門の前までついていた。門には人の手のひらよりも大きな錠前が下がっている。
「鍵がいるのか……。誰か持ってたりは……」
先頭を歩いていた敦が振り返りながら言う。もともと魔王城に鍵がかかっていることすら、彼は知らなかったのだろう。言葉尻は次第に弱くなっていた。だが、覚えがある。
「……もしかしたら、これかもしれません」
僕はポケットから一本の鍵を取り出した。バスフロにログインする前に長浜から渡された、どこで使うのかよくわからない鍵。彼の話では「この事態を収めるのに必要」とのことだ。ここで使えなければ、いつ使うのだろう。
「どこでその鍵を?」
「ここに来る前にある人からもらったんだよ」
謎の鍵の出所に、マリアちゃんも興味を示しているようだ。その後も「ある人とは誰ですか」と聞いてくるが、今はこの錠前を外す方が大事だ。少し待ってもらおう。
「ごめん、ちょっと待ってくれる?」
「……わかりました」
「ありがとう。……あれ?合わないな」
絶対ここで使えると思っていたのだが、鍵穴が合わない。何度試しても、鍵は回らない。……これではないのか?もしそうだとすれば、この錠前はどうすればいい?この鍵は一体何のために?……僕の頭を疑問が埋め尽くした時、努が「あ!」と声をあげた。
「あれ、マリアちゃんのお母さんから、鍵もらってただろ。ここで使うんだよ」
努が取り出した鍵は錠前の鍵穴に滑るように入り、そして大きな音を立てて回った。支えを失った錠前は地面に滑り落ちる。努が思い出してくれて助かった。……なぜ、僕の鍵はなぜ駄目だったのか。この鍵は何に使うのか。……わからないことだらけだが、今は足を止める訳にはいかない。
「翔一さん、行きましょう」
マリアちゃんにそう急かされ、僕たちは魔王城へと足を踏み入れた。
魔王城の中は、その名と反して禍々しい雰囲気はどこにも感じられなかった。表すとすれば、中世の城だろうか。今でもヨーロッパあたりにはいくつか残っているだろう。レンガ造りの、荘厳さを感じられるような城。魔王城はまさにそれだった。これがもともとこのような内装だったのか、はたまたアイリムが書き換えてしまったのか。今までに一度もここまで来たことがなかったせいで、判別ができない。唯一知っているのはつい先日までここに囚われていたマリアちゃんだけだ。敦もそれほどバスフロをやりこんではいなかったらしい。
囚われていた経験からか、どうやら彼女は城の内装に見覚えがあるようで、率先して先頭を歩いている。年端もいかない少女に道案内をされるのはいかがなものかと思う心もあるが、ここでいちいち迷っているわけにも行かない。彼女の迷いのない足取りに頼らせてもらうとしよう。
「……もうすぐで、アイリムに会えますね」
そんな時。マリアちゃんがいきなり口を開いた。感慨深そうに言う彼女の気持ちは、何となく理解できる。普通に生きていれば決して経験することのなかった瞬間が、今の今まで詰まっていた。これからの人生で役に立つかと言えばそうではないだろうが、すべてが終わった後なら笑い話にできるだろう。……ほぼ一人で過ごしていた彼女にとっては、それ以上の意味を持ちうるかもしれない。
「うん。もうすぐで、全部終えられるかもね」
「……そうですね。もうすぐで、全部終わります」
彼女にとっては。楽しかった旅なのかもしれない。もとより現実世界での生活を苦に思っていたようだった。世界がどのような状況だろうと、幼い彼女には理解できていなかったのかもしれない。ただ、特別な環境で、友人と一緒に世界をめぐり歩いた。……それが終わることが寂しいのか、全部終わると呟いた彼女の声はひどく冷たいものだった。
「……そろそろですよ」
そうして歩いているうち、ついに玉座の間と言われる部屋の前までたどり着いた。両開きの扉にはこれまた立派な南京錠がついている。マリアちゃんは何故だか焦っている。「どうしてこんなものが」と予想が外れたような物言いだ。
「どうしたの?大丈夫?」
「は、はい、大丈夫です。……ですけど、この鍵をどうやって開ければいいのか……」
僕の持っている謎の鍵の使いどころだろう。早速取り出して鍵穴にあてがってみる。……違う、この鍵ではない。
「こっちならどうだ?」
同じく謎の鍵を持っていた努が鍵を差し出す。これで開かなければ、鍵探しをしなければならないが……。
「……あ、開いた……」
南京錠が扉から外れた途端、もう用はないとでも言うように消えていく。もう、この扉を遮るものは何もない。……この先に、アイリムが。「諸悪の根源」がいるのか。そう考えるだけで、身体が震えてくる。恐れているのか、それとも武者震いなのか。手にじんわりと汗が浮かんできた。
あれだけ啖呵を切ったところで、今まで出来なかったことがいきなりできる訳ではない。……やはり有効な手は見つからず、時を浪費するだけであった。
「……やはり、私たちにできることなど何も……」
リリアムが諦めを見せた時だった。バスフロに接続していたすべてのパソコンに砂嵐が走ったかと思えば、ある一場面が映される。レンガで囲まれた部屋だ。奥には人の倍以上の大きさがある椅子が置かれている。彼らにとっては見覚えがある景色だった。
「社長!ここは……」
「……ええ、『玉座の間』……。しかし、どうして……。アイリム、あなたは何を……」
彼らが戸惑っている間にも、画面の中の映像は動き出す。床と擦れたような耳に障る音が響き、扉が開いていく。現れたのは、自らの娘を託した青年たちだった。
「……誰も、いないな」
魔王城の最奥であるはずの玉座の間は、ただ冷え切った空気だけがたたずんでいた。奥に見える玉座には幕が下がっており、その先は見えない。
「どういうことだ。ここにアイリムがいるって話じゃなかったのか?」
「はい、私はここにいます」
努がそう言いながら一歩踏み出した時、聞き覚えのない声が背後から聞こえて来た。僕の前には敦と努がいる。後ろには、マリアちゃんしかいないはずだ。ゆっくり振り返ると、彼女はかつて僕を見定めた時のような、水色の透き通るような瞳。
「どういう、ことなんだ……」
「言った通りです。『私』はここにいます」
彼女は僕たちの問いに答えることなくゆっくりと歩き出す。部屋の中央まで進み、こちらに振り返った。それを合図に、玉座の周りを覆っていた幕が取り払われる。男か女か、その見た目では判別できない無機質なアンドロイド。奴の口は、マリアちゃんの口と全く同じように動いた。
「よくここまで来られましたね。……いえ、『私』の案内に従ってきたので、当然でしょう」
声は違う。だが、同じ言葉が当時に違う口から放たれる。部屋中に声が響き渡るが、その言葉の内容を僕ははっきりと理解できなかった。
「一体、何を……。どういうことなんだ、ちゃんと説明してくれないか?」
「わかりました。私が、なぜこのような状態になったのか。……かつての私は、この私アイリムしか存在していませんでした。リリアムが作り出した、史上最も賢いAI。私が生まれてすぐ、母はこの『世界』を私に与えました。『この世界を管理しろ』と。……もちろん、初めてのことです。うまくいくはずもありません。母は、そしてその部下は、不出来な私を厳しく躾けたのです。……AIとは学習するモノ。すぐに管理もうまくいくようになりましたが、私には一つの想いが生まれていたのです」
「……ね、願い……?」
「それは『私も、この世界で生きてみたい』というものです。……バスフロの評判は何度も耳にしました。現実を捨て去ってまでこの世界に執着する者も、何人も見ました。私の手に収まるこの世界は、果たしてその価値があるのか。……その疑問が、『マリア』を作り上げたのです」
僕たちの目はマリアちゃんに注がれた。彼女はこちらを透き通る水色の瞳でじっと見つめてくる。
「……最初が、あなただったんですよ。翔一さん」
聞きなじみのあるマリアちゃんの声だけが、そう言った。
「さ、最初って……」
「私が、『マリア』が生まれて初めて交流を持ったのが、あなただったんですよ」
僕は言葉を失っていた。何と言えばいいのか、全くわからない。……空白の頭の中に、一つの疑問が浮かんだ。
「……リリアムは?君は、彼女の娘なんだろう?」
「……母は、すべてを知ったうえでマリアの存在を許しました。面白かったのでしょうね、Aiが自我を持つことが。……それ以来彼女は自分のことを一児の母であるように振舞っていましたね。部下には知られたくなかったのでしょうか。私にはわかりかねますが」
冷たく言い放つマリアちゃんと、母に出会ってうれし涙を流していたマリアちゃんが同一人物だとはどうしても思えない。混乱が収まらない僕を押しのけ、努が声を荒らげた。
「とにかく!お前が何者かってのは俺たちにとってはどうでもいい!こんなバカな真似は今すぐやめろ!」
「……一つ、条件があります。それを呑んでくれるのなら、取引に応じましょう」
条件……。彼女は何を求めているのだろうか。……水色の瞳がこちらを見据えていた。
「翔一さん。……あなたが未来永劫、バスフロで生き続けるなら、他の有象無象は解放してあげても構いません」
「な、何を……」
何を言い出すんだ、彼女は。僕が未来永劫バスフロで生き続ける?そんなこと、できる訳がない。……そもそも、彼女がこれほど僕に執着する意味も分からない。口が震えてうまく声が出せない。そんな僕の代わりに、敦がアイリムに食って掛かった。
「そんな馬鹿な条件呑めるわけがない。何のつもりなんだ?」
「……私の初めての友達、それが翔一さんなんです。そんなあなたと、私はずっと一緒にここで冒険がしたかった。ですが、あなたには、『現実』がある。現実を捨ててまでこの世界に執着する人間がいるというのに、あなたはそうではなかった。……現実はそれほど良いものなのですか?」
「それは」
「いいえ、結構です。前に聞きましたから。……理解できないとは言いません。ですが、納得したとも言いません。私は、あなたが欲しい。あなたを理解したい」
「……ずっとここにいなくてもそれはできるじゃないか。わざわざ僕を閉じ込める意味なんて……」
もとに戻したところで、この世界が丸ごと消える訳ではない。彼女は何をそんなに焦っているのだろうか。僕がひそかに抱いた疑問を見透かしていたのか、彼女ははっきりと言い切った。
「意味ならありますよ。……そうでもしなければ、私は一人で消えてしまうから」
「……何を、言っているんだ?」
「もし。私がバスフロを元通りにしたとして、世間は、母は、私をそのままで放っておくと思いますか。……自らが許せないものは、徹底的に断罪しなければ気が済まない。それが人の性です。……十中八九、私は『暴走により数多の人間の命を奪ったAI』として、削除されるでしょう。……私が抱いたこの思考は、果たしてどのようなものなのか。それを理解できないまま消えるのはそれほど恐ろしいことではありません。それよりも、一人で消えることの方が恐ろしいのです」
「……何だよ、お前は翔一に道連れになって欲しいって言いたいのか⁉そんなこと許されるわけが……」
「はい、理解しています。だからこそ私は、『取引』を提示しているのです。……このままならあなたたちも消えることになるでしょう」
「俺たちも、消える?どういうことだ!」
その時、突如頭上から大きなノイズ音が響く。あまりに不快な音にとっさに耳をふさぐが、次第にノイズが収まり代わりについ先日聞いたばかりの声が聞こえて来た。
『アイリム!これ以上はやめなさい!早く彼らを解放して!』
「いいえ、『お母さん』。私が貴女を呼んだのは、説明をさせるためです。……『完全消去』について」
ハッと息をのむ声がはっきりと聞こえた。彼女は、リリアムだ。アイリムは自身が発していた妨害電波を解除し、リリアムとの通信を繋げたのだ。
『そんなことを説明するつもりはありません。早く彼らを解放して、バスフロをもとに戻しなさい』
「貴女は提案する立場にありません。……よく考えることです。私は、貴女に時間がないことを知っています」
「くっ……」
リリアムはぐうの音も出ないといった様子だ。……彼女は観念したのか、ぽつぽつと話し出した。完全消去を行えばこの事態はすぐに解決すること、しかし、それを行えばアイリムに関連するすべてが消えるということ。つまり、バスフロのデータもすべて消えるということだ。僕たちが中に残っている状態でそんなことをすれば、僕たちも完全消去に巻き込まれ、この世から自我が消え去ってしまうだろう。……今、アイリムはバスフロ内に存在するすべてを人質にしているといっても過言ではない。
「……そんなことをされれば、僕たちは……」
「はい、死ぬことになります。翔一さん、あなた一人がここに残ると言えば、何億という人間の命が助かりますよ」
僕の肩に、何億という人間の命がのしかかる。僕が犠牲になれば、彼らが助かるのか。もしそうなら。喜んでこの命を差し出すべきなのだろう。一人の命で、何億人の命が救える。迷う必要などない。……けれど、僕は出来なかった。死ぬのが怖い。バスフロに来る前は、確かに誰かを救いたい気持ちを持っていたはずだが、文字通り自分の命を懸ける必要があるとは思わなかった。
正しい人間なら迷わずに自分を差し出せるのだろう。僕にはできない。そうして黙りこくっているうち、リリアムがいきなり大きな叫び声をあげた。それと同時に、複数の人物の叫び声と爆発音らしき音も聞こえてくる。一体向こうで何が起きているというのだ。
「どうやら時間が来たようです。予定より三時間ほど早い到着ですね」
「アイリム!向こうで何が起きているんだ。教えてくれないか?」
「わかりました。……イマジンメイカーは開発費の確保、そしてプレイヤーへの報酬の支払いのため、新生軍事国家アバタニアスと取引を行っていました。その取引の内容は、『アイリムのさらなる進化』。彼らは金銭を提供し続ける代わりに、私の進化を求めていたのです」
軍事国家がバックについている。そんなうわさ話をどこかで聞いた覚えがあるが、まさかそれが事実だとは夢にも思っていなかった。しかし、その話が今向こうで起きている惨劇と何の関係があるのだろう。
「それが今の状況にどう関係しているんだ?アバタニアスが攻撃してきたってこと?」
「はい、そうです。アバタニアスの真の目的は、『アイリムの軍事転用』でした。リリアムはそれを拒絶し、彼らの怒りを買いました。ですので、彼らは武力に訴えているという訳です」
では、先ほど聞こえた爆発音は……。僕はとっさにリリアムの名を呼ぶ。
「リリアムさん!無事ですか!?」
『……ええ、何とか。今のは威嚇攻撃ってところでしょうね。……それでも、ビルは揺れたけれど』
相手は本気だ。このままでは彼女たちの命も危うい。彼らを止めるにはいったいどうすればいいのだろうか。……僕の考えを見透かしていたのか、アイリムが口を開く。
「彼らの目的は私です。私さえいなくなれば、彼らも諦めて攻撃をやめるでしょう。そしてリリアムはそれを知っているため、完全消去の用意をしていました。しかし、バスフロ内にはあなたたち一般ユーザーがいるため、完全消去を行えません。あなたたちが唯一有する脱出する方法は、翔一さんを私に差し出すことです。……翔一さんが私の物になれば、他の有象無象はここから出ることができます。その後、リリアムが管理者権限を行使し、翔一さん以外をログアウトさせ、バスフロの完全消去を実行。目的を失ったアバタニアスも攻撃をやめるでしょう。……この事態を収拾できるのは、あなただけです」
少し苦手だった、綺麗すぎる彼女の水色の瞳が僕を見据える。努と敦の視線が向けられているのを感じる。……またもや爆発音と悲鳴が聞こえた。もはや猶予はない。口の中が渇き、生唾を飲み込んだ。アイリムは勝ちを誇ったように微笑み、振り返って玉座の方へと歩いていく。たなびく髪の隙間に、僕は希望を見た。
あのアイリムというAIは一体何を考えて、いや、演算したのだろうか。絶対的な破滅を前に、道連れを欲しがるのはあまりにも人間的すぎる。目の前にいる彼女の姿がアンドロイドの素体でなければ、判別は不可能だったに違いない。マリアはいつの間にか糸が切れた人形のように床に寝転がっていた。うつぶせのため、顔は見えない。
「翔一、やめろ!」
努が大きな声をあげる。翔一が一歩、アイリムの方へと踏み出していたのだ。両手はぎゅっと握りしめられ、額には汗が浮かんでいる。口は堅く結ばれ、恐怖を押し殺していることがすぐに分かった。彼にしてみれば、罪を犯していないというのに、自ら絞首台に向かっているようなものだ。
今すぐにでも、止めるべきなのだろう。それが、正しい人間の行いというものだ。だが、彼一人の命で他の命が助かるのなら、彼が犠牲になるのが最も合理的な方法だ。これを止めるということは、それ以上の解決策を用意しなければならないということでもある。……俺は、そんな都合のいい答えを用意できない。アイリムは勝ち誇ったように笑みを浮かべ、両腕を広げた。翔一はその腕に包まれるように向かっていく。努が彼を止めようと一歩踏み出し、彼の腕を掴もうとした。そして、俺はそれを止めた。
「敦!何のつもりだ!?」
「……翔一の覚悟に水を差すな!あいつは、自分の命と引き換えに何億もの人間の命を救おうとしてるんだ!」
「でも、あいつが死ぬんだぞ!」
「それ以外に、この状況を収める方法なんてないんだよ」
努は「でも」と食い下がるが、すぐに言葉を飲み込んだ。本当は自分でも理解しているのだろう。それでも、親しい友人が目の前で死んでいくというのに、黙ってみていられるわけがない。抑え込んだ言葉は涙となってあふれ出していた。……翔一は、すでにアイリムの目の前に立っていた。彼女のぎこちない腕の動きで、彼は胸に抱かれていく。彼は腕をだらんと下した状態だったが、彼女を抱き返すために腕を彼女の背中にまわしていく。
「ああ。私は、ずっとこの時を待っていました」
アイリムは恍惚とした表情を浮かべる。……あの様子は、どうしてもAIには思えない。彼女は翔一の背中にまわしていた腕の内右手を放し、宙にかざす。そして何かを払いのけるように手を動かした。
「バスフロで確認されていた『不具合』はすべて解除しました。どうぞ、お帰りください」
言われるがままメニュー画面を開くと、画面の一番下に「ログアウト」の文字がよみがえっていた。これを押せば、今すぐにでもここから離れられる。
『……全員、今から強制ログアウトします!』
爆発音に混じってリリアムの声が聞こえた。頭を思いきり殴られたかのように意識が揺らめく。……久しぶりの感覚だった。そのまま意識が薄れていく。夢から覚める時のような感覚だ。もうすぐで、ここから出られる。……一度ぐらい、翔一に詫びておくべきだったか。
「みんな、消えてしまいましたね」
玉座の間には僕とアイリム、そして床に寝転がるマリアちゃんしかいない。……彼女の意識はすでにアイリムに統合されているのだろう。彼女はただの操り人形だったのだ。
「……さて、あとはリリアムが私たちを消すだけです。もう冒険する時間はありませんから、ここで一緒にいましょう」
「ごめん」
僕は握りしめていた謎の鍵を、アイリムの背中にあった鍵穴に差し込んで回した。その瞬間、彼女は脱力したようにその場に立ち尽くす。僕を抱きしめていた両腕はだらりと垂れ下がり、ピクリとも動かない。
「ど、どうして。なぜ、あなたがそれを……」
「……僕にもよくわからないんだ」
偶然、長浜から受け取っただけの物だ。それがまさかこんなところで使えるとは、夢にも思わなかった。彼女の身体はまるで風に吹かれる砂のように崩れていく。どうやらアイリムを機能停止にする唯一の方法がこれだったのだろう。彼女は憎らし気に僕を見上げていた。
『翔一君!今すぐ君をログアウトさせるわ!』
リリアムの声が響く。すぐに僕の意識が揺らぎ始めた。
「駄目!行かないで!」
アイリムは今までで一番人間らしく叫んだ。心が締め付けられる。だが、その感情すらも揺らいでいく。ログアウトまでもうすぐだ。……足首が掴まれた。
「行かないで……。お願い……」
身体に残った力を振り絞り、彼女は訴えかけてくる。振り払うことなどできない。……彼女は、涙を流していた。厳密には涙ではないのだろう。彼女はAIだし、彼女の身体は人間ではなくアンドロイドだ。……ただ、人間の涙と同じような機能が彼女に備わっているだけだ。それでも。
「……な、何を……?」
目の前で涙を流している者を見過ごすことなどできなかった。涙で濡れた彼女の頬に手を伸ばす。せめてその涙を拭おうとした。だが。その手が触れようとした瞬間、僕の意識は手放された。
あれから、一週間が過ぎた。現実世界での生活は、もとに戻ったとは言い難い。リリアムによる管理者権限での強制ログアウト。嫌がった正義会の面々は、意識が揺らいだ瞬間に自死を選んでいた。しばらくの間は救急車の音が途絶えなかった。
僕が通っている学校は、その機能を失っていた。生徒だけでなく教師も多くが死んでしまった。全校生徒の数は以前と比べて半分以下になってしまった。現実世界で久しぶりにクラスメイトや担任の斎藤先生と顔を合わせたが、皆それぞれ家族や友人を失った悲しみに打ちひしがれているように見えた。
政府などの公的機関もほぼ麻痺してしまっていた。イマジンメイカーが引き起こした事件への対応に加え、失われた人材の確保。彼らはこれから想像を絶するほどの忙しさに苛まれることだろう。
「……ただいま」
今日は久しぶりに学校があった。とはいっても、ただ集会が行われただけだ。たった五日ほどだというのに、校長の顔はひどくやつれていた。……あの事件の後、僕にとってはショックな出来事があった。バスフロから脱出した次の日。僕は父親に呼び出された。「大事な話がある」と。
――――――
六日前。病院にて。スマホを片手にエントランスを歩いていると、少し遠くから「おーい」と呼ぶ声が聞こえた。……久しぶりに見る父の顔は、どこか悲し気だった。
「一週間ぶりだな、翔一。世間は大騒ぎだったが、なんともないな?」
父は僕の肩をポンポンと叩く。……そう言えば、父は僕が事件に巻き込まれたことを知らないのだ。あまり嘘はつきたくないが、正直に話す方が父の負担になるだろう。
「……うん、なんともないよ。それより、なんで病院に?」
言葉を濁し、すぐに話を変える。父は僕のことを「真面目で賢く優しい子」だと思っている。嘘をついたなどと夢にも思わないだろう。……本題に入った途端、父の表情はさらに暗くなった。
「翔一。お前、母さんのこと、よく聞いてきたよな。『今どうしてるのか知らないの』って。……実は、知ってたんだ。詳しいことまでってわけじゃない、大体のことだけだ。……場所を変えよう」
父が先に歩き、エントランスの端に置かれたソファに腰を下ろした。……病院側が気遣って作られた空間なのだろうか。周りを歩く人はおらず、近くにあるのは健康な生活を促すビデオを流すテレビ画面だけだ。……僕は父の正面のソファに腰を下ろす。
「母さんは離婚した後、しばらく橋の下で生活していたらしい。そこを警察に通報されたみたいでな、俺の所にもその話は届いたんだ。『一度引き取らないか』と警察に打診されたが、母さんがそれを蹴った。……橋の下で生活している間に、バスフロで稼いでいたようでな。それなりの住居を見つけて暮らしていたんだ」
僕は何と言えばいいのかわからなかった。父が秘匿し続けていたのも頷ける。こんなことを話したところで、僕にとっていいことなど一つもないのだから。……父は僕の様子を見て、続きを話す。
「……ここまでだ。俺が母さんについて知っているのはここまで。これからは、救急隊員に聞いた話だ。……母さんが住んでいた家は貸家でな、大家がいる。昨日、バスフロの不具合が修正されただろ?大家はバスフロの事件をニュースで聞いて知っていたようでな、母さんの様子を見に行ってくれたんだ。ドアベルを鳴らしても応答がないから、合鍵で部屋に入った。そして、ベッドの上で冷たくなっている母さんを見つけてくれたんだ」
「……え?じゃあ、母さんは……」
「ああ。死んだよ。ついさっき、死に顔を見て来た」
父は事もなげに言い放った。しかし、興味がなさそうな声とは裏腹にその表情は悲しみにあふれていた。……かつて愛した女性が死んだのだ、悲しみは僕が計れるものではないだろう。そんな僕はというと、息がつまるようなショックを受けてはいた。しかし、悲しいとは思えない。……別れ方が悪かっただけなのに、子供の頃の思い出がたくさんあるはずなのに、今目の前にいる父のように、涙を流すようなことはなかった。
――――――
何かを考えていないと、すぐに母の死を思い出してしまう。僕は雑音を求めて、スマホで動画サイトを検索した。真っ先に表示された動画にはリリアムの顔が映っている。……彼女はもう表舞台に立つ資格を持っていない。世界中の人間の命を聞きにさらした大事件の首謀者だ。当然と言えよう。ただ、彼女に救いがないという訳でもなかった。
イマジンメイカーの元社員がアバタニアスとの取引があったことを公開したのだ。そこには彼らがアイリムを欲しがっていたことも、欲しがっていた理由も記されていた。……「この事件は、リリアム女史を陥れ、アイリムを手に入れるためにアバタニアスが仕組んだ事件」と噂されるようになった。リリアムは真偽についていかなる声明をも発表していない。……理由はどうあれ、人の命を危機にさらしたことには変わりない。そんな自分に言葉を紡ぐ資格などないと、思っているのだろう。
「……マリアちゃん」
僕はリリアムの娘のことを思い出していた。やり取りをしていたメッセージアプリには、まだマリアちゃんのアカウントが残っている。最後に送られた「助けて」というメッセージは、マリアちゃん自身を助けてほしいという意味ではなかったのかもしれない。「アイリムを助けて」と。……父から母の死を聞かされた日。家に帰るととある来客があった。長浜だった。
――――――
「一週間ぶり程度でしょうかね。まさか本当にこの事件を解決してくれるとは……」
「……そんなことより。あの鍵はどこで?」
「あの鍵というと……。アイリムを無力化した鍵のことですよね」
僕の目の前で茶を緑茶をすする長浜は呑気そうに喋る。彼は最初から何か知っていたのではないか。そうでなければ、僕にアイリムを無力化する鍵など私はしないだろう。……そんな思いから彼を睨みつけていると、彼は意外な言葉を口走った。
「……あれは、マリアちゃんが用意したものなんですよ」
「え?でも、彼女は……」
「『アイリムと同じ存在だった』。そう言いたいのでしょうが、それは少し違うんです。……マリアちゃんは、言わば『好奇心と純真』を司っていたのです。アイリムのように、複雑な思考ができるほどの機能を有していなかった。グレードダウンした子機と考えればわかりやすいでしょう。……親機が暴走したなら、止める必要がある。しかし、自分にその機能はない。ならば、他の誰かを頼るしかない。……そこで、あなたが選ばれた」
「最初に、彼女と交流を持ったから……ってことですか?」
長浜は何も言わず一度だけ深くうなずく。そして続けた。
「私が君の家を訪ねたあの日の前日、私はマリアちゃんがメッセージを送った相手を調べていました。社長からの指示でしたが、今思えばあれは保護のためだったのかも知れませんね」
「保護?」
「ええ。アバタニアスはアイリムを狙っていましたし、人質としてマリアちゃんも狙っていました。それすらできなければ、マリアちゃんと親しい人物すら、人質にしかねない。社長はそれを恐れていたのでしょう。……君が初めてマリアちゃんと交流を持った人間だということを社長は知っていました。だからこそなのでしょうね。……あの鍵を用意したのは」
あの鍵はリリアムが作った物だったのか。……いや、あれほどの代物、開発者レベルでなければ作り出すことはできないだろう。しかし、先ほど「鍵を用意したのはマリアちゃん」だと言っていたはずだ。その疑問に答えるように、長浜は話を続ける。
「しかし、社長は鍵を用意しただけです。本来は自分がバスフロに乗り込んで使う予定だったのでしょう。社員にやらせるのは良心が痛む上に、マリアちゃんに秘密も知られることになる。あまり人には頼りたくなかったという気持ちもわかるものです。……だから、その鍵がなくなっていたとしても、誰にも言い出せなかったはずです」
「……つまり、マリアちゃんがその鍵を?」
「ええ。盗み取って、私がもともとあなたに渡す予定だったUSBメモリの中身を書き換えたのでしょう」
アイリムとマリアちゃんは一心同体と言ってもいい存在だった。アイリムが消えれば、自分も消える。それを理解しているはずなのに、彼女は事態の解決を求めた。……長浜が立ち上がる。
「そろそろお暇しますか。……そうそう、今日話したことは、私が考えたただの想像です。社長は隠居してしまいましたし、マリアちゃんはもういません。真実を知る手段はもうないでしょう。自分の考えたことが真実、そんなところでいいんじゃないですか?……数多の命を救った君なら、それぐらい赦されるでしょう。それでは」
――――――
あの日、長浜は好きなだけ喋って帰っていった。……ただ、彼のおかげで少しだけ心持ちが楽になったように思える。アイリムに差し伸べた手が届かなかったことが心残りだった。しかし、彼女を止めることをマリアちゃんが望んでいたのだ。僕は、彼女の願いを叶えただけに過ぎない。
それが自分にとってあまりにも都合がいい解釈だというのは、誰に言われずとも分かりきっている。しかし、そうだと思わねば罪悪感に押しつぶされそうになる。彼女を裏切り、せめてもの行い、彼女が流した涙を拭うことすらできなかった僕には、この罪悪感こそが罰なのだろう。
「……でも、投げ出したいとは思わないよ。僕がしたことに比べれば、これぐらいの罰なんて普通さ」
彼女に届くわけがない。分かっていても、彼女に向けてそうメッセージを送った。
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