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第6話 暁の投票箱、火を証拠に

 夜を徹して渡された南門の橋は、夜明けの一番風で白く乾き、木目が朝日を吸って蜜のように光っていた。人々はまだ眠らない。屋台の湯気、荷車の軋み、子どもの笑い声——王都の鼓動は、橋を一本増やしただけでこんなに変わるのだと、私は胸の奥で確かめる。


 黒薔薇商会の使いが息を弾ませて駆け寄った。

「レディ、工事中継の書記記録、王都全域に貼り出しました。寄付と労働の名簿も」

「ありがとう。名は光。光は人をまっすぐにするわ」


 拘束輪はまだ外れない。が、誰もそれを枷として見ていなかった。鍛冶の少年が、私の輪を見上げて笑う。

「お嬢様、その鉄、かっけえ!」

「ええ。悪徳令嬢の腕輪ですもの。重いほどよく光るの」


 昨夜、橋を渡りきった王太子アルバートの姿は、夜明け前に消えた。謁見や政務があるのだろう。彼の背には疲れと、少しの安堵があった。——海晶の代わりに、橋の名に刻まれる自分の名。それなら彼の核は守られる。私は彼に“学びの階段”を差し出したのだ。


 午前、侯爵邸の前庭で臨時の投票所準備会を開いた。机、衝立、封緘用の蝋、名簿。黒薔薇の代書人たちに加え、白百合のレディ・マルグリットが自らエプロン姿で現れ、黙ってテーブルの布をまっすぐに直した。

「数字は嫌いですの。でも、曲がった布はもっと嫌い」

「頼もしいお言葉」


 そして——栗髪の少女、昨夜壇上でまっすぐに問いをくれた彼女が、両腕に投票箱を抱えて駆けてきた。

「セレスティア様、木箱、四十台! 父が工房に声をかけてくれて」

「ようこそ、未来の記録係。あなたの善は美しいの。今日はそれを“箱”にして並べましょう」


 彼女は頬を染め、真っ直ぐに頷いた。善と悪徳が並んで立つ光景に、人々の視線は驚きから安堵へと変わっていく。物語は、相反する色が接するところで一番よく燃える。ならば、ここに焚き火を作ればいい。暖をとる焚き火を。


 投票の設計は簡潔でなければならない。三枚の札——「橋」「パン」「夢」。一人一票、札は一枚。読み上げは公開、記録は重複。偽票を防ぐため、水印付きの用紙と教会の押印。そして、真実香。虚偽が混ざれば青が濃くなる。


 黒薔薇の補助術師が、薄く魔術式を札に潜ませていくのを眺めながら、私は囁いた。

「欲しいのは圧勝ではなく、納得。数字で人を殴ってはいけない。数字は歩くための杖」


 昼前。王宮から使者が二名。紫の外套、金の紐、顔は強張っている。広場の真ん中で巻物を開き、高らかに読む。

「非常委員会は、本日未明、“臨時処断権”の発動につき予備投票を実施し——」

 香炉の青が、濃い。群衆がざわつく。私は扇を開き、使者に歩み寄った。

「“予備投票”? 委員会に民の傍聴席はありまして?」

「そ、それは——」

「ない。なら“臨時処断権”の発動は**“演出の宣言”**にすぎないわ。——宣言は、香で燃える」


 使者の視線が泳ぎ、巻物の端が震える。私は柔らかく笑い、彼らの巻物に視線を落とした。

「用紙に水印がない。王宮文庫の紙なら、双頭の鷲が光の角度で浮かぶはず。これは市井の紙——急いでこしらえた偽宣言ね。あなた方は駒。駒を責めても仕方ない。盤面を責めましょう」


 群衆の圧力は怒りに変わりかけていた。私は肘をわずかに上げ、抑えた。

「駒は責めない。駒は働いている。盤面を公開しましょう」


 黒薔薇の代言人が小走りに現れ、短く頷いた。

「議会の“非常委員会”に公開出頭要求を送達済み。二刻後、王都公会堂にて」


 いい。舞台は次へ移る。私は彼らに道を開けさせ、準備会へ戻った。


 午後、投票所の設営は佳境に入った。目の高さの衝立が並び、箱は封緘され、付番された。レディ・マルグリットが蝋の温度を確かめ、栗髪の少女が小さな子に「順番」を教える。私は腕輪を鳴らし、宣言した。

「一票の重みは、橋板一枚の重み。板は一枚では渡れない。けれど、一枚なしでは渡れない」


 と、その時。黒薔薇の使いが青ざめて駆け込んできた。

「レディ、黒薔薇名義の召喚状が街に出回っています。宛先は——王太子殿下。今日、ここ、投票所で“拘束審問”を行う、と」

 香炉の青が、淡く揺れる。嘘ではない。紙は見せかけではなく、実際に黒薔薇の型で押されていた。私は受け取って透かしを見る。——水印は合っている。だが、紙の繊維の向きが違う。黒薔薇は縦目、これは横目だ。

「偽造……いえ、“中の誰か”が印を貸した」


 王太子をこの場に引きずり出し、庶民の前で辱めたい者がいる。投票所の信用を折り、私を“王家転覆の策謀者”に仕立てる筋書き——古いが強力だ。


 私は躊躇しない。

「——逆手に取る。殿下に私から正式に“招待状”を出すわ。“見学”として。拘束はしない。王太子の武装は抜刀禁止の“聴聞礼装”。黒薔薇・教会・市民代表が護衛の輪を」

 使いが目を見張る。

「危険です」

「演出は危険でなければ映えない。けれど——記録で刃を鞘に戻す」


 私は素早く文言を起草し、三者の印を重ねて封じた。腕輪の鉄の冷たさが、意識を研ぎ澄ます。今は“似合い”でなく“手続”。手続の美で物語を縫い留める。


 公会堂。二刻の鐘が鳴ると、非常委員会の老議員たちが重い外套を引きずって現れた。壇上、私は拘束輪のまま立ち、香炉は淡く白い。黒薔薇の代言人が開会を告げ、老議員の筆頭が杖で床を突いた。

「悪徳令嬢。王都を扇動し、王権を侵した咎、重いぞ」

「重くて結構。重いから、天秤が働くの」


 私は昨夜の橋の帳簿、今朝の投票所準備記録、偽の“臨時処断権”宣言の紙質分析、黒薔薇召喚状の繊維差異……並べて、層を見せた。前世で覚えた「エビデンス・チェーン」の概念を、この世界の魔術式で視覚化する。光の帯が、紙から紙へ、印から印へ、繋がっていく。


 老議員の一人が舌打ちした。

「小賢しい。だが“権威”とは、民の前で積むものではない。密室で継ぐものだ」

 香炉の青が、一瞬、濃くなった。私は笑みを隠さない。

「密室では“演出”が勝つ。あなたがたの得物。でも、もう舞台は広場に移った。広場では“記録”が勝つ。得物を替える勇気を」


 別の議員が別巻物を掲げ、乾いた声で読み上げた。

「ここに、セレスティアの領外倉に“贈賄用の宝飾”が保管されている証しあり」

 香は、濃くならない。——巧い。事実だ。私は扇をひるがえし、宝飾一覧の写しを掲げた。

「没収品よ。領内の不当利得から差し押さえ、売却前に仮置きしている。昨年度の競売記録と照合して」

 宙に売却先と金額が浮かぶ。収益は孤児院と橋材に回っている。老議員の眉間がひく、と動き、香は白いまま。演出の刃は、記録の板で鈍る。


 そこへ、公会堂の裏扉が開いた。王太子アルバートが、剣を佩かぬ薄鎧姿で入ってくる。会場がざわめいた。私は正式招請状を掲げ、礼を取る。

「見学へようこそ、殿下。——ご安心を。今日は、あなたの席があります」

 壇の側、民の列と議会列の中間に、椅子が一つ。彼は一瞬ためらい、やがてそこへ腰を下ろした。その位置が、この国の未来の位置になるかもしれない、と私は思う。


 審理は続く。議会派は“扇動”を叫び、私は“公開の手続”を重ねる。民は息を合わせ、香は白と淡青のあいだで揺れ、やがて老議員の杖の音が鈍くなる。疲弊ではない。手段の枯渇だ。


 私は、最後の束を卓に置いた。

「民投票の規程です。投票所の配置、開票の方法、異議申立て。王家の印、議会の印、教会の印、商会の印、そして——“王太子の承認欄”」

 殿下が驚いて顔を上げる。私は微笑んだ。

「権威は署名で繋がる。密室ではなく、広場で」


 老議員の筆頭が椅子を軋ませて立ち上がり、吐き捨てる。

「王太子が女の芝居に乗ると?」

 その時——香が濃くなった。彼は“王太子”ではなく“王権”と言いたかったのだ。言い間違いに潜む意図。私はそこを逃さない。

「あなた方の関心は“王太子”ではなく“王権”。中身ではなく器。ならば、器は今、傷だらけ。金継ぎをしましょう。金代わりに、署名で」


 王太子は、ゆっくりと立った。会場が静まる。

「……俺は、昨夜、橋を見た。夢も要る。だが、橋が先だ。署名する。俺の名を、橋の下に置く」

 彼は筆を取り、承認欄に名を書いた。庶民の列から、抑え切れない歓声。老議員の顔は怒りよりも空虚に近いものへと変わっていく。思い通りに観客が泣かなくなった劇作家の顔だ。


 その瞬間——鐘が鳴った。低く重い、火事を告げる鐘。公会堂の窓の向こう、黒煙が立ち上る。方向は……南倉街。穀倉だ。


 係官が駆け込み、叫ぶ。

「穀倉に火! 消火の“聖水”庫が、何者かに封印されています!」

 封印——教会の術式。鍵守が顔色を変える。

「教会の名を騙る者がいる」


 老議員は肩をすくめ、杖を鳴らした。

「ほら見ろ。民意など火と同じ。気まぐれで、すぐ燃え広がる」

 香は淡く、しかし確かに濃くなった。私は腕輪を鳴らし、壇の前に出る。

「火は、証拠になる。——黒薔薇、灰の監査を準備。鍵守、封印の青紋を“写し取り”、偽印の揺れを抽出。殿下、あなたは消火隊長。善は迅速に動くのが似合う」


 王太子は頷き、迷いなく走った。民の列から消火隊が次々に立ち、桶が連なり、祈りと怒号が重なる。私は黒薔薇の使いに囁く。

「火の筋を読んで。燃え広がり方の不自然は、金の流れと同じ。風上に油が乗れば、運ばれたということ」


 栗髪の少女が震える声で近づいた。

「私も行きます。水を書くのは得意で」

「あなたはここ。投票箱を守るの。火は、箱をも焼きたがるから」


 彼女は拳を握り、頷いた。私は拘束輪を舐めるように撫で、黒薔薇の補助術師と鍵守を伴って公会堂を出た。熱風が頬を打ち、灰が雪のように舞う。空は青いのに、世界は灰色だ。


 南倉街。穀倉の梁が唸り、火柱が窓から吐息のように吹き出す。人々が桶を渡し、祈祷師が水を呼び、鍵守が封印の模写を板に落とす。私は鼻の奥で匂いを探った。油、藁、焦げた麦。そこに——甘い香が混じる。……真実香?


 私は灰を掬い、爪で揉んだ。細かい粉の手触り。その中に、微細な青砂。海晶の粉。返礼用の小片を研磨した時に出る粉だ。私は顔を上げ、風の向きを読む。風上、海晶の記念室の工房。まだ完成していない——そう、昨夜まで。


「海晶の粉を燃え筋に乗せた。光で人を惹きつけるためじゃない。香だ。真実香に反応する青を、風に乗せて**“虚偽の告発”**を青く見せるため」


 黒薔薇の使いが息を呑む。

「火に青を混ぜて、“嘘を暴く香”を“嘘の証明”に逆用……!」

「演出の刃ね。なら——記録の板で返す」


 私は鍵守に板を差し出す。

「封印の筆圧、間隔の癖、墨の乾き方。教会の本印なら、呼気の癖が揃う。偽印は、息が合わない。音で取れる?」

 鍵守は眼を細め、板に耳を当て、微かな木鳴りを拾う。彼は短く頷き、指先で“違い”を示した。

「偽印。三人が交互に押した」


 私はその“揺れ”を魔術式で浮かび上がらせ、広場へ投影した。炎の前で、青い線が音譜のように踊る。

「三人の息。議会の筆頭、王宮の侍従、そして——工房の親方。海晶の粉を扱える人」


 人垣がざわめき、どこかで誰かが駆け出す音。私は腕輪を鳴らし、叫んだ。

「逮捕ではない。確保。息を合わせるために、聴聞の場へ」


 王太子が戻ってくる。髪は煤で黒く、額に汗。彼は消火隊の先頭に立ち、声を張り上げた。

「水を列で! 扇で風を作るな、煽る!」


 私は頷き合図し、黒薔薇の術師に命じた。

「灰の監査開始。灰を層で分け、海晶粉の密度で時系列を引く。焼き始めを特定し、風の向きを刻む」


 群衆は火に向き、同時に視線の一部は私に戻る。悪徳令嬢が、炎の前で証拠を編んでいる。演出は十分、次は結果。結果は石と水と灰で書く。


 やがて、鍵守が耳を離し、低く告げた。

「封印の筆致、議会の筆頭の古癖が混じる。彼は若い頃、西の書院で筆を習った。止めの角度が鋭い。この封印、同じ癖」


 老議員の名は、私はまだ呼ばない。呼び方を間違えると、物語は逃げる。広場の前で、証拠が歌に変わるのを待つ。


 火は次第に押さえ込まれていく。王太子が肩で息をし、民が肩を叩く。灰の匂い、濡れた麦の重み、割れた梁の音。私は黒く焦げた梁に手を置き、静かに言った。

「——灰は語る。語り終えたら、投票に戻る。火を口実に“臨時処断権”を強行するなら、火を記録に変えた事実で殴り返す」


 栗髪の少女が投票所から駆けてきた。息を切らし、目を輝かせる。

「箱は無事! 列ができて、老人の人たちが、杖で箱を叩いて“行ってこい”って。子どもが橋の札を握ってる」

「いいわ。一票は杖。杖は叩いて音を出す。音は群衆を整える」


 私は王太子に目を向けた。

「殿下。あなたは今、消火という善をやった。次は、署名という善を。火を消した手で、規程に名を」

 彼は頷き、濡れた手で筆を取り、規程に追署した。水滴が紙に落ち、濃い点を作る。それすら証拠だ。——この署名は、火の中で書かれた、と。


 そこへ、黒薔薇の代言人が低い声で告げた。

「レディ。灰の層の最下層に、油の匂い。市壁の外から運ばれた樽油。工房の親方の倉から、一本、欠」

 私は目を閉じ、息を吐き、目を開ける。

「幕が引ける。——今夜、公会堂での追加聴聞。議会筆頭、親方、侍従。三人で同じ香の前に立ってもらう」


 王都の空に、二つ目の鐘が鳴る。今度は——集合の鐘。人々は火を消し、灰を払い、橋を渡り、箱の列に戻る。私は拘束輪を握り直し、声を張った。

「火を見た手で、箱に触れて。灰を払った袖で、札を落として。橋は渡った。次は——選ぶ」


 老議員は、きっと今、別の演出を探している。古びた脚本の余白に、新しい罠の書き込みを。いいわ。私は毎度、手続の余白に金継ぎを描く。重い腕輪は舞台の照明をよく拾う。悪徳令嬢の出番は、炎の後にこそ増えるのだ。


 公会堂に戻る道すがら、私はふと立ち止まり、焦げ跡の前で跪いた。黒くなった麦の一粒を拾い、掌で転がす。欠けた粒は軽い。軽いものは風に流れる。だからこそ、重みが要る。重みは、署名と一票で作る。


 顔を上げると、栗髪の少女が隣にしゃがみ、同じように麦粒を拾っていた。

「こわかった。でも、手順があると、こわさが減る」

「そう。こわさは名前を与えると小さくなる。名は手順。手順は——未来」


 夕陽が灰の上で朱に変わり、遠くで橋の上の木板が足音に応えて軽く鳴った。私は立ち上がり、扇を、いや、拘束輪を鳴らす。金属の音が、暁に置き忘れた宣言のように響いた。


「——最終幕は、箱の前で。炎を証拠に変え終えたら、“ざまぁの帳尻”を数字で締める」


 夜は、もう一度やって来る。だが今度は、燃やすためではない。票という火で、未来に熱を渡すために。

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