第4話 公開聴聞——天秤の傾き
真昼の白い陽が市民広場を焦がし、仮設壇の幕は熱を吸い込んで重く垂れた。香炉の煙は淡い青を揺らし、虚偽を告げるたびに色を濃くする。私の扇の影が石畳に花を描き、群衆は息をひそめる。
「続けましょう。第一件、“断罪条項の事後挿入”について」
黒薔薇商会の代言人——黒檀の杖を持つ男が書板を掲げる。魔術式が走り、婚姻契約の改変履歴が空中に投影された。押印の圧痕、墨の粒度、羊皮紙の繊維。前世では鑑識報告書で見たようなディテールが、ここでは“魔術的事実”として視える。
「王太子側侍従の代理印が昨日付で挿入。対して王家は“原本がこれだ”と主張」
黒檀の杖が殿下の机を指す。殿下は顎を上げた。
「原本は王家の保管庫にある。商会の幻惑に惑うな!」
青が濃くなる。真実香は、ゆっくり、しかし確実に反応した。群衆がざわめく。私は一歩進み、扇で香を仰いだ。
「殿下、保管庫の番人——教会から派遣された鍵守をお呼びしましたわ」
壇の脇から、白衣の老人が現れる。連ねられた鍵束、胸元の徽章。鍵守は淡々と語った。
「王家保管庫の当該棚は、昨日の午前、侍従の立会いで解錠され、三分後に再封印された。封印蝋の気泡位置から剥離・再接着が確認された」
殿下の横に控える若い侍従の耳まで赤くなる。私は香炉の青を横目で見て、小さく頷く。
「第一件、王家側の改変。天秤は傾きましたわね」
黒檀の杖が“有形の証拠”側に玉を落とす。天秤の魔術式が淡い光で可視化され、群衆から低い歓声が上がった。
「続けて第二件。“慈善の私物化”として私に向けられた告発。——証人を」
壇下から、中年の貴婦人が上がってくる。絹のドレス、金糸の帯、指に光る大粒の宝石。王都の有名慈善会「白百合の托鉢」代表、レディ・マルグリット。彼女は涼しい眼差しで扇を広げた。
「セレスティア様は、わたくしたちの募金先を勝手に変え、名門院の看板から“辺境の孤児院”へと資金を横流しなさいました。結果、寄付者の名が掲げられる壁は取り払われ、名誉は失われたのです」
群衆の一部から同意のざわめき。私は微笑し、黒薔薇の使いが運んできた箱を指した。封蝋を割ると、領内の会計帳と、白百合の広報費明細が現れる。
「横流し? いいえ。契約に基づく目的地変更。白百合の規約第七条、『受益者最大化のため配布先を合議で見直す』。その合議に数字を添えたのは、わたくしですわ」
宙に浮かぶ数字の列。名門院——豪奢な建物の維持費と、額縁の黄金に莫大な予算。対して辺境孤児院——一人当たりの食費、冬の薪、石鹸、教本。私は扇で列の“子ども一人当たりの温かな食事”の数をトントンと叩いた。
「同じ一万リーブルで、温かい食事が七十二日分増える。看板の金箔が剥がれ、拍手も減りました。けれど、“パン”は増えた」
貴婦人は唇を結び、扇で口元を隠した。真実香は色を変えない。私は続けた。
「また、白百合の“広報費”の内訳、昨年比で倍増。舞踏会の花代、上座費、絹の横断幕、名門院広場での記念撮影の舞台——寄付総額の一割を超えています。規約第九条の限度超過。わたくしが差し戻し、広報費を上限内に収めさせたのが、“私物化”だと?」
群衆から笑いが漏れ、やがて大きな拍手へと変わっていく。私は視線を貴婦人に戻した。
「レディ・マルグリット。あなたは悪くない。システムの歯車に善意ごと絡め取られていた。ただ、わたくしは歯車に指を入れ、無理やり止めた。血は出ました。でも、パンは焼けた」
貴婦人はしばらく沈黙し、やがて扇を閉じて一礼した。
「……セレスティア様。あなたのやり方は好きではありません。ですが、数字は嘘をつかない。謝意を」
香の色は揺れもせず、風のように白い。天秤の玉がまた、こちら側に落ちた。
殿下の目が苛立ちに揺れる。彼は反撃の機会を探している。わかっている。ここで第三件目を彼側の攻撃から始めるのが最適だ。
「では、王家側からの立証を。——“平民の薬師を牢に入れたのはセレスティアだ”という件」
殿下の合図で、痩せた男が壇上に引き立てられた。頬がこけ、視線が落ち窪んだ薬師——クレマン。彼は震える声で語る。
「ぼ、僕は……孤児の咳を止める薬を、安く売っていました。けれど、セレスティア様が“見逃し料を払え”と……拒むと、衛兵が来て、牢に……!」
群衆が息を呑む。私は扇を返し、香炉を示した。青が──出ない。私は眉を上げ、口元だけ笑む。
「クレマン。あなたの“咳止め”の配合表を」
黒薔薇の使いが羊皮紙を広げる。私は見慣れた薬草名を追い、ある行で指を止めた。
「“カロナ草の蜜——五滴”」
クレマンの喉が鳴る。私は扇をゆっくり閉じた。
「十五滴、入れたわね?」
彼は肩を大きく震わせ、無意識に一歩後ずさる。香炉の青がふっと濃くなり、群衆から圧のようなどよめきが起こった。
「カロナ草の蜜は、子どもの痙攣を悪化させる。五滴までが限界。十五滴は——利幅が出る。苦味が消えて飲みやすくなるが、発作が長引く」
「ち、違——」
青が深くなる。私は手を上げ、群衆の怒声を制した。
「違わない。あなたが私に“見逃し料”を求めた書付はここに。私は代わりに契約を提示した。“貧民街の子どもへの無償配布の拡大と、配合表の外部監査”。あなたは拒み、牢に入った。——牢へ送ったのは誰? 町役場よ。私の印は、監査の承認印」
黒檀の杖が町役場の判決書を宙に映す。署名、日付、署の印。真実香は透明のまま。群衆の視線がクレマンから私へ、そして王太子へと移る。殿下の拳が固く握られた。
「民を装って搾る者が一番厄介。だから、私は“悪徳”で切る。利幅ではなく救命率で帳簿を組み替える」
天秤の玉が、また私の側に落ちた。殿下の表情が硬くなる。追い詰めた? いいえ。追い詰めすぎれば、暴発する。私は意図的に、ここで一歩引く。
「殿下。あなたにも言い分があるでしょう。王国の財政、戦線、民心——すべてを抱えておられる。あなたを全否定するつもりは、初めからありません」
群衆のざわつきが和らぐ。私は扇先で、壇の隅に置かれた箱を示した。蓋を開けると、蒼い鉱物——海晶が夜のような光を返す。群衆が思わず声を漏らす。美しい。危うい。殿下の瞳がわずかに揺れる。
「海晶。殿下のご寵愛。祖母君の遺品。その価値は通貨に換えられない。——私は、それを知りながら、差し押さえ候補として名を挙げました。なぜ?」
私は一拍置く。
「**“不当献納”**の疑い。王都南門の改修費に充てるため、王家は“海晶鑑賞会”なる催しで寄付を集めた。鑑賞会の経費が、全体の四割」
宙に走る数字。会場の装花、招待状の金箔、警備の大仰な演出。——そして、最後に現れる“寄付者への返礼としての海晶小片”支出。私は青い小片を摘み、香炉の上にかざす。青は色を変えない。
「寄付金の一部を“返礼”の形で鉱物に替えて払い戻す。これでは、寄付と称した物品売買。税の扱いが変わる。南門の改修は遅れ、下町は風雨に晒された。——殿下、あなたは“善”の演出に弱すぎる」
殿下の唇が震えた。彼はとうとう叫ぶ。
「正義は演出でもいい! 民が夢を持てるなら!」
香が、一瞬だけ濃く——すぐに淡く戻った。私は静かに首を振る。
「夢は必要。ですが、橋が先。夢を運ぶための橋。雨に濡れた子どもの靴底が、夢の重みで割れぬように」
群衆の中から、老職人が叫んだ。
「南門が閉じれば、俺たちの仕事は流れる! 海晶の光より、乾いた石が欲しい!」
拍手。怒号。声の背に、熱が生まれていく。私はその熱が暴徒化に転じないよう、扇を高く掲げた。
「ここで、公開予算編成をご提案します」
黒檀の杖が私に向く。私は壇上の机に、三枚の板を並べた。橋/パン/夢。それぞれに数字が刻まれている。
「今年度、王都の余剰金は三十一万リーブル。橋に十五、パンに十、夢に六。夢は消さない。演奏会、図書館、灯りの祭。けれど、橋が先。パンが先。——この配分案を、一週間後、民の投票に」
ざわめきは驚きに変わり、やがて期待のざわめきへ。黒薔薇の代言人が頷く。
「商会は投票所設置と集計透明化を支援する」
殿下は苦々しげに吐き捨てた。
「貴様は王を差し置いて、民意で国を動かすつもりか」
「いいえ。王と民のあいだに“記録”を置くのです。演出だけでは傾く天秤を、記録で戻す。それが“悪徳”の仕事」
そのとき、壇の端で騒ぎが起きた。鎧の擦れる音、旗竿が鳴る。議会の警吏が押し入り、巻物を高々と掲げる。赤い封蝋、双頭の鷲——非常委員会の臨時令。
「侯爵令嬢セレスティア・アルテミシア。国家秩序攪乱、および王家威信毀損の容疑により、身柄を拘束する!」
群衆がどよめく。殿下の目が驚きに見開かれる。——彼も知らされていない? なら、これは長老派の切り札。物語に飢えた老いた劇作家たちが、裏から幕を引こうとしている。
私は扇を傾け、香炉の煙を見た。青は……淡い。嘘を告げていない。非常委員会は権限を持つ。拘束は形式上、合法。ならば——舞台を変える。
「拘束、結構。——ただし、公開の場で」
警吏隊長が眉をひそめる。
「なに?」
「私の取り調べは、本壇にて、本日このまま続行。すでに万人の耳が傍聴者。密室では“演出”が勝つ。公開では“記録”が勝つ。どちらがよろしい?」
黒薔薇の代言人が一歩前に出る。
「商会は“公開拘束取調べ”の運用例を三件保持。前例主義に倣うなら、可能です」
鍵守がうなずく。
「教会も傍聴し、偽証には即罰を与える」
議会の警吏が顔を見合わせ、短く協議し、やがて頷いた。殿下は椅子から立ち上がり、拳を握った。
「いいだろう。お前の“悪徳”がどこまで通用するか、見てやる」
私は手を差し出す。警吏が綺麗に磨かれた拘束輪を嵌める。冷たい金属が手首で鳴る。群衆が一斉に静まり返った。
「では、第一問。セレスティア、お前は王家の威信を——」
「待って」
栗髪の少女——ヒロインが、震える声で遮った。彼女は壇へ駆け上がり、拳を握りしめて私を見つめる。
「セレスティア様。あなたは“悪徳”だと自称し、橋とパンを先に置いた。でも、それで救えないものは、どうするの?」
彼女の瞳が揺れる。善の重さは、時に刃となる。私は金の輪を掲げ、ほんの少し笑った。
「順番を決める。救えなかったものを記録する。そして、記録に沿って次に救う。——それでも届かないとき、私は悪徳として嘘をつく」
群衆がざわめく。殿下が目を細めた。
「嘘?」
「“先に嘘をついてでも金を集め、後から必ず帳尻を合わせる”という嘘。寄付の看板に名を載せたい令嬢には、名を載せる場所を新設して差し上げる。見返りが欲しい商人には、税控除という枠を用意する。動機の善悪を問わず、結果を善へ寄せる。それが私の“悪徳”」
香炉は色を変えない。嘘ではない。ヒロインは戸惑いながらも、ほんの少し頷いた。彼女の善はまっすぐだ。ならば、並べて進めばいい。
「取調べを続けよう」
黒檀の杖が壇をコツンと叩く。議会派の代言人が巻物を広げ、私の財産に関する疑義を読み上げる。海外口座、領外の倉、黒薔薇との癒着。私は一つずつ、開示で答える。口座の残高、倉の中身、契約条項。数字は冷たく美しい。天秤はそのたび小さく、こちらへ傾く。
だが、長老派の老議員がゆらりと立ち上がった瞬間、空気が変わった。白い髭、乾いた声。彼は、今この国で最も古い物語を呼び出す。
「淑徳の比喩を知っておるか、悪徳令嬢よ。女はたしなみ、男は裁く。お前は裁きへ出すぎた。だから、処刑が似合う」
古臭い比喩に、いくつかの嘲り笑いが混じる。しかし、古い言葉は毒を持つ。群衆の一部がざわつく。私は静かに息を吸い、扇ではなく拘束輪を持ち上げた。
「似合いで人を裁くのは、演出の領分。私は、それを否定しません。演出は必要。——だから、私は処刑台に“手すり”を付けます」
老議員が目を細める。群衆が耳を傾ける。
「手すりとは、控訴の階段。判決前に“数字の照合”をもう一段入れる。『淑徳の比喩』のような“似合い”で揺らぐ心を、手すりで支える。あなたの言葉は時代を滑り落ちる。私は、それを止める」
黒檀の杖が大きく鳴った。黒薔薇の代言人が宣言する。
「本聴聞、控訴階段の設置を認める。議会派・王家派・市民代表・教会・黒薔薇の五者で構成」
喝采。老議員は顔をしかめ、椅子に沈んだ。
夕陽が広場の端から差し込み、人影が長く伸びる。長時間の応酬で、誰もが疲れている。けれど、最後の一手が残っていた。私は扇を——いや、拘束輪を静かに撫で、殿下を見た。
「殿下。最後に、あなた個人へ。海晶コレクションは差し押さえ候補から外します。代わりに、文化基金に王太子記念室を設け、寄付者名ではなく**“修復済の橋名”**を刻む。あなたの名も、そこへ」
殿下の目が揺れ、僅かな安堵が差した。彼はきっと、祖母からの贈り物を守りたかった。海晶は彼にとって、物語の核だ。核を無慈悲に砕けば、彼は暴君に落ちる。核を別の名で保存すれば、彼は——正義を学べる。
「……勝手に決めるな」
言いながらも、彼の声から刺が一つ抜けた。私は小さく礼をし、黒薔薇の代言人に目で合図を送る。
「本日の聴聞は、ここまで。——最終決は七日後、“配分の民投票”当日。王都全域の投票所で」
群衆が沸く。旗が揺れ、石畳が足音で鳴る。私は警吏に伴われ、壇の裏へと歩いた。拘束輪は外されない。だが、これは首飾りだ。悪徳令嬢の舞台衣装。光を浴び、鉄は飾りになる。
幕の裏で、栗髪の少女が待っていた。彼女は緊張で頬を紅潮させながら、まっすぐに言う。
「セレスティア様。わたしはあなたのやり方、全部は賛成できない。でも……一緒に橋を数えたい」
思わず笑みが零れる。善と悪徳が、手の届く距離に立つ。これが、勝ち筋。
「ようこそ。橋は、数えるほど未来が増えるわ」
そのとき、黒薔薇の使いが駆け込んだ。顔色が悪い。
「レディ——王宮内で、非常委員会が**“臨時処断権”**の発動を協議。投票前に結果を出すつもりです」
空気がひやりと冷える。やはり来たか。老いた劇作家たちは、拍手を待てない。私は拘束輪を見下ろし、笑った。
「だったら、こっちが先に“結果”を出す」
「結果、とは?」
「橋を一本、今夜、開通させる」
使いが目を剥く。栗髪の少女が息を呑む。私は踵を返し、夜の王都の地図を脳裏に展開する。南門——仮設の桟橋、工事は八割。必要なのは、資材、人手、魔術、許可。
許可なら、“公開聴聞の附帯決議”として今出す。資材は——白百合の広報費から再配分。人手は——今この場の群衆。魔術は——教会の鍵守と、黒薔薇の補助術師。そして私の**“勅許の天秤”で、危険と必要の傾きを正面から可視化**する。
幕の外から、まだ熱の残る歓声が響く。私は扇の代わりに拘束輪を鳴らし、微笑んだ。
「——幕間の工事を始めましょう。悪徳令嬢の“ざまぁ”は、実行で魅せる」
夜風が吹き抜け、青い香の名残がかすかに揺れた。天秤は、もう私の手の中で光っている。次の幕は、石と汗と、火の粉だ。
処刑フラグ? 上等。フラグは旗だ。旗には色が要る。私はその色を、橋の上で塗り替えるつもりだった。