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第1話 断罪劇場、幕が上がる の公開

 王宮最大の舞踏大広間は、昼なお暗い雲を透かした青白い光で満ちていた。金糸で刺繍された垂れ幕、騎士たちの槍の列、磨かれすぎた床に映る天蓋灯——どれもが「儀式」を強調している。今日の主役は私、侯爵令嬢セレスティア・アルテミシア。そして、相手役は彼——王太子アルバート殿下。


「侯爵令嬢セレスティア。お前との婚約を破棄する!」


 殿下の宣告に、取り巻きの若い貴族たちが待ってましたとばかりに嘲笑を混ぜた囁きを投げ合う。


「やっぱりね、悪徳令嬢」

「領内商人を泣かせ、慈善を私物化してたんだって」

「平民の薬師を牢に入れたのも彼女の手配とか」


 いいえ、どれも的外れだ。けれど、事実のように響くよう仕掛けられている。私はゆっくり深呼吸し、胸の内側で脈打つもう一人の自分を確かめた。——前世の記憶。ここは「前世で読んだ乙女ゲーム」によく似た局面だ。悪徳令嬢は断罪され、広場で処刑。正ヒロインは清らかに涙し、王太子は正義の刃を振るう。けれども。


(この筋書き、破るわ)


 私は扇の骨を鳴らし、膝を折って礼を取る。


「ご英断、心よりお慶び申し上げますわ、殿下」


 ざわめきが一段階高くなる。婚約破棄を笑顔で受ける悪徳令嬢など、彼らは見たことがないのだろう。


「……なに?」


「ただ、ひとつだけ。手順が逆ですの」


「手順?」


「ええ。婚約破棄の発表は、まず契約書の監査から。王家の印璽、侯爵家の印璽、そして——“第三の印”の確認が必要」


 殿下の眉間が寄る。彼は知らない。貴族社会の契約には、当事者二家に加え、第三権威の見届け印が必須だということを。社交界の実務を動かしていたのは、私だ。


「第三の印? 王家と侯爵家で十分だ」


「通常なら、ええ。けれど、婚姻契約は王国教会の印——“清廉のレコード”が付く決まり。殿下の侍従がご存じでないはず、ありませんわよね?」


 私は扇を畳んで持ち上げる。そこに貼り重ねた薄紙は、光の角度で銀字が浮く。王国教会の控え印。彼らがすでに“偽の写し”で儀式を進めようとしていたことが、今この場で露呈していく。


「……それは」


「写し。本証は私が保管しております。なぜなら、殿下が二度も“離婚条項”の削除を提案なさり、その都度、わたくしが差し戻したから。教会は“条項の改変が落ち着くまで本証を預けておくのが安全”と判断なさいました。ちなみに翌日、例の告発状が出回ったのですわね。奇遇ですこと」


 ざわ……という波紋が貴族席に走る。殿下の側近の頬が引き攣るのが見えた。彼らは私を「世間知らずの浪費家」に仕立てた。だが真実は逆。悪徳令嬢と呼ばれた私は、契約と帳簿の怪物だ。


「くだらぬ細則で時間稼ぎをする気か、セレスティア!」


「とんでもない。むしろ迅速な解決をご提案します。婚約は私から破棄いたします。本日付で。理由は“相手方の信義違反”。従って、条項十七——破棄に伴う慰藉金全額の即日履行。王家は通貨か、もしくは資産譲渡で」


 私がにっこりすると、空気が凍った。これで王家は、世論を装って私を公開断罪し、ソフトランディングで「婚約は互いの合意で」などという美談に落とす算段が崩れた。私の選択は一つ。正面から殴る。


「な、何を勝手に……!」


「勝手も何も。契約条文は殿下自ら署名なさいました。第三の印も、教会に控えが。——お困りなら、ここで公示しましょうか?」


 私は指先をひらりと上げる。合図に応じて、扉が開いた。教会書記官が二名、正装で入場し、銀の筐体を運ぶ。王太子の視線が険しくなった。


「教会は王家に背くのか!」


「背きません。ただ、記録を読み上げるだけ」


 銀の筐体の蓋が開き、淡い光が溢れた。祭器というより、魔道具。記憶の書だ。聖職者の手が触れると、透明な板に文字が浮かぶ。条文の履歴、印璽の押印、改変ログ。——そのとき、私の脳裏に鈍い鐘の音が響いた。


(覚醒の合図)


 胸の奥で、何かが回路を繋ぐ。前世の知識が、魔術と契約が混ざったこの世界の構造と、ぱちん、と噛み合う。文字が私には層として見えるようになった。文字の背側に、筆圧、ためらい、押印の微妙な傾き。——読める。**「意図の偏り」**が。


「セレスティア。悪あがきはやめろ」


 殿下の声は苛立っていた。私は小さく首を傾げ、祭器の前へ進む。


「悪あがき? 違いますわ。悪徳ですもの」


 扇の先で、第三条の末尾を示す。


「ここ。『王家は、世論の安寧のため必要と認められる場合、断罪の儀を選択できる』。この一文、いつ差し込まれたのでしょう」


 書記官が目を細め、魔道の晶を撫でる。文字が薄く色づき、時系列が浮かぶ。——挿入は昨日。差し戻しの後。印は王家侍従の代理印。


 貴族たちのざわめきは、もはや抑えようがない。


「……つまり殿下は、断罪演出ありきで動かれた。契約書を後から加工し、私を見世物にするため条文を挿入なさった」


 私は笑った。扇の影が、床に黒い花のように映る。


「ようこそ、“悪徳令嬢”の劇場へ。脚本を奪い、舞台を取り戻すのは、いつだって女優の仕事ですのよ」


 殿下の頬が紅潮し、拳が揺れる。彼の背で、誰かが合図を送った。黒服の近衛が二歩、前に出る。私は顔を上げ、さらに一歩、彼らのほうへ踏み出した。


「殿下。ここまで話すと、貴方は**『逆転の演出』**を選ばれる。『悪徳令嬢が教会を抱き込んでいる』『金で買収した』。いいえ、言わずとも分かります。——ですから先に言っておきますわ」


 私は祭器の横の燭台に手を翳す。微かな熱。空気の成分の揺らぎ。前世にあった実験室での癖が、魔術の回路を自然に選ぶ。「汚染検知」。火は、甘い香りを帯びてすぐに青へと変わった。書記官が驚いて私を見る。


「香料、ですか?」


「ええ。真実香。虚偽の言葉が発せられると、香の色が濃くなる。王家の献納で、教会に三十壺が納められた、あの香。殿下もご存じのはず。あら、どうして本日この場に焚かれているのでしょう?」


 殿下の側近が青ざめ、足を引いた。私は静かに、観客—つまり貴族社会—のほうへ向き直る。


「皆さま。私は“悪徳令嬢”です。定価を守らせ、賄賂を断ち、契約を守らせることにおいて、容赦しません。そのために、領内の“便利な抜け穴”をいくつか塞ぎました。商人が泣いたのは真実。けれど、それは——“泣き落とし”の値切りが通じなくなったから」


 私は言葉を区切り、扇の骨で床を軽く打つ。


「領内の薬師が牢に入った件。あれは密造薬草と偽薬の混販売です。**私が牢に入れた? 違いますわ。**自白書は町役場にある。彼が私に“見逃し料”を求めたのは事実。私は代わりに契約を差し出しました。“貧民街の子どもに対する無償配布の増加”。彼は笑って拒み、牢へ行った」


 空気の流れが変わる。胸を張っていた若い貴族が、目を泳がせた。彼らは快い物語を好む。悪徳令嬢が悪い。王太子が正義。けれど、物語の温度を一段変えるだけで——。


「慈善の私物化? ええ、私物化いたしましたわ。“結果”を私物化したの。寄付金の行き先を“名門院”から“辺境の孤児院”へ切り替えた。看板は減り、拍手は減り、現場のパンが増えた」


 私は扇を閉じる。骨が鳴る音が、大広間の壁に跳ねて返る。


「だから、私は悪徳令嬢。世間体を盗み、看板の光を奪い、数字と現場にだけ甘い顔をする」


 殿下の顔から血の気が引いた。彼はようやく理解したのだろう。この断罪は、彼側の“物語装置”であるはずが、いまや私の“現実装置”に変換されていることを。


「……セレスティア。そこまで言うなら、お前はこの国に仇なす存在だ。拘束し、取り調べる」


 近衛が踏み出す。私は一歩も引かない。


「取り調べ、結構。その前に、慰藉金の受け取りを済ませましょう。契約は契約。王家の信義は世界の秩序、でしたわよね?」


 私は祭器脇の小卓に、もう一つの封筒を置く。黒薔薇の封蝋。大広間のいくつかの顔が、わずかに硬直した。黒薔薇商会。王都の誰もが噂にする、訴訟と監査のプロ集団。私は彼らの最高顧問と、昨夜、契約したばかりだ。


「黒薔薇……!」


「第三者弁済の枠組みをご存じで? 王家に即日弁済の用意がない場合、黒薔薇商会が通貨等価物で立て替え、王家に求償します。差し押さえ対象は、王太子私邸の海晶コレクションから」


 殿下の肩がびくりと跳ねた。その瞬間、私は確信する。——当たりだ。彼はあの海晶に執着している。祖母から贈られた蒼い鉱物、王太子の美学の核。それを差し押さえると囁いただけで、彼は判断を誤る。


「やめろッ!」


 殿下が叫ぶ。近衛が動く。——私は扇を滑らせ、指輪に軽く触れた。“勅許の天秤”。目には見えない小さな天秤の魔術式が、私の周りに立ち上がる。有形の暴力/無形の契約違反。傾きは必ず可視化される。近衛の靴裏が床で軋み、彼らの動きが半歩鈍る。


「ここで手荒は得策ではありませんわ。天秤に傷が付けば、王家側に“過剰行使”の不利。魔術審問の対象になります」


 私は穏やかに言う。書記官の一人がこくりと頷いた。彼らは中立だ。中立であるために、記録に忠実である。


「殿下。舞台転換のお時間です。私からの提案を——いえ、“慈悲”を差し上げます」


 私は扇を横に向け、ゆっくりと空を切った。黒服の書記官が新しい紙束を掲げる。そこには、私が昨夜起草した「婚約破棄に関する共同声明案」が記されている。王家の面子を最低限守る形で、即日破棄、慰藉金は文化基金への拠出、契約違反等の検証は公開聴聞会で。——そう、公開。密室はもう終わり。


「こんなもの、誰が——」


「民が。そして殿下が、です。殿下が“正義”をお望みなら、光の下で。私は悪徳。闇を知り、光の強さも知っています。ならば、光の中央に立ちましょう」


 殿下の喉が硬く鳴った。貴族席の上段から、枯れた声が降ってくる。——宰相だ。古狐は、獲物が別の獣だと気づくのが早い。


「殿下。……一度、控室で協議なさっては」


 殿下が宰相に向いたわずかな隙に、私は最後の一枚を置いた。白いカード。招待状。宛名は「王太子アルバート殿下」。場所は市民広場、日付は一週間後。——黒薔薇公開聴聞。


「逃げ場はありませんわ、殿下。逃げてよいのは、物語の悪役だけ。私が舞台袖に下がる日は来ない。私は“悪徳令嬢”だから」


 最後の言葉に、私は微笑みを添えた。悪徳とは、何を指す? 誰かの看板を削ること。形ばかりの善を切り捨て、実務の善に予算を回すこと。権威の都合を踏み抜くこと。ならば上等。私の“悪徳”で、腐ったものを一つでも剥がせるなら、喜んで泥を被る。


 殿下は拳を下ろし、震える息を吐き、私を睨んだ。


「……よかろう。共同声明は——検討する。ただし、お前の罪は必ず暴く」


「ぜひ。罪と“成果”を並べてご覧くださいませ」


 私は深く礼をした。拍手は起きない。ざわめきが波のように揺れ、壁の金糸が光を飲む。儀式は空中で行き先を失い、今日の大広間はただの空間へと戻りつつある。


 去り際、私は視線の端で、一人の少女と目が合った。栗色の髪、緊張でこわばった口元。——この物語の“正ヒロイン”に似た顔立ち。彼女は小刻みに震えながらも、私から目を逸らさなかった。いい度胸だ。彼女が善であることを、私は否定しない。善は美しい。けれど、善だけでは回らぬ帳簿がある。


 扉が開く。社交界の空気が、私の肌からするりと落ちる。廊下の隅に黒い影。黒薔薇商会の使いが、無言で一礼した。


「レディ・セレスティア。即日、告示の手配を」


「お願い。あと——孤児院のパン窯、増設しましょう。今日の“悪徳”の働きで、粉の在庫が増える予定だから」


 使いの唇がかすかに笑う。悪徳。それは、今日の私にとって、誇りという名の別スペルだった。


 私は扇を閉じ、真っ直ぐ前を向く。処刑フラグ? 結構。私はそれをへし折るだけではない。利用する。世論が盛り上がるほど、公開の場は増える。公開の場ほど、私の魔術と数字が映える。


 大広間の重い扉が背後で閉まる音が、妙に軽やかに響いた。舞台は変わった。幕は上がった。悪徳令嬢の出番は、ここからが本番——。


(ようこそ、観客の皆さま。“ざまぁ”の帳尻合わせは、これから始まりますわ)


 私の踵が、廊下の石を軽く叩く。次の一手——黒薔薇公開聴聞の準備、領内帳簿の一般開示、そして、王太子の海晶コレクションの保全申立て。やるべきことは山ほどある。背筋を伸ばし、私は歩き出した。

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