六章 連なる決意 十九話
19、紫苑の場合
こんな状況になって初めて、自分が幼い頃描いていた夢が烏滸がましく世間知らずなものであったと気づく。
「国を支える王を支える王妃になりたい」
それは、王に依存した夢でしかないことに、紫苑は気づいてしまった。
「紫苑姫、そろそろお逃げにならないと・・・・・・」
外の喧騒が激しくなってきたというのに、一向に逃げる気配のない紫苑に、夕霧が焦った様子でそう催促する。
けれど紫苑はそのまま動こうとはせず、強い瞳で柔らかな笑みを浮かべながら夕霧に言った。
「ねぇ、夕霧。覚えている?芍薬陛下が初めてご自分から私の室にいらしたときのことを」
「え、あ、はい・・・」
忘れるはずがない。
芍薬が突然紫苑の室を訪ねてきて、夕霧はひっくり返りそうなほど驚いたのだから。
けれど、あの一度きりで、芍薬は紫苑と会ってはいない。
最初で最後の逢瀬。
そのときふたりが何を話したのか、夕霧は知らない。
ひどく短い逢瀬であったとは、室の外で待機していて思ったが。
「・・・陛下がね、そのときお話ししてくださったの」
ゆっくりと紫苑は語る。まるで外の喧騒など聞こえていないかのように。
「お話・・・ですか?」
「そう。幼い頃から正妃の公子である風蘭に嫉妬をしていたことや玉座への不安。陛下は、まるで懺悔をするかのように私に色々話をしてくださったわ」
芍薬の中の弱い部分を吐露するかのように。
ただ淡々と紫苑にそれを語った。
「そして、最後におっしゃったわ。『こんな王の王妃となったのは、不運としか言えない』と」
「芍薬陛下がそんなことを・・・・・・」
芍薬がどんな人物か、夕霧はよくは知らない。
だが、内気な性格だと噂で聞いたことはある。
そんな彼が、紫苑にそんなことを告げるのは、なんだか意外な気がした。
「そんなことはありません、と私が陛下にお伝えしても、陛下はただ悲しそうに笑うだけ。あの方は、わかっていらしたのかもしれないわ」
「何を・・・ですか?」
「私が、中途半端な気持ちで後宮に来てしまったことを」
寂しそうに、紫苑は笑う。
夕霧は早く紫苑を逃がしたいと思う気持ちと、紫苑の話を聞きたい気持ちの板挟みにあいながらも、彼女の話に耳を傾ける。
「紫苑姫が中途半端など・・・・・・!!」
「いいえ、夕霧。私はただ、無知のまま、理想と現実の違いを知らぬまま、ここに来てしまったの。王を支えることがまるで自らの責務であるかのように豪語して・・・・・・。それは、王という存在に依存した理想でしかなかったというのに・・・」
「紫苑姫・・・?」
意味がわからず首をかしげる夕霧に、紫苑は微笑む。
「夕霧、いつまでもここにいては危ないわ。早くお逃げなさい」
「そ、それなら、紫苑姫もご一緒でなければ私は・・・!!」
「私はここから逃げないわ。だって、王はここで風蘭と戦うのよ?それなのに、王妃である私が逃げるなんてできないわ」
「そんな・・・」
てこでも動きそうにない紫苑の様子に、夕霧は絶望的な表情を浮かべる。
だからといって、紫苑の言う通りに夕霧ひとりで逃げようなどとは思えない。
「夕霧?早くしないと・・・・・・」
「やっぱり、まだこんなところにいた!!」
夕霧がおろおろと紫苑の説得を試みようとしたそのとき、紫苑がいる室の扉が勢いよく開いた。
「野薔薇ちゃん・・・」
「野薔薇さん!!」
紫苑は驚いた様子で、夕霧はほっとした様子で、室に勢いよく入ってきた人物の名を呼んだ。
「なんでまだここにいるのよ、ふたりとも?!まだあちらの室におろおろと控えていた王妃付けの女官たちは逃がしたわよ?ほら、夕霧、ぼぅとしていないで」
てきぱきと指示をしていく野薔薇は、かつて秋星州で紫苑と共に遊んだ野薔薇そのものだ。
「・・・紫苑?クスクス笑ってないで、早く逃げるわよ?」
「なんだか、そんなしっかりした野薔薇ちゃんを見るのが久しぶりで懐かしくて」
「そんな呑気なことを。後宮に火が放たれたのよ?早くしないとこちらまで回ってきてしまうわ」
「火が?!」
夕霧が怯えて顔を上げる。野薔薇は真剣な顔で頷き、紫苑と夕霧を交互に見た。
「だから早く逃げないと。今なら大丈夫よ、早く」
立ち上がり、紫苑の腕を引く野薔薇に、紫苑は腰を上げる様子もなく首をかしげて彼女に尋ねた。
「野薔薇ちゃん、どうしてここに来たの?双大后さまは・・・?」
「双大后さまには側女の花霞さまがいらっしゃるから大丈夫。だからほら、紫苑も立って」
ぐっと野薔薇が紫苑を立ち上がらせようと腕を引くが、それ以上の力で紫苑が抵抗した。
「紫苑・・・?」
「行けない。私は逃げることはできない」
「なんで?!」
「私は芍薬さまの妃だもの。芍薬さまが戦場にいらっしゃるのに、私だけ逃げるなんて、できないわ」
「紫苑・・・・・・」
野薔薇の顔が少し青ざめる。
あまりにも彼女が予想していた展開通りで。
「紫苑、それは芍薬陛下もそう望んでいらっしゃるの?陛下は、逃げろとおっしゃったんじゃないの?!」
「それは・・・・・・」
野薔薇の言葉に、紫苑は口ごもる。
あの日、芍薬が初めて紫苑の室を訪れたとき、去り際に彼は言ったのだ。
「これから、風蘭が水陽にどのようにして襲撃してくるかわからない。だけど、君は逃げなさい、紫苑。風蘭の性格なら、王妃である君を捕えることはあっても、害を与えたりはしないはずだから。だから、身の危険があったら逃げなさい」
芍薬は確かにそう紫苑に言った。
だが、彼女はそれに従うつもりはない。
なぜなら・・・・・・。
「私は芍薬陛下の王妃よ?もし・・・・・・もしも陛下が敗れることがあったら、私も・・・」
「紫苑!!」
野薔薇が絶叫するかのように叫ぶ。夕霧も目に涙を浮かべて首を横に振っている。
けれど、紫苑は決めていた。
紫苑は、芍薬の王妃だから。
王亡きあと、どうして生きていられよう?
それが例え形だけの夫婦であったとしても、紫苑は王妃として自らがあるべき末路を決意していた。
それは、野薔薇が危惧したように、真面目な彼女だからこその決意。
唇を噛みしめ、野薔薇と夕霧を見上げる紫苑の目には、固い決意が垣間見えた。
「紫苑・・・」
言うべき言葉が見つからず、野薔薇が困ったように立ち尽くす。
だからとはいえ、彼女を置いて逃げるなどできるはずがない。
野薔薇も夕霧も、戦火はすぐそこまで来ているというのに、紫苑を立ち上がらせるための言葉が見つからなかった。
最後まで王妃であろうとする彼女の誇りと決意を傷つけたくなくて。
「やっぱり!!」
そんな3人がいる室内に、新たな声が加わった。
驚いて振り向けば、そこには武装した少女が立っていた。
野薔薇と夕霧は、咄嗟に紫苑を庇うようにして侵入者を睨み付ける。
「あなたは、誰?!」
「あたし?あたしは・・・・・・あ~・・・そうね、紫苑姫を助けに来たってところかしら?」
「紫苑姫を?!女月貴妃さまを捕えに来たと言うの?!」
野薔薇が勇んで紫苑を背に庇って、武装した少女に尋ねる。
だが、野薔薇の剣幕など気にもとめぬ様子で、少女は肩を竦めた。
「ま、確かに捕えなきゃならないわね。まずはさっさと逃げてもらわなきゃ」
そう言いながら近寄ってくる少女に、紫苑はきっぱりと言い返した。
「私はここを離れません。私は芍薬王の王妃です。私だけが逃げるなんて、できません」
「・・・何て言うか、本当に想像通りの発言してくれるわね」
紫苑としてみれば決死の思いで告げたというのに、その武装した少女にはなぜか笑われてしまった。
しかも、この少女の声を、紫苑はどこかで聞いたことがあるような気がした。
いつだったか・・・どこでだったか・・・・・・。
「これを預かってきたの」
紫苑が記憶を手繰り寄せていると、少女は懐から一通の文を取り出した。即座に野薔薇が前に出て受け取る。
「・・・これは・・・・・・?」
「羊桜 木蓮からの文よ」
野薔薇の問いかけに答えた少女の口から飛び出した人物の名に、紫苑は驚いて見つめ返す。
そして、木蓮の名に驚いたのは紫苑だけではなく、野薔薇や夕霧も同じだった。
「あら?そんなに驚くこと?でも、木蓮が風蘭の友達だってのは知ってたんじゃないの?」
文を野薔薇に託しながら、少女は笑う。
この声、話し方、やはり聞いたことがある。
「木蓮殿は風蘭の味方に・・・?」
「そうね、そうなるわ。でも、それをあなたに渡してほしいと頼まれたのよ、紫苑姫」
「これを・・・?」
野薔薇から受け取り、紫苑は木蓮の文を握りしめる。
この字は木蓮の字だ。
この少女は嘘をついていないのだろう。
「なぜ・・・木蓮殿ではなく、あなたがここに・・・・・・?」
自分でもおかしなことを尋ねたものだと、紫苑は思った。
王妃である紫苑を捕えるために来たのだから、この少女であろうとなかろうと、誰であっても同じことなのに。
けれど、直感で、紫苑はそう尋ねた。
なぜ、「あなた」がここに来たのかと。
既視感を覚えるためかもしれなかった。
すると、少女はこの状況下にも関わらず、クスクスと笑い始めたのだ。
「木蓮は文官だから戦力にはならなかったの。だから、武人であるあたしにそれを託したの。あたしがここに来たのは・・・あなたにもう一度会いたかったからよ、紫苑姫」
最後の優しい呼び掛けに、はっと紫苑は記憶を手繰り寄せた。
そう、彼女はかつて、紫苑の傍にいたのだ。
紫苑を励ましてくれた、「同じ立場」の少女。
「・・・・・・まさか・・・雲間姫・・・・・・?」
「え?!姫?!」
紫苑の呟きに、野薔薇と夕霧が驚いて少女を見返す。
少女は、悠然と紫苑に笑い返した。
「お久しぶりね、紫苑姫。王妃となる夢が叶ったようで何よりだわ」
「雲間姫・・・・・・。本当に雲間姫でいらっしゃるのね?!でも、なぜあなたが武人に・・・?」
「それは、今は話せないわ、紫苑姫。でも、あなたにもう一度会えてよかった」
少女はずいずいと紫苑に近づいてくる。
野薔薇も夕霧も、この少女が姫だと知り、思わず道を開けてしまう。
姫と呼ばれるのは、貴族本家の娘だけだからだ。
少女はそこを横切り、すっと指先で紫苑の顎を持ち上げた。
そうすることで、逃げようもなく、紫苑と少女の視線が絡む。
「ねぇ、紫苑姫?王妃となる夢を叶えてどうだった?好きでもない男に嫁いで、何かあなたは変わったかしら?いえ、変えられたのかしら、王妃として」
「それは・・・・・・」
「妃審査の折、あなたは言っていたわね。『王を支える王妃となる』のだと。どう?よく知りもしない王を支える王妃になれた気分は?」
試すのでも責めるわけでもない視線。
まるで、おもしろがっているかのよう。
「・・・雲間姫、あなたはわかっていたのですね。私のその夢は、王に依存したものであることを」
「支えられなければ立てない王など、あたしたちは求めていない。けれど、あなたはただ純粋にその夢を追いかけていたから、その可愛らしさが気に入っていたの。純粋で素直。風蘭と同じね」
「風蘭と・・・・・・?」
「風蘭も甘ったれなところもあるけど、どんなに苦境に追い詰められても、その純粋さと素直さを失わなかった。ずっと描いていた夢を、大願を果たそうとしている」
「ずっと・・・風蘭のそばにいたのですか、雲間姫?」
「まぁ・・・ね」
少女は、名を呼ばれるとくすぐったそうに苦笑する。
しかし、すぐさま表情を厳しいものに変えて、まっすぐに紫苑を見つめた。
「紫苑姫、風蘭には会いたくない?!」
「風蘭に・・・?でも・・・・・・私は・・・」
「ねぇ、紫苑姫。あなたがここを離れないのは、芍薬王の王妃だから、と言ったわよね?」
「あ・・・はい・・・」
「王妃だから、戦場を離れず、もしも王が果てるときは共に果てる覚悟だと、そういうことよね?」
「・・・はい」
唇を噛みしめて頷く紫苑を、野薔薇と夕霧は痛切な表情で、そして、雲間姫と呼ばれた少女は冷たい表情で見返した。
「では、教えてくれるかしら、紫苑姫?それは、芍薬王が望んだこと?あなたがこうしてここに残ることで、何かが変わるの?あなたがここで死に果てることを、誰かに望まれているの?そうすることで、この国は変わるのかしら、王妃さま?」
からかう口調なのに、その目はちっとも笑ってなどいない。
しかも、野薔薇も夕霧も口にすることなどできなかった、紫苑の誇りを砕くような言葉。
紫苑が死ぬことで何か変わるのか、と。
桔梗のように何かしらの影響力も権力も持ち合わせていない紫苑がいなくなったところで、この国の何が変わるのか、と。
当の紫苑は、その辛辣な問い掛けに答えることができなかった。
あまりにも、真実過ぎて。
息を飲む紫苑に、雲間と呼ばれた少女は優しく言った。
慰めるように、説得するように。
「紫苑姫、あなたが死んで変わることがなくても、生きて変わることはあるのよ」
「生きて・・・変わることが・・・・・・?」
「そう。例えば、このふたりが泣いて喜んだり、ね」
少女の言葉に、夕霧はつられて何度も首を縦に振ったが、野薔薇はなんだか気に食わなくて、そのまま黙って立ち尽くしていた。
紫苑はゆらゆらと瞳を揺らす。
雲間姫が言うことは正しい。
紫苑は、ただ「王妃だから」という自らの誇りを守るためだけに意地になっていたに過ぎない。
ここで紫苑が死んでも、きっと何も好転するものはない。
だが、生きていれば変わるのだろうか・・・変えられるのだろうか・・・・・・。
「王妃だから、ここで王と運命を共にするというのなら、何も変わらないわよ。『王を支える王妃になりたい』という夢と。結局、王という存在に依存した形になるのだから」
「それは・・・」
「自分の願いのために、自分の力で望みを叶えたいとは思わないの?自分だけの道を、拓こうとは?」
「私だけの・・・道・・・・・・?」
紫苑の顎から手を離し、今度はその手を紫苑の前に差し出し、少女は言う。
「死ぬ気でここに残っていたのなら、その命、あたしに預けてみない?あなたがあなたらしい道を見つけられるように、手伝うわよ」
「雲間姫・・・」
「椿よ」
「え?」
「あたしの本当の名前」
「雲間姫では・・・ないのですか?」
「まぁね。さぁ、どうするの?木蓮だって同じようにあなたのことを心配していたのよ」
少女に・・・・・・椿にそう告げられ、紫苑は握りしめていた木蓮からの文を開く。
それは簡略的な短い文。
けれど、紫苑に生きていてほしいという木蓮の優しさと力強さ、そして願いが伝わってくるものだった。
気づけば、頬に暖かなものがつたって流れ落ちていた。
そんな紫苑を見ながら、再度、椿は言った。
「この室に、『王妃であるあなた』を残して死んでしまえばいいわ。だから、あたしと一緒に、王妃でもなんでもない『あなた自身』が来てほしいの、紫苑。この国を変えるには、ひとりひとりが立ち上がらなきゃいけないの」
『紫苑姫』ではなく『紫苑』と呼び、椿は彼女を一個人として手を差し伸べる。
夕霧も野薔薇も、それに頷く。
そうして、紫苑は改めて気付く。
独り善がりな意地と自己満足のせいで、危うく周りのみんなを悲しませてしまうところだったと。
みんなに、心配をかけてしまった。
今ならまだ、挽回できるだろうか。
「・・・私にもまだ、できることは残っているわよね・・・?」
「もちろんよ。まだまだあるわ」
「じゃぁ、よろしくね、椿さん」
手をとった。
椿が差し伸ばした手を、紫苑はしっかりと握り返した。
宥めるように逃げることを促した野薔薇や夕霧の手ではなく、厳しい現実を示して叱咤した椿の手を。
それは、淡い夢の終わり。
紫苑は、新たな決意と覚悟を決めて、『王妃』の室を出た。
残るは1話です。
ラストを飾るのはやはり、彼です。