六章 連なる決意 五話
5、野薔薇の場合
大后である桔梗に仕える野薔薇が、幼なじみであり薬園師である楓に呼び出されたのは、朝廷も後宮も風蘭と芍薬の話題で持ちきりになっていた頃だった。
彼女は、楓と共有の秘密・・・・・・もとい、陰謀の影を追っていた。
野薔薇は楓に指定された室に向かうと、軽く扉を叩いてから入室した。そこで待っていたのは・・・・・・。
「楓兄、これは・・・!!」
「・・・俺が話すより、ご本人に話していただく方がいい気がしてね」
楓との約束の室に行けば、そこには楓ともうひとり、楓の上司であり筆頭侍医でもある、長秤 南天がいた。
驚きと当惑のためにその場に立ち尽くしたままの野薔薇に、南天はにっこりと笑いかけた。
「なるほど、貴女がわたしを見つけた女官ですか。今まで誰も言及してこなかったことに、あなたがたふたりはよくここまで辿り着きましたね」
堂々と円座に座ったまま、南天は野薔薇にゆったりとした口調でそう言った。彼女は現状がよくわからないまま立ち尽くし、呆然としていたが、いつの間にか楓が彼女のそばに歩み寄り、そっと肩を叩いた。
「驚かせて悪かったな、野薔薇。だけど、南天さまのお話を野薔薇にも直接聞いてほしかったんだ」
「わたしが貴女に興味があった、というのもあるけれどね。とりあえず、こちらに座ったらどうだね、野薔薇殿」
「・・・はい」
南天に薦められるがまま、野薔薇は南天の前に座った。
腕の傷、緑の襷、野薔薇が台所で見た人物の特徴を携えた者が、目の前にいる。
「貴女は、双大后の火女だと聞いたが?」
「はい、その通りです」
「では、貴女が抱えていたわたしへの不信を、桔梗さまもご存じかな?」
「それは・・・」
話していいものか、野薔薇は一瞬迷う。
ふと南天と目が合うと、彼の深い目の色に、野薔薇は吸い込まれるような錯覚を覚えた。
あらゆるものを内包し、甘受するかのような深い瞳。濃緑の色を携えたその瞳に、芍薬や芙蓉への殺意や裏切りを感じられず、野薔薇は覚悟を決めた。
「・・・はい。桔梗さまも御存じです」
「なるほど。桔梗さまも・・・」
なぜか笑いながら、南天は納得顔で頷く。不思議そうに見つめ返してくる野薔薇に視線を向けると、南天は口を開いた。
「わたしが現時点でお話しできることまでは、お話しいたしましょう」
南天の話を聞いてすぐ、野薔薇は彼女の主のもとに急いだ。時間はすでに夜分といっていい時間。
夕食も終えた桔梗に、本来なら火女である野薔薇が会うことは常識外。たとえ専属女官であったとしても、側女でもなければ、職務以外の用件で主に目通ることなど許されなかった。
けれど、今は違う。
特に、南天に関することでは、野薔薇は桔梗と面会することを特別に許されていた。
それを知っているのは、側女の花霞だけだが。
「あら、野薔薇?」
桔梗の室に向かう野薔薇の背に、聞き覚えのある声が呼び掛けられる。急ぐ足を緩め振り向けば、筆頭女官である淡雪がいた。
「こんな時刻にどちらに急いでいるのかしら?双大后さまのお食事も終えられたのでしょう?」
「あ・・・・・・はい。えぇっと・・・」
「・・・何か緊急のご用件かしら?」
急に険しい表情に一転して、淡雪が尋ねてくる。
これは桔梗にしか知られていない極秘事項。たとえ筆頭女官である淡雪であっても、気軽に話せる内容ではない。
とはいえ、火女である野薔薇が役目も終えたというのに桔梗の室に急いでいるのはあまりにも不自然。なにかあったのだろうと思うのは、当然のことだ。
どう答えようかと野薔薇が迷っている様子をじっと観察していた淡雪は、少し悲しそうに苦笑を漏らした。
「・・・双大后さまのご命令かしら?」
それは、野薔薇が務め以外のことで動き回っていることを指すのか。もしくは、こうして今、桔梗の室に向かっていることを指すのか。
どちらのことを指して「双大后の命令なのか」と淡雪が尋ねたのか野薔薇にはわからなかったが、素直に首を縦に振った。
「・・・はい」
「そう。あまり、危ないことはしないようになさい」
それだけ言うと、淡雪は野薔薇を追い越して、その場から去ろうとした。
「淡雪さま・・・・・・!!」
去ろうとする淡雪をなぜか野薔薇は呼び止めてしまう。なぜそんなことをしたのか野薔薇自身にもわからなかったが・・・・・・いや、きっと、淡雪が一瞬見せた悲しそうな瞳が野薔薇にそうさせたのだと、彼女は瞬時に自覚した。
「・・・どうしたのかしら、野薔薇?」
「あの・・・あの、もしも風蘭公子が水陽を襲ってきたら・・・私たちはどうなるのでしょうか・・・・・・?」
思わず呼び止めたのを機会に、野薔薇はそんなことを淡雪に聞いた。
「もはやすでに、『もしも』という事態ではなくなっています。風蘭公子は必ず水陽に・・・ここに戻られます。芍薬陛下と玉座をめぐって争うために」
「そんなことになったら・・・!!」
「どんな事態になろうと、私たちは私たちの職務を全うするだけですよ、野薔薇。私たちの務め・・・王族の方々をお守りするという務めを」
「ですが、万一風蘭公子が玉座につくことになったら、女月貴妃はどうなるのでしょうか・・・?!」
常に胸の内で渦巻いている、不安。
風蘭公子が王となったとき、現王の妃である紫苑は、どうなるというのだろうか。
淡雪は遠くに視線を向けてから、しっかりと野薔薇を見つめ返してきた。
「王を玉座から降ろし、覇王となった王族は風蘭公子が初めてではありません。以前にも似たようなことはあったと史書には残されています。そしてそれによれば、玉座を奪われた王の妃は・・・」
「どうなったのですか・・・」
「よくて追放、ですね」
よくて追放。
では、最悪の場合には・・・・・・。
「う・・・・・・そ・・・・・・」
「妃が王の敵をとろうとするかもしれない。その懸念がある場合には、やむを得ない事態になることもある、ということです。けれど、風蘭公子の性格上、そんなことにはならないと思いますが・・・」
だが、それは淡雪が知っている風蘭公子のままでいてくれたら、という話だ。
こうして反逆者となり、その同志を得て、果たして変わっていないと言い切れるだろうか。
風蘭公子がたとえ紫苑を見逃しても、周りがそれを許すだろうか・・・・・・。
「・・・あなたは後宮に出仕を始めた頃から、女月貴妃にはご執心だったわね。大丈夫。あの方をお守りするのも私たちの役目。全力でお守りしましょう」
野薔薇を安心させるように、淡雪は軽く彼女の背を叩いてから立ち去った。
野薔薇はそんな彼女の背中をただ立ち尽くしたまま見送るしかなかった。
考えたくもなかった事実、知りたくもなかった真実に衝撃を受けて。
しかし、知らなければ、もっと後悔したに違いない。
彼女は彼女の覚悟を決めて、当初の予定通り桔梗の室に足を向けた。
桔梗の室では、すでに他の女官たちは退室しており、そこには花霞と桔梗のふたりしかいなかった。
事情を知っているのか、花霞は突然野薔薇が桔梗の室を訪れても、咎めることなく取り次いでくれた。そして桔梗の待つ室まで案内すると、花霞はその場から去った。
彼女を見送るように扉を見つめたままの野薔薇に、桔梗はそっと声をかけた。
「なにかわかったのですか、野薔薇?」
「・・・突然の訪問をお許しください、桔梗さま。じつは、先程典薬所所長である、長秤 南天さまにお会いしていたのです」
「まぁ、南天殿に?」
本当に意外だったのだろう、桔梗は珍しく瞠目して野薔薇を見返した。
「以前お話しいたしました薬園師、長秤 楓が南天さまにお会いできるように室を用意してくれていたのです」
「そう・・・。それで、南天殿はなんて?」
「・・・南天さまがお話しできる範囲まではお話しくださると、そうおっしゃって・・・お話しくださいました」
「ということは、芍薬陛下の食事に毒を盛っていたことを南天殿は認めた、ということね?」
桔梗が意味ありげな笑みを浮かべて野薔薇に確認してくる。その意図がわからぬまま、野薔薇は首を縦に振った。
「それで?南天殿はなんと?」
「・・・やはり、芙蓉陛下にも毒を盛っていらしたことは認めていらっしゃいました」
「・・・そう。それで、なぜ、そのようなことをしたかは?」
桔梗の問い掛けに、野薔薇は正直に答えていいか迷ってしまう。唇を噛んで俯く彼女に、桔梗の柔らかな声が降ってくる。
「野薔薇。わたくしにすべてを報告するためにここに来たのではないのかしら?」
その中に確かに感じられた桔梗の覚悟と決意に、野薔薇は顔を上げて答えた。
「南天さまが芙蓉陛下、芍薬陛下に毒を盛ったのは・・・・・・芙蓉陛下のご命令だとおっしゃっていました」
それを聞いたとき、野薔薇は俄には信じられなかった。南天の狂言ではないか、と。
だが、彼は偽りのない瞳でまっすぐに野薔薇を見返して言ったのだ。
「わたしの妹を芙蓉陛下の妾妃としてくださる代わりに、あの毒を芙蓉陛下に盛ってほしい、と陛下ご自身がおっしゃいました。あれは瞬時に死に至るものではありませんが、蓄積されていけば、必ずや身体中の機能を低下させ、いずれは・・・」
そう言って、初めて悔いるような表情を浮かべて俯いた南天は、すぐにまた顔を上げた。
「理由は、陛下はおっしゃいませんでした。ただ、芙蓉陛下と、そして、陛下の跡を継いだ新王に毒を盛ってほしい、とだけ・・・・・・」
南天が野薔薇にそう説明した通りのことを、彼女はそのまま桔梗に話した。芙蓉の正妃であった、桔梗に。
その桔梗は、ただ黙って野薔薇の話を聞いたあと、そっと呟いた。
「・・・そう。やはり、そうだったのですね」
「・・・『やはり』ですか?では、桔梗さまは気づいていらしたのですか?!」
桔梗がもらした衝撃的な呟きに、野薔薇は驚きを隠せない。すると、桔梗は話していた内容とは裏腹に、優しく穏やかな瞳で野薔薇を見返した。
「もしや、とは思っていました。芙蓉陛下のお考え通りなら、長秤一族も利用しなければならないでしょうから」
「芙蓉陛下の・・・・・・お考え・・・?それは・・・」
「それは、わたくしと陛下との秘密よ、野薔薇」
くすっと少女のように笑う桔梗に、野薔薇は笑い返すことなどできなかった。
「このような事態に・・・そんなお戯れを・・・・・・」
「あら、ふざけているわけではないわ」
すぅっと空気を冷ややかなものに変えて、桔梗は続ける。
「わたくしは今も、芙蓉陛下のために、ここで芍薬陛下を見守っているのですから。ふざけているわけでも、戯れているわけでもないわ。ただ、話すことはできない。それだけだわ」
凛とした空気に切り替わった大后、桔梗に野薔薇は息を呑みながら問いかける。
「それは・・・・・・側女である花霞さまであっても・・・ですか?」
「ええ、そうよ」
迷いなく答える桔梗。まるですべてを見越し、何もかもを見透しているかのような彼女に、野薔薇は聞かずにはいられなかった。胸に渦巻く不安の種を。
「教えてください、桔梗さま・・・。もしも風蘭公子が玉座を得て・・・桔梗さまが見守っていらっしゃる芍薬王が敗れたら・・・・・・その妃である女月貴妃はどうなるのですか・・・?」
前王の妃であった桔梗。
後宮を統べる統率者。
全てを覚悟し、見透しているもうひとりの、王。
すがるように桔梗を見る野薔薇に、先程とはまったく異なる冷ややかな瞳を向けて、彼女は答えた。
「万一風蘭が王となったとしても、女月貴妃をどうするかは風蘭次第。どうなるかはわたくしではわからないわね。けれど・・・」
その先に続いた言葉を聞いたことを、野薔薇は悔やんだ。予想や不安のひとつであったとしても、考えたくは・・・・・・想像したくはなかったから。
そんな結果を得るために、紫苑も野薔薇も水陽に、後宮に来たわけではなかったから。
しかし、桔梗の言葉は、ひどく冷たく野薔薇の耳に残った。何度も反芻して。
「けれど、もしも芙蓉陛下が反逆者に玉座を奪われるようなことになったら、わたくしならば自害するでしょう。陛下を裏切った者が統治する世に、存在する意味はないから」
真面目な紫苑。
現王の正妃として、彼女も桔梗と同じ考えを抱いているのではないかと、野薔薇の中で不安が募るばかりだった。