六章 連なる決意 二話
2、楓の場合
中部典薬所の薬園師、長秤 楓。
彼は今、悩んでいた。
とはいえ、お年頃の悩み、というわけではない。それよりもはるかに重大かつ慎重を要するもの。
彼の上司であり、筆頭侍医、典薬所所長でもある、楓の尊敬すべき同族、長秤 南天。
その南天が、筆頭侍医という、王族の、ひいては王の体調管理する立場でありながら、その王に毒を盛っているのだ。
今もまだ。
それが知れれば、王に仇為す謀反とされる。
それどころか、長秤一族は11貴族から追放されるに違いない。
楓にはわからなかった。
なぜ、南天がそんなことをするのか。
執政官に脅されたのだろうか。
まさか、自らの意志で?だが、何故?
王を死に追い込んだところで、南天に・・・・・・長秤一族にすら何の関係もない。
それなのに、何故、南天は王に毒を盛り続けているのか。二代もの王に。
「・・・・・・楓兄?」
懐かしい呼び方で呼ばれ、はっと楓は思考の海から浮上した。声のした方向に視線を向けると、そこには心配そうにこちらを見つめる、幼馴染みの姿があった。
「・・・野薔薇・・・」
「どうしたの、こんなところで?」
後宮の廊下でぼんやりと佇んでいる楓の姿が意外だったか、野薔薇が心配そうに彼の顔を覗き見る。そんな彼女の仕草に、思わず楓は苦笑をもらしてしまった。
「いや、なんでもないよ」
くしゃり、と野薔薇の頭を撫でながら楓はそう返したが、彼女にはすでにわかっていたようだった。
「・・・南天さまのこと・・・・・・よね?ごめんなさい、楓兄まで巻き込んでしまって・・・」
「何言ってるんだ?南天さまは俺と同じ長秤一族。俺とは無関係なことじゃないんだから、野薔薇が謝るようなことじゃない」
そして彼は、先程のように欄干に肘を置いて視線を遠くに投げ掛けた。
「でも、不思議なんだ。なぜ、南天さまがそんなことをしているのか。これが知れたら、謀反という騒ぎだけに済まないかもしれないのに。・・・もっとも、海桐花さまが風蘭公子を支持されたことによって、長秤一族は謀反一族にはなってはいるが」
楓も南天も分家の人間だ。
本家の・・・一族の当主である海桐花の決定事項に異を唱えることなどできない。
だが、その事実が朝廷から後宮に知れ渡ってから、みなの長秤一族を見る目が変わった。
それでも、医官一族として王族や多くの貴族、民に尽くしてきた実績があったから、楓たちへの不信感は少しずつ薄れていった。
・・・そう、それは、長秤一族が長年築いてきた信頼。
たとえ当主が謀反を示しても、こうして後宮で今まで通り働けるのはその信頼のためだ。
同じように風蘭公子に加担した、霜射、瓶雪一族の官吏は要職にいる者たちを除いて忽然と姿を消してしまった。
官吏として残っていても、改革派という派閥をつくって若者達の士気を煽るという危険な行為に及んでいたりする。
そういう意味では、これは一族の性格かもしれないが、長秤一族はおとなしく淡々と変わらぬ日々を過ごしていた。
・・・と思っていた。
まさか、風蘭公子が反旗を翻すはるか前から、南天が王に毒を盛っているなど知らなければ。
「・・・南天さまには、聞いたの?」
難しい顔をしてうつむく楓に野薔薇がそっと尋ねる。楓はそれに対して力なく首を横に振ることで答える。
すると、野薔薇がしばらく何かを思案するような表情を浮かべた後、硬い声で彼に言った。
「私、これから火女のお務めで台所に行くの。楓兄も・・・一緒に来る・・・?」
「台所に・・・」
そもそも、南天が王の食事に毒を盛っていることに感づいたのは野薔薇だ。
彼女は火女として、王族の食事が用意されている台所に出入りしている。そこで、あまりにその場に不似合いな南天の姿を確認したのだ。
今もまだ、王の食事に毒を盛るということが続いているのであれば、台所に南天は現れるはず・・・・・・。
「・・・・・・一緒に行かせてくれ」
この時間帯の台所は戦場だ。
王の食事を筆頭に、王族の食事を時間通りに配膳するために、火女たちはそれぞれが自分の仕事に夢中になる。
だからこそ、今まで誰も気付かなかった。そこにいるはずのない人物がいたとしても。
そんなことにかまけている余裕はなかったから。
野薔薇はいつも通りに何食わぬ顔で台所に入る。その後ろに楓がこっそりとついてきていることに、果たして何人の火女が気付いているだろうか。
野薔薇は双大后の火女。大后の膳は台所の奥で用意されている。もちろん、王のものも。
野薔薇の後ろを歩く楓は、珍しさできょろきょろと左右を見渡しながら歩いていたが、前方を歩く野薔薇がちらりとこちらを顧みたので、身体中に緊張を走らせた。
野薔薇の視線の先。
火女とわずかばかりの采女所の官吏たちがいるばかりの中で、ひとつの膳にかかりきりになっている男の背中。
緑の襷で袖をくくっている。
その腕に見える、傷。
楓は息を飲み、覚悟を決めてから、ゆっくりとその人物に向かって歩き始めた。
野薔薇がそれを見守っているのが刺さるような視線でわかる。楓は、ためらうことなく男の背中に小さく声をかけた。
「・・・南天・・・さま・・・・・・?」
びくり、と男の肩が揺れた。そしてゆっくりと振り向いたその顔は、無表情だった。
だが、紛れもなく楓の知る南天であったことが、知りたかったような知りたくなかったような複雑な思いを抱かせた。
だが、もう後戻りはできない。
「・・・君は?」
「典薬所所属、薬園師長秤 楓と申します。・・・少し、お話をしてもよろしいですか?」
楓がそう尋ねれば、南天は威圧的な視線を彼に向けながら、たっぷり三拍無言のまま、やっと口を開いた。
「・・・よろしい。ここを出た先にめったに誰も使わぬ室がある。そこで待っていなさい」
「・・・南天さまは・・・?」
「わたしは用を済ませてから行くとしよう。さぁ、行きなさい」
有無を言わせない促しに、楓は足を動かすしかなかった。野薔薇が心配そうにこちらを見ているのを感じたが、彼はあえて視線を合わせなかった。
野薔薇まで巻き込みたくはなかったから。
南天が指示した室はすぐにわかった。
台所を出てすぐに、本当にめったに人が使うことのなさそうな小さな少し埃っぽい室があった。
そこで南天を待つ間、楓はひどく後悔していた。
暴こうとしているものの重さ、重大さ。
楓の行動は軽率ではなかったろうか。
本当にこうするしかなかったのだろうか。
もっといい方法があったのでは。
別に、楓が南天を問い詰める必要はなかったのでは。
悪事、謀反を取り締まるのは刑部の職務。
・・・いや、南天は楓と同じ長秤一族。
一族の汚名は同族が暴かなくては。
後悔する思いと決意する熱い思いが、振り子のようにぐらぐらと揺れていた。
こんなことに巻き込まれたくなかった。
いや、知るべきだったのだ。
だが、楓だけでなにができる。
南天に真実を聞かずして何もできはしない。
何度も繰り返す自問自答。無限にも思われたそれは、扉の叩く音で中断された。
何も言わず沈黙のまま入室してきたのは、筆頭侍医、長秤 南天。
楓もまた沈黙のまま南天を迎えた。しばらく無言で互いを見つめあっていたが、楓はその重苦しい空気とこれから起こるであろう展開に、心臓が早鐘のようにせわしなく高鳴っていた。
その息苦しいほどの沈黙を破ったのは、南天の方だった。
「長秤 楓殿・・・・・・といったね。さて、わたしに話とは何だろうか?」
目元に皺を寄せ、ゆったりと微笑む姿は一見好好爺に見えるのだが、笑っていない瞳で楓を探るように見つめている表情は、震撼するものがある。
「・・・まず、伺いたいのは・・・・・・」
自分でも驚くほどの掠れた小さな声が楓の口から出てきた。それほどまでに緊張しているということか。
「なぜ、南天さまは台所にいらしたのですか?」
「王の食事に毒が盛られていないか検分するためだよ」
「ですが・・・王族の食事の毒味役は他の中部の人間が務めているではありませんか。なぜ、南天さまのほどの方が・・・」
「大切な陛下の食事だからね。自らで確かめておきたいのだよ」
知らなければ、言い含められてしまいそうな回答。
だけど、楓は知っている。
南天こそが王の食事に毒を盛っていることを。
「君の話というのはそのことでいいのかな。それでは、わたしは芍薬陛下に呼ばれているのでこれで・・・・・・」
悠々とした動きで立ち去ろうとした南天の背中に、楓はすぐさま問いかけていた。
「白露山にだけ生えている、ある薬草をご存じですか」
「・・・聞いたことはあるね」
こちらを振り向かず、楓に背中を向けたまま南天は答える。
「不思議なことにその薬草が咲かす花は、人にとって毒となってしまうのです」
「・・・ほぅ」
ちらりと南天がこちらに視線を向ける。構わずに楓は続ける。
「その薬草の花は白く、細かく煎じてしまうとさらさらとしていて塩のように見えるため、たとえば、塩の代わりに食膳に振りかけてあっても気づきにくいのです」
「・・・なにが言いたいのかな、楓殿」
とうとう南天が振り返り、楓と視線を合わせた。
ここまで来たら引き返せない。
冬星州白露山という極寒の地にしか生えない、薬草。正しく使えば薬草となるが、楓が言ったように、その薬草が咲かす白い花は毒となる。
野薔薇が以前、楓に持ってきた粉もその薬草の花の粉末だった。
じわじわと神経を壊死させ、心臓を止めていく毒。
ゆっくりと相手を追い詰めていくもの。
「・・・・・・以前、あなたがその薬草の花の粉末を王の食膳に振りかけているのを見ていた者がいるのです」
「どうして、その薬草の花だと思ったのかな?」
「・・・あなたが振りかけた粉末をその人物がわたしのもとに持ち帰ってくれたからです」
もう、南天は笑ってなどいなかった。狡猾な表情をこちらに向け、次に楓が何を言うのかじっと待っているかのようだった。
「改めて、問います」
楓の声は震えていた。手も足も震えが止まらなかった。それでも、もう問わずには・・・真実を知らないままではいられない。
「南天さま、あなたは王に毒を盛っていらっしゃいませんか?」
長い沈黙。
南天は表情を一切動かさず、楓も表情も指一本も動かすことはできなかった。冷や汗だけが吹き出してくる。
楓の問いに、南天はどう答えるというのか。
「・・・もしも、『そう』だと答えたら、君はどうするつもりかね、長秤 楓殿?君もまた、わたしと同じ一族、同胞ではないか」
見逃せというのか。つまり、認める、と?
「どうしても君が一族を窮地に追いやりたいと思うのなら、わたしは君の上司としてあらゆる権限を行使するつもりでいるが?」
「一族を・・・き、窮地に追いやったのは・・・あなたではありせんか・・・!!」
喘ぐように楓は言い返すが、すでに南天の圧倒的な存在感に圧されていた。それを見越してか、南天は目を細めて楓を見下ろす。
「わたしが一族を窮地に?・・・いや、そうではない」
「ですが、あなたは先王の御代より食膳に毒らしきものを盛っていらしたという証言まであるのです。王の暗殺は大罪のひとつ。いくら筆頭侍医であっても、大獄は免れませんよ?!」
しかも、これが明るみに出れば、南天だけの咎ではなく、一族全体の問題になる。
当主である海桐花が、秋星州にいる長秤一族たちの賛意を得て風蘭公子につくことになったことにより、水陽にいる長秤一族の者たちの肩身はただでさえ狭いというのに、南天のことが知れればたちまち一族は追放されてしまう。
いや、追放どころか潰される可能性だってある。
とはいえ、南天のしていることを見逃すことはできない。ならば、尋ねるしかない。
なぜ、彼が二代にも渡って王を暗殺せんとしたのか。
「蠍隼執政官に・・・脅されているのですか・・・?」
執政官でなくとも、誰か、王を殺そうとしている誰かに脅されているのではないかと案じて、楓は南天にそう問いかけたが、南天はそれを鼻で笑った。
「蠍隼執政官?あんな私欲にまみれた若造にわたしが脅されることなどない」
「・・・では、南天さまご自身の意志で・・・・・・?」
「・・・誓いだよ、遠い昔に、交わした約束と、誓い」
ふっと遠くを見つめる瞳のまま、南天は言う。
「誓い・・・・・・?それは、誰との・・・?」
先程よりも気迫が薄れた南天に、楓はそっと聞き返す。すると、南天はどこかすっきりしたような笑みで、楓に告げた。
「楓殿が察しているように、わたしは白露山の薬草の花を煎じて、芙蓉王と芍薬王の食膳に混ぜている。・・・神経麻痺の効力を知っていて」
息を呑み、口を開いて南天に抗議しようとした楓を片手で制して、南天は簡潔に、そしてはっきりと言った。
「芙蓉王と芍薬王の食膳にあの毒を盛ることをわたしに命じたのは、他でもない、芙蓉陛下ご自身なのだよ」
そして、南天はゆっくりと視線を遠くに投げ掛ける。
「これは、芙蓉陛下との遠い日の約束と誓いなのだよ、楓殿」
南天の告白が、楓にはひどく遠くで聞こえた。