三章 渦巻く暗躍 十五話
15、雨夜の途中で
嵐の夜だった。
風蘭も連翹も、椿も石榴もこの激しい豪雨にしたたかに打たれ、全身がずぶ濡れだった。だが、彼らはそんなことを気にしている余裕などなかった。
「・・・・・・なぜなんだ・・・!!なんで・・・!!」
風蘭の悲痛な叫びは嵐に消し去られる。
「なぜだと?今更そんなこと、聞かなくてもわかるだろ?」
手に光るものを握り締めた男が嘲笑する。
嵐で足場がぐらつく。その場にいた誰もが、そこから体制を崩さぬよう、隙をつくらぬように、相手と対峙していた。
これは、訓練なんかじゃない。
少しでも気を抜けば、隙をつくれば命を奪われる闘い。
遠くで雷が鳴る。
それを合図に再びあちらこちらで剣を交える音が響き渡る。
まさに、死闘。
「風蘭!!死ぬんじゃないわよ!!」
椿の怒声が聞こえてくる。
「・・・・・・わかってる!!」
彼は、やっとそれだけ答えた。
わかっている。ここで死ぬわけにはいかない。
風蘭にとって、この嵐の夜は何年経って思い起こしても、背筋が凍るような、そんな夜だった。
事の発端は、数日前に遡る。
風蘭が冬星州へやってきて、気付けば早くも3ヶ月になろうとしていた。春の季節も過ぎ、今はさんさんと降り注ぐ太陽の日差しが体力を奪う夏の盛り。死者や浮浪者が湧き出るほど混在しているこの州では、腐敗臭とも死臭ともいえぬ悪臭がとりまいていた。
風蘭が身を寄せている氷硝もまた、その例外ではない。
夜になればどこよりも明るく華やかな活気を見せるこの街も、昼は閑散とし、夏だというのにまるで冬眠中の森のようだった。そのくせ、町中にはなんともいえぬ悪臭もたちこめている。
「夏は嫌い。いろんな臭いが混じってる」
「夏だから、じゃないだろう。一年中そうだけど、夏だとそれが顕著に現れるだけだ」
窓際でぼやいた椿の言葉に、風蘭がむっとしたように答える。そんな彼の様子に椿は肩をすくめ、再び窓の外を眺める。
最近の風蘭は少しいらいらしていた。夏の暑さのせいではない。
焦れていたのだ。
冬星州州主、霜射 柘植からの連絡がまったくないことに。
『闇星』の訓練の最中、柘植と親しいという瓶雪 黒灰にもそれを尋ねたことはあったが、まだ柘植は忙しいらしいという言葉だけで取り繕われた。
冬星州へ来て3ヶ月。
風蘭は想像を超える光景に何度も出会った。そのたびに、胸を締め付けられるような思いを何度もした。
自らの認識の甘さ、気楽さを痛感した。椿が何度も、「冬星州はさびしいところ」と言うのが、ここへきてやっとわかった。
風蘭にとって、やはりなんとかしたいと思うのは、この州で苦しむ貧民だった。食べるものがないどころか、寝るところ、暮らす場所さえ奪われた民たち。自分たちが生き残るために、他者を死へ追いやることも厭わない。だが、誰が彼らを責められる。彼らは生きるために、生き残るためにそうしているのだ。そこに、道徳心など求められるはずもない。
冬星州の民たちの心は荒み、病み、貧しかった。
椿は、いつまでもなにもしてくれない州主、柘植の責任だと怒るが、果たしてそうだろうか。
たしかに、柘植にも責任の一端はあるかもしれない。
だが、最大の責任は、この国を背負う国王にあるのではないか。
けれど、この冬星州を救うためにすべきことは、国王や州主への責任の問いかけではなく・・・・・・・・・。
「坊ちゃん、瓶雪さまがいらっしゃいました」
連翹が扉の外で風蘭に告げる。それに答えながら、ふと、風蘭はここに来てからの連翹の動向も気になった。
宮城にいる間は、あんなにいつもくっついて歩いてきた連翹だったが、冬星州に着いてから度々姿を見せないときがある。そんなときはたいていいつも黒灰のそばにいたりするのだが、なにをそんなに一緒にいる必要があるのか、風蘭には何も教えてくれない。
軍の訓練に一番積極的なのも連翹だった。黒灰率いる私軍の連中とも仲良くやっているようだ。風蘭は専ら椿と共に『闇星』側にいることが多いので、あまり私軍と関わる機会も多くはなかった。
「いかがされましたか?」
じっと考え込む風蘭を、いつのまにか入室していた連翹が心配そうにたずねた。それにはっとした風蘭は、軽く首を振った。
「いや、なんでも。瓶雪殿をお通ししてくれ」
「かしこまりました」
室に入ってきた黒灰は、いつものにこにこした笑顔とその熊のような体格をゆすりながら風蘭の傍に座った。
すでに風蘭は黒灰に、いちいち彼と対面するたびに礼をとる必要はない、と断言している。風蘭はこの州に『左遷』という形で流されている上に、今の風蘭には何の権力もない。11貴族のうちの当主である黒灰が、風蘭に跪く必要などない、というのが彼の持論だった。
だから、今日も黒灰は軽く会釈をしただけで、風蘭の前でどかっと座り込んだ。風蘭もその傍に座る。
「今日はいかがされたか?」
「風蘭さまがお待ちのものが、来ましたよ」
にやり、と笑った黒灰の言葉の意味がわからず、風蘭は首をかしげる。だが、すぐにそれを察した。
「まさか・・・・・・!!」
「えぇそうです。柘植がやっとこさ、風蘭さまを寒昌にお連れしろ、と言ってきましたよ」
「俺はてっきり、もう忘れ去られた存在なのかと思ったよ」
やっと柘植に招かれたことで安堵する風蘭を椿はねめつける。
「なんで州主に呼ばれてそんなうれしそうにできるわけ?この州を、街を、こんな状態にしたのは州主に他ならないのに」
「それは違うぜ、椿」
息巻く椿をなだめるように、優しく黒灰が諌めた。
「柘植がこの状態を招いたわけじゃない。柘植が州主の責務を継いだそのときにはもう、この州はこんな状態だったんだ」
「でも、それをそのまま放っておいたのは州主だわ。親分はそんな州主をかばうの?!」
「かばっているわけじゃないさ、椿。けど、柘植が苦しみながらここまで来たことも知ってるから、椿の発言に賛成できないだけだ」
静かに、けれど力強くそう言う黒灰の言葉には不思議と説得力がある。風蘭も頷きながら黒灰に同調する。
「俺も、霜射殿は冬星州の民を見捨てるほど酷な者ではないと思っている。だから、ちゃんと話をしておきたかったんだ」
「・・・・・・あたしには、自分の欲と出世のためなら、死んだ娘すら利用する卑怯者に見えるわ」
「自分の欲・・・・・・ね・・・」
椿の言葉を反芻し、少し風蘭は遠くを見つめる。だが、すぐに立ち上がって黒灰に告げた。
「霜射殿が寒昌に呼んでくれたんだ。一刻も早く出立するとしよう、瓶雪殿」
「そうおっしゃられると思っとりましたよ、風蘭さま。氷硝から寒昌までは少し距離があります。船でお送りいたしましょう」
「船で?」
「そうです。ここ氷硝から寒昌までは大河が通ってるんですよ。船で行く方が、馬車でちんたら行くより全然早い」
「・・・あたしも、寒昌まで行った時は小さな船で行ったわ」
椿も黒灰の発言にうなずきながら同調する。それでも不安げな表情を拭えないでいる風蘭を黒灰が笑い飛ばした。
「風蘭さまは船に乗ったことがおありではないのですか?!大丈夫、寒昌までの流れは緩やかですし、護衛もつけます。わりと大きな船で参りますので、揺れもさほどないでしょう」
「護衛?護衛など・・・・・・」
「いえいえ、つけさせていただきますよ。公子さまの旅路に万一のことあれば一大事。冬星州の反逆とすら言われかねませんからね」
黒灰の言葉に、風蘭がぐっと詰まる。黒灰はそれすら笑い飛ばし、風蘭の背中を押した。
「まぁ、ものの例えです。我輩の私軍のうちの何人かを護衛につけさせましょう。彼らは自ら風蘭さまの護衛をしたいと名乗り出てきた志願者たちですからね」
「そりゃありがたいことだ」
ため息混じりに風蘭がつぶやき、室を出ようとした。その背中に、椿が叫ぶ。
「あたしも!!あたしも一緒に行く!!」
「・・・椿?」
「あたしも、州主と話をしたい」
自分を見つめる椿の鋭い視線を、風蘭は柔らかく受け止めた。
「わかった。一緒に行こう」
そして扉を開けた途端、そこに立っていた人物に風蘭は瞠目した。
「・・・・・・石榴?なんでここに・・・?」
「公子さまが寒昌に行かれると聞きまして。一言申し上げておこうかと思いまして」
優美に微笑む石榴に、風蘭は怪訝そうな表情を浮かべる。
「・・・なんだ?」
「わたくしも共に寒昌まで参ります」
「石榴?!」「石榴姐さん?!」
黒灰と椿が同時に叫ぶ。
完全に問い返す機を失った風蘭は、驚いて目を見張るだけだ。
「・・・どうしてだ、石榴?」
「単純な理由ですわ、公子さま。王族の中で守りたいと思えるのは風蘭公子さま、あなただけ。ですが、王ではないあなたに『闇星』の護衛はつけられません。故に、『黒花』としてではなく、ひとりの女武人として公子さまをお守りしたいだけですわ」
「石榴、瓶雪殿が私軍を護衛につけてくれた。心配には及ばない」
きっぱりと断る風蘭に、石榴にしては珍しく憂い顔で首を横に振った。
「いいえ。・・・なんだか、いやな予感がするのです。どうしても、わたくしも同行しなければいけないような、いやな予感が・・・・・・」
「いやな予感?」
石榴は、国軍『闇星』を束ねる頭領『黒花』。そして、雅炭楼を支える妓女でもある。その彼女がここを離れてまで、風蘭を護衛すると言い張るのだ。「いやな予感がする」と言って。
「・・・・・・ふむ。『黒花』の勘はあまり軽視できませんな。どうでしょう、風蘭さま。石榴も共に連れて行ってはもらえませんかね?」
「別にそれは構わないが・・・・・・」
風蘭には特に断る理由もない。ただ、なにもそんな大人数で行く必要もないのではないかと思ったから、先ほどは断ったに過ぎないのだ。
「ありがとうございます、公子さま」
石榴は立礼だけして、礼を述べた。あまりにも物々しくなり始めた寒昌行きに戸惑い始め、ふと、風蘭と連翹は顔を見合わせた。
瓶雪 黒灰が用意した船は、彼がそう言ったように大型船だった。
そこに乗船したのは風蘭、連翹、椿、石榴に加え、黒灰の私軍20人あまりがいた。黒灰自身は、安々と氷硝を留守にするわけにもいかず、惜しみながらも風蘭を石榴たちに託した。
「ただでさえ船員もいて、石榴たちもいるのに、さらにこんなに護衛なんて必要なのか?!」
船の中のどこを見渡しても軍人であふれているその光景にため息をついて、風蘭がそうもらした。それを聞いているのは連翹だ。
「冬星州で坊ちゃんの命を絶対奪われるわけにはいけないのですよ。彼らは・・・・・・特に、瓶雪さまや霜射さまは、万一坊ちゃんの命がここで失われるようなことがあれば一族すべてが反逆者として貶められる可能性すらありますしね」
「・・・・・・それは、蘇芳の目論見・・・・・・か・・・・・・?」
悔しそうに言った風蘭の問いかけに、連翹は聡いことに答えない。
「坊ちゃん、あなたはなにがあっても死んではいけない。瓶雪さまや霜射さまのためにも、冬星州のためにも、星華国のためにも、そして・・・・・・桔梗様のためにも」
風蘭の顔を覗き込み、真剣にそう言う連翹に、風蘭も頷く。
「わかってるさ。俺は簡単に死んだりしない。それに、この州の民をなんとかして救いたいしな」
そう宣言し、風蘭は連翹に背を向けて、船の出立準備をしている船員のもとへ歩いていく。
その背中を見ながら、連翹は小さくつぶやいた。
「・・・えぇ、期待していますよ、風蘭さま・・・」
氷硝の街を出立して数日は、何事もない船旅だった。風蘭は共に乗船した軍人の何人かとも親しくなり、組み手などをしていた。何事もなく、平和に。
彼らの懸念などただの杞憂だったのだ、と誰もが安堵していた。
だが、突然気候が変化した。
嵐が来たのだ。
船旅に熟練しているであろう船員たちは、誰一人として風蘭たちに嵐の船上の心得を教えてはくれなかった。それどころか、嵐の前触れさえ、風蘭たちに知らせることはなかった。
当然、船上での嵐などの経験のない風蘭たちは慌てるしかない。
船がひっくり返るのではないかと思われるほど揺れる船の甲板で、風蘭は落ち着かなくうろうろとする。船員たちはそれぞれの持ち場にいるのか、先ほどから誰一人見当たらない。
そういえば、私軍の何人かも見ていない気がする。
「坊ちゃん、危ないですから、室でおとなしくしていてください」
困ったように連翹が忠告する。その後ろには椿と石榴もいる。
甲板にふらふらと立つ自分たちの足元には、まるで洪水のように河の激流が流れ込んできたり、引いたりしている。
「・・・・・・そうだな、ここにいても役立たずだ」
うなずき振り返った風蘭の目には、信じられない光景が待っていた。
「・・・な、なんだ・・・・・・?」
「・・・・・・いったい、何の真似かしら?」
呆ける風蘭とは対照的に、椿が冷ややかにそう言い放つ。
暗闇の嵐に揺れる船の上で、彼らが見たものは、武装した船員、そして黒灰の私軍だった。
全員、彼らに武器を突きつけている。
「・・・どういう、つもりだ?」
風蘭がそう問いかけている間にも、連翹が風蘭の前に立ちはだかる。
「瓶雪殿に、言われたのか?!俺を・・・襲えと・・・・・・?」
「それは違いますわ、風蘭公子」
歯軋りしながらつぶやいた風蘭を労わるように、石榴がそっと言う。
「黒灰殿は、そんなことをいたしません。決して裏切りなどするような武人ではございません。・・・・・・おそらく、これは彼らが独断で行った、謀反」
嵐のように、殺気が渦巻く。それが、石榴や連翹のものか、目の前に立ちはだかる軍人たちのものか、わからない。風蘭は、ただ混乱するだけだ。
「瓶雪さまは、坊ちゃんを裏切ってはいらっしゃらない。それは、わたしも保障しましょう」
連翹の気遣うような口調に、はっと風蘭は顔を上げる。だが、長く考えている暇などなかった。
武装した軍人、船員たちが咆哮ともとれる叫び声をあげながら、襲い掛かってきたのだ。
すぐに嵐の雨音と激流の河の流れの音に混じって、剣と剣がぶつかる音が響き渡る。船は横殴りの雨と風に揺られて、足元がおぼつかない。それでも彼らは戦った。一方は殺すために、一方は守るために。
騒ぎを聞きつけて、すぐに船内に残っていた黒灰の残りの私軍の軍人たちがかけつけてきた。どう見ても稽古とは思えぬ戦いと闘気に、軍人たちも混乱した様子で、武器を持って風蘭たちを襲っている仲間たちを取り押さえる。
「おい、なにやってんだ!!自分がなにしているかわかっているのか?!」
「離せ!!俺たちはこいつらを殺すんだ!!そのために船に乗ったんだからな!!」
反逆の意を示した軍人が、止めに入った軍人を切りつける。だがそれは軍人同士、かろうじて致命傷を避けてその場に崩れた。
「殺す・・・・・・?おまえら、公子さまを殺すつもりで・・・・・・?」
数人の私軍の軍人と、残り十数人の反逆の軍人。驚愕の表情を浮かべる仲間だった者たちに武器を手に彼らははき捨てる。
「公子だから殺すんだ。王族だからだ。王族が、王がなにをしていたか、知ってるだろ?!なにもしていない!!なにもしないから、俺たち民は苦しめられるんだ!!そんなやつらはこの国にはいらない!!必要がないんだ!!」
桔梗は言った。
先王に向けられる刃が、王族であり、公子である風蘭に向けられることもあるだろう、と。
覚悟はしていた。
だが、実際こうして目の前でそう言われると、胸に深く深くなにかが刺さったかのような痛みを覚えた。
目の前にいる、この軍人も、船員も、みんなみんな先王を、王族を、憎んでいる。だから、公子である風蘭を殺そうとする。
貧困に苦しみ喘ぐ冬星州を、星華国を省みなかった先王への憎しみが。
それを諌めることなく、ただ後宮で安穏と暮らしていた風蘭への憎しみが。
こんなにも痛いのは、豪雨のせいか、それとも・・・・・・。
「・・・・・・お守りします、風蘭さま。まさか、仲間に逆賊がいるなんて・・・・・・!!」
「どうか、黒灰さまをお疑いにならないでください。我々全員が決してこのような謀反を考えているわけではありません」
風蘭のそばにかけよった数人の私軍の軍人たちが武器を携えて口々に言った。
だが、今の風蘭に、誰が味方で誰が敵かなど、もはやわからなかった。
昨日まで、船上で共に訓練していた軍人が、今、目の前で敵意をむき出しにして風蘭を殺そうと剣を構えている。
肩を叩き合って互いを労わっていた昨日までの日々は。
彼らは、どんな思いで風蘭と共に数日を、いや、この数ヶ月の訓練を。
いつか風蘭を殺す機が訪れるのをただ待って、取り繕っていたというのか。
「なぜなんだ・・・・・・なんで・・・・・・!!」
ただ、それしか言えない。
彼らが憎むのはわかる。憎まれても仕方ないのかもしれない。
だがなぜ、こんな形で。
「なぜ、だと?今更そんなこと聞かなくてもわかるだろ?」
嘲笑する男の言葉をさえぎるように、連翹が風蘭に言う。
「迷いを捨ててください、坊ちゃん。あなたは、生きなくてはいけない」
「・・・・・・わかってる」
決めたのだ。
救うと。この手で、この州を。
そのためには、ここで殺されるわけにはいかない。
どこかで雷が鳴った。それを合図に、敵の軍人、船員が襲い掛かってくる。
こちらは軍人数人と、風蘭、連翹、椿、石榴のみ。
多勢に無勢。それはわかっている。
「死ぬんじゃないわよ、風蘭!!」
椿が一喝してから剣を構えて迎え撃つ。
「・・・・・・わかってる!!!」
風蘭も覚悟を決め、剣を抜く。
ここで、死ぬわけにはいかない。
ただ、それだけの思いで、剣を構え、彼らを迎え撃った。