序章 幼き歯車 三話
3、それは、冬の完璧な魅力を持つ椿
彼女は、生まれながらに不幸だった。
だが、彼女自身は、それを「不幸」だと感じたことはなかった。
なぜなら、「幸せ」を知らなかったから。
3人目の主人公、睦 椿が生まれた冬星州は、星華国で最も貧弱な州だった。貧困の差は激しく、病や飢えで死んでいく人々も他州の比にならぬほど多かった。
財政も悪化し、浮き彫りになって目立つのは闇の者たち。
冬星州は、その名のとおり、冬のように冷たく寒く、暗い、沈んだ州だった。
椿が生まれた睦家も、例外ではなかった。
山奥の雪に埋もれた小さな村。そこで、椿は睦家の第5子として生まれた。
生まれたその瞬間から、彼女は家族に疎まれた。
日々食べていくことすら苦しい家計に新たな家族。それは喜びよりも、食い扶持を増やす存在の誕生でしかなかった。
それでも睦夫婦が子供を成したのは、未だ生まれぬ男子の誕生を望んでのことだった。しかし、生まれたその子はまた女子。
男子を望んだ両親も、弟を望んだ姉たちも、椿を疎んだ。
幼い彼女の仕事は、家族の怒りの捌け口となることだった。
罵倒され、殴られ、蹴られる。
少女は叫び声をあげることすら許されず、いつしかじっと時がすぎるのを忍耐強く待つようになった。
歯を食いしばって、目を閉じて、苦しいそのひと時が終わるのをじっと待つ。
このまま死ぬのだろうか、とぼんやりと幼い頭でそう思うときもあった。
だが、死に対する渇望も、恐怖も、彼女は持ち合わせてはいなかった。
あの日までは。
睦家の小さな小さな庭にある小さな畑での収穫物もなくなってしまう冬は、毎日が生死の分かれ目のようだった。
その日1日粟でも口にするものがあれば、上出来だった。庭のどこかに草が生えていれば、それでも食べた。なんでも口に入れて、なにかしらで飢えをしのいだ。
しかし、冬を越えるには、あまりにもなにもなさすぎた。
特にその年は、冬を越えるための収穫を行う秋において、例年にない凶作で、村中が飢饉に苦しんでいた。だが、その村を救うための物資や食料は、冬星州州都から一切届くことは無かった。
冬星州は椿たちが暮らす村を見捨てたのだ。
そしてそれは、なにも椿たちの村が最初ではなかった。
村中の人々が次々と餓死していった。その骸を弔う間もなく、またその余裕もなく、死者は増え、静かに残された者たちは日々を過ごしていた。
睦家の中も、ゆっくりと、けれど確実に何かが狂い始めていた。
ある日、椿のすぐ上の姉が、死んだ。飢え死にだった。両親はそれを泣くのでもなく、しばらく娘の亡骸をぼんやりと眺めていた。
やがて、亡骸を雪の積もる庭へと運び、ふらふらと蔵から斧を取り出し、おもむろに亡き娘の小さな身体を切り刻み始めた。
無心に、無表情に、その作業は行われていく。
真っ白い雪が、赤く、紅く、染め上げられていく。
娘の身体を無残なほど切り刻んだあと、両親はほっと安堵した顔でつぶやいた。
「あぁ、ありがたい。これで食事にありつける」
それを見ていた椿の姉たちは、両親の行為を恐怖とも思わず、同じように顔を綻ばせていた。椿だけは、無表情に、よく自分を叩いていた姉の手をじっと見つめ、瞑目した。
それから6日。何も食べ物らしい食べ物は食べていない。
再び限界が訪れようとしていた。
空腹は人を狂わせる。
両親も、姉たちもむさぼるように、飢え死んだ4番目の娘の亡骸を食らった。
睦家の人々の視線が、家の片隅でじっと座り込んだままの末の娘に注がれる。
小さな何も役に立たない娘。
生まれることすら疎んじられた娘。
今、この子が役に立つとしたら・・・。
まだ5歳の椿にさえ、家族がそう考えているのが手に取るようにわかった。
――――――――――――殺される。
ふと、椿はそう思った。
今まで、死にそうになることは何度もあった。
家族に暴行されたとき。
食事を与えられなかったとき。
頭の中はいつもぼんやりとしていて、『死』を恐れる感情すらなかった。
だが、どうしたことだろう。
今、椿は家族に『死』を強く望まれている。
そう自覚すると、じわじわと背中をなにかが這い上がってくるような気持ちになった。
焦りのような恐怖のような、言葉に表せない気持ち。
鼓動が急に早く波打つ。
『生きて』いるのだと主張するように。
早く死なないかと、家族中が椿を見ている。
死ねば、すぐ上の姉のように、食われる。
椿は、乾いた口の中で、唾を飲み込んだ。
喉がはりついているようで、痛い。
彼女は、どくどくと大きく波打つ鼓動を抑えるように、ゆっくり、ゆっくりと立ち上がった。意識して呼吸を整えなければ、緊張が家族に伝わりそうだった。
ばれてはいけない。
ふらふらとした足取りで、椿は家族の視線から逃げるように、庭に出た。今、庭には誰もいない。誰からも見えない。
よろよろしながら庭に向かう椿を、家族は視線だけで追いかけた。
だが、誰も椿を止めようとはしなかった。
庭であるかないかの草でも探しにいくのだろう、としか、家族は思っていなかった。
自分たちから椿を殺そうとするのは目覚めが悪い。
だから、じっと幼い末娘が力尽きるのを待っている。
椿は、庭に出て、誰の姿も見えない場所まで、ゆっくりと歩くと、突然はじかれたように走り出した。
何日も食事もしていない幼い少女の体のどこにそんな力が残っていたのか、ただひたすらに走り続けた。
逃げなければ、逃げなければ。
なぜ、そう思うのか。
なぜ、こんなにも必死なのか。
生きたいのか。
なにも椿にはわからなかった。
ただ、足が、体が、どんどん家から遠ざかろうとかけていく。
もつれる足を懸命に動かして、椿は行ったこともない森の中へと逃げ込む。
どれくらい走ったのか、彼女は荒い息を整えながら、周りを見渡した。
知らない場所。
知らない風景。
ここは、両親も姉たちからも見えない場所。
なぜか、ほっとした。
体中から、緊張が抜け落ちる。と、同時に、椿はその場に倒れこんでしまった。
雪の絨毯が彼女を受け止める。
体を動かそうとしてみるが、もう、どこにも力が入らない。
目を閉じて顔を雪に埋めていると、遠くから馬の蹄の音が聞こえてくる。それはだんだんと椿に向かってくるように大きくなり、やがて、彼女のすぐそばで、馬が立ち止まったのを感じた。
「あらいやだ、こんなところで子供が死んでるわよ」
妖艶な声色の女の声が、聞こえてくる。
椿は、その声に応えるように、重たい瞼を開けて、その声の主を見ようと試みた。
見上げれば、そこに、天女がいた。
そう思うほど、女は美しかった。
同時に、どんな男でも物の怪でもたぶらかすことができそうなほど、ぞっとするほど妖艶だった。
「おや、生きてる」
天女の周りには、何人かの男がいた。みんなぞろぞろと椿を覗き込んでくる。その中のひとりが、天女に向かって投げやりに言った。
「姐さん、こんなガキ放っておいて先を急ぎましょう。氷硝に着くまでに日が暮れちまう」
「でもねぇ・・・」
男の言葉にうなずきながらも、妖艶な天女は椿から視線をはずさない。
すると、天女がそっと椿の頬にふれた。
瞬間。
椿はばっと起き上がり、手を振り払って天女を睨み付けた。
「・・・あたしは・・・あたしはまだ、死んでなんかやらない」
上の姉が死んだとき、両親は熱心に姉の頬に触れていた。そんな姿を、今まで椿は見たことがなかった。
愛しそうに何度も何度も頬を撫でた後、「食べるものができた」と言った両親。
椿も今、天女と思った女に頬を触れられ、食われると思った。
突然飛び上がった少女に、妖艶なる美女は驚いたように柳眉を上げたが、すぐにまっすぐに視線を返してきた。
挑むような椿の視線と、試すような女の視線がぶつかる。
そして、女がふっと笑って一言つぶやいた。
「いい目だ。気に入った」
頭が、ぐらぐらと揺れた。視線がぼやけはじめる。
ここで死ぬわけにはいかない。食われるわけにはいかない。
意識はそう告げているのに、とうとう椿はその場に再び倒れこんでしまった。
「氷硝に連れて行くよ」
女がそう言っているのを椿は聞いた気がした。
まだ5歳だった睦 椿の第2の人生はここから始まった。