三章 渦巻く暗躍 五話
5、目標の途中で
「野薔薇、双大后さまがお呼びです」
第3公子風蘭が夏星州から旅立ったある日、野薔薇と夕霧はいつものように回廊を水拭きしていると、直属の上司にもあたる緑光にそう言われた。
「双大后さまが・・・ですか?」
聞き返す野薔薇は、どちらかといえば不安の色を表しながら、聞き返した。
「ええ。早急に双大后さまの室へうかがいなさい」
緑光は伝えることだけ伝えたら満足したのか、さっさとその場を立ち去ってしまう。
一緒に回廊の掃除をしていた夕霧が、心配そうに野薔薇を見上げている。仕方なく、彼女は夕霧に弱々しく笑い掛け、立ち上がった。
「とりあえず、室にうかがってみるわ。しばらくお掃除お願いね」
「わ、わかりました。あ、あの・・・がんばってください」
呼び出された野薔薇以上に緊張しているのではないかと思われるほど、夕霧は無駄に力を入れて野薔薇を励ました。
野薔薇は、ささっと簡単に身なりを整えると、後宮の現主である、双大后のもとへむかった。
歩きながら、野薔薇はぐるぐると考えはじめてしまう。
なにか粗相をしただろうか。
水女としての職務は果たしているつもりだったが、なにか双大后さまのお気に召さないことをしでかしてしまったのだろうか。
年の過ぎた後宮女官の出仕始めで、もはや用済みと後宮を追い出されるのだろうか。
考えれば考えるだけ、悪いほうへ悪いほうへと考えてしまい、いつのまにやら彼女の眉間には皺が寄り始めていた。
「まぁ、野薔薇。そんなお顔で双大后さまのもとへうかがうつもりかしら?」
悶々と悩みながら歩いていたら、いつのまにやら後宮の奥の奥、王妃や公子が住まう離宮へ繋がる回廊の門まで着いてしまったようだった。
そこで野薔薇を待っていたらしい淡雪が、気の毒そうに苦笑しながらそう言った。その傍らには先ほどさっさと立ち去った緑光までいる。どうやら先ほど足早に去っていったのは、淡雪にもこのことを伝えるためだったのかもしれない。
「あ・・・し、失礼いたしました。急のお召しで、不安になってしまって・・・・・・」
あわてて顔を揉み解しながら、野薔薇は深呼吸して答えた。
「私も共に参ります。緑光には別の用を申し付けてあるので」
淡雪が、その文句なしの美しい顔を微笑ませて野薔薇にやさしく言った。彼女は、筆頭女官のその様子で、おそらく退官という最悪の事態ではなさそうだ、というのを察した。
「あの・・・・・・双大后さまはなにを・・・・・・?」
初めて足を踏み入れる後宮の奥への道のりで、野薔薇はどうしても不安を拭いきれずに淡雪に尋ねてみた。けれど、その厳かな雰囲気のある回廊で、淡雪は振り返ることも、野薔薇の言葉になにかを返すこともしなかった。
「こちらが、双大后さまの室です」
やっと淡雪が立ち止まって声をかけてくれたのは、そのときだった。
すでに野薔薇は緊張のために強張っている。
後宮を取り締まる、26年前から今現在までこの後宮の主である双大后さま。
先王よりも政務の才能があったと噂されるほどの、賢妃。
「双大后さま、淡雪です。野薔薇を連れてまいりました」
野薔薇の覚悟などお構いなしに、淡雪が室に向かって告げている。野薔薇本人は、まだその覚悟ができずに、おろおろするばかりだ。
「しゃんとなさい、野薔薇。あなたはいつか、王妃の側女になりたいのでしょう?」
淡雪のその言葉に、野薔薇ははっとする。
そうだ。いつかは、王妃の、紫苑の女官となりたいと願っている。
こんなことで、怖じ気づいてはいけない。
「・・・・・・はい」
きりっと、表情を引き締めた野薔薇を淡雪が褒めるように微笑むのと同時に、室から淡雪と同じ年頃の女官が顔を現した。
「どうぞお入りください、淡雪さま、野薔薇さん」
「あなた直々に、とは珍しいわね、花霞」
「双大后さまのご命令ですから」
にっこりと微笑む、淡雪に花霞と言われたその女官の顔もまた美しい。所作ひとつとっても、まるで王族の姫たちのように、妃のように、気品がある。
そしてなによりも、その女官の頭上を飾る簪。
しゃらしゃらと涼しげな音を鳴らすその簪は、キキョウ。
それは、双大后の名。
「双大后さまの側女を務めております、花霞、と申します」
野薔薇の視線に気付き、花霞が微笑みながら挨拶した。
「側・・・女・・・」
「野薔薇さんが、未来の王妃さまの側女を目指していらっしゃることは有名ですよ。ぜひおがんばりなさいませ」
「あ、はい」
扉から双大后のいる室までが少し距離があり、そこに案内するまでの間、絶えず花霞は野薔薇を気遣って色々話しかけてくれた。
野薔薇は、自分のあずかり知らないところで、こんなにも自分のことを知られている事実が驚きとともに恥ずかしくなり、顔を赤らめながらそれに答えていた。
やがて、一枚の扉の前で、花霞は立ち止まり、扉の向こうに声をかけた。
「花霞です。淡雪さま、野薔薇さんをご案内いたしました」
「お入りなさい」
扉の向こうから聞こえたその短い一言に、野薔薇の心臓が冷え込んだ。
暖かくやわらかいその物言いなのに、揺ぎ無い意志と気高い気品のようなものを感じた。
「・・・・・・覚悟はよろしいですね」
微笑む花霞に、ぎこちなく野薔薇はうなずいた。淡雪も野薔薇のあとに続く。
室に入ると、双 桔梗大后が刺繍針を片手に立っていた。片手には刺繍針。もう片方の手には絹。
刺繍でもしていたのだろうか。
だが、野薔薇にはそこまで呑気に思慮を巡らす余裕もなく、室に入るとあわてて跪拝の礼をとった。
「お、お初、におめに、かかります。秋星州より、参りました、の、野薔薇と申します」
自分でも情けないと思うほど、声が小さく、そのうえ詰まりながらの挨拶だった。
「顔をおあげなさいな、野薔薇。よく顔を見せて」
双大后の言葉が、文字通り、野薔薇に降ってきた。おそるおそる、彼女は顔をあげた。礼を崩すことなく。
野薔薇は、目を見張った。
26年間、いや、もう27年間だが、後宮の主として君臨していた双 桔梗大后は、はっきり言えば、淡雪や花霞よりは美人、といった顔立ちではなかった。
けれど、その瞳に宿るのは、気高き心と、鋼の意志。
その表情に映し出されるのは、包む込むような優しさと厳しさ。
母のような包容力と、決して揺るがない妃としての気品を兼ね備え、それを一瞬で示す、その溢れるまでの厳かな雰囲気。
あっという間に、野薔薇はそれに呑まれてしまい、何も言葉を発することができない。
「野薔薇、あなたの噂はかねがね聞いておりました」
刺繍道具を手に持ちながら、双大后は野薔薇のもとまで歩み寄り、屈んで野薔薇の顎をつい、と持ち上げた。
「王妃の側女になりたいと公言しているそうね。それは、なぜかしら?出世欲、というわけでもなさそうに思えますが?」
「出世欲では、ありません」
はっきりと、野薔薇はそれを否定した。見つめる双大后の双眸がきらりと光る。
だが、臆するわけにもいかない。これだけは、野薔薇も譲れない。
「私は、未来の王妃さまにお仕えしたいのです。・・・・・・さらに申し上げれば、今、お妃候補として海燈にいらっしゃる女月 紫苑姫の側女になりたいのです」
いつのまにか双大后の横に控えていた花霞が、大きく目を見開くのを野薔薇は横目で見た。野薔薇のうしろでは、淡雪が息を飲むのも聞こえる。
わかっている。
大それたことを言ったことは。
女月 紫苑の名を出したこと。
王妃に仕えたいだけでなく、紫苑に仕えたいと言ったこと。
つまりは、王妃は紫苑だけだと言い切ってしまったこと。
特定の人物の最も近くにありたいと、後宮の主である双大后に公言するということは、それは、彼女にそれを工作してくれと申し出ているようにさえ見えるだろう。
それでも、野薔薇は双大后に言っておきたかった。
大后になにかを望んでいるわけではない。
王妃の側女には自力で出世してなるつもりでいる。
工作も贔屓もいらない。
ただ、伝えておきたかった。野薔薇の真意を。
「・・・・・・なるほど、わかりました」
野薔薇の顎から手を離し、双大后は手頃な椅子に腰掛けた。
「あなたの熱意はわかりました、野薔薇。ですが、それは少々考えるものがありますね」
小さな子供を諭すように、双大后は優しく丁寧に、言葉を連ねた。
「あなたは紫苑姫が王妃になると疑わないでいる様子。ですが、紫苑姫のほかにも妃候補はいます。どの姫も、王妃となるために様々な思いを抱いてきているのです。それを軽んじることもできません」
刺繍道具を花霞に手渡し、双大后は懐に差していた扇を握り締めた。
「なによりも、最終的な決定は、芍薬公子、中部に委ねられます。必ず紫苑姫が王妃になるという保障はどこにもないのですよ。・・・・・・それでも、あなたは側女になりたいですか。王妃が紫苑姫ではなくなったとしても」
口調は穏やかで優しいのに、刺すように厳しい桔梗の言葉に、野薔薇は萎縮してしまう。
紫苑が、王妃でなくなってしまったら。
それは、一度ならず考えたことはある。
答えは、決まっている。
「・・・・・・いいえ」
顔を上げて、野薔薇は答える。まっすぐに、双大后を見据えて。
「いいえ、双大后さま。私は、紫苑姫が王妃となること叶わなくなりましたら、女官を退官し、この後宮を辞します。私の出世への動機が不純であることは承知しております。そのため、他の姫様が王妃となられたとき、私の不純な動機は周りの方々の迷惑にさえなります」
ずっと、心に決めていたこと。
だから、そこに迷いはない。
「不純な者を、側女として他の姫さまたちはお望みにならないでしょう。また、周りの女官も私を不信に思うでしょう。果たして、紫苑姫を差し置いて王妃となった姫に、従順に仕えることができるのか、と」
野薔薇が話している間、桔梗は言葉を挟まない。じっと聞き入ったままだ。
「紫苑姫以外の姫が王妃となられても、私は真摯にお仕えすることはできます。ですが、紫苑姫と同様にできるのかと仰せになられれば、それはわかりません。ですから、もしも紫苑姫が海燈から秋星州へお帰りになられたら、私も共に、故郷へ帰ります」
言うだけ言って、野薔薇は桔梗を見上げる。
どきどきと心臓が早鐘のようになる。
静かな室に、自分のこの心臓の音が響いているようだった。
手も足も、まるで極寒の中にいるように震えている。
双大后が口を開くまでの間が、無限にも感じられた。
「・・・・・・そう。あなたの覚悟は、わかりました」
無表情の双大后の意図がわからない。彼女の逆鱗に触れただろうか。
「それを、わたくしに話して、あなたはすぐに側女に出世できると思いましたか?」
桔梗と野薔薇が話す間、花霞も淡雪も何も言わない。何も動かない。ただ、成り行きを見守っている。
「いいえ、それは思いませんし、望みません、双大后さま。私は、私の力で出世したいのです。私を認めていただき、王妃の傍にお仕えしたいのです」
「それはとても時間のかかること。なぜ、19歳という年齢まで後宮へ出仕しなかったのです?」
「・・・・・・それは、私の短慮故に他なりません。女官にこれほどまでの官位と道のりがあると、私は思っていなかったのです」
「まぁ・・・・・・」
呆れる桔梗の声に、恥ずかしさのあまり野薔薇は顔を伏せる。
「それでも、あなたは自らの力で側女になりたいのですね。紫苑姫の側女に」
その言葉には、先ほどより笑みが含まれているように感じられた。野薔薇はまだ、恥ずかしさのために顔を上げることができないので確かめられないが。
「あなたのその思い、偽りでないことは知っています。最近、後宮内の掃除が驚くほど行き渡っているのです。聞けば、あなたが懸命に行ってくれているとのこと。自らを認められたい、というあなたのその想い、真であることはわたくしもそれを通じて知っております」
そこで、桔梗は言葉を切る。
「わたくしは、どんなものであれ、信念を持つ者は好きです。自らの信念のため、努力する者には手を差し伸べたいと思っています。その先にあるものを、わたくしも見てみたいから」
先ほどよりも和らいだ双大后の口調に、野薔薇は顔を上げる。そこには、母のように優しく微笑む桔梗がいた。
「まだ妃は決まっていません。ですが、あなたのその努力は認めましょう。妃が決まるまで、わたくしの傍で仕えなさい。わたくしの『火女』となるのです」
「え・・・・・・?」
桔梗に言われた言葉が飲み込めず、野薔薇は固まる。助けを求めるように、淡雪に振り向く。彼女は、誇らしげにうなずいた。
「桔梗さまは、あなたの『水女』としての働きをお認めになられたのです。今後、『火女』に昇進し、桔梗様のもとで様々な教えをいただきなさい」
「『火女』・・・・・・に・・・?私が・・・?」
女官としての下っ端、『水女』はその職務内容から、誰かの専属になることはない。
だが、そのひとつ上の職位、『火女』は、食事や寝床にくべる火鉢の支度などの職務により、要請があれば王族特定の専属になることはできる。
桔梗は、野薔薇を専属の『火女』にすると言っているのだ。
それは、早期な出世そのものだ。
けれど、認められたその功績は・・・・・・。
「双大后さま」
ばっと桔梗に振り向き、野薔薇は一気にまくしたてた。
「後宮の回廊の清掃は、私だけの功績ではありません。夕霧という水女もまた、私と共にその職務にあたっていたのです。私だけ『火女』になるなんて・・・・・・」
「その心配には及びません」
くすりと笑って、桔梗はあわてる野薔薇に言い加えた。
「夕霧は、第6公女、蓮姫の『火女』になることに決まりました。緑光が今頃共に蓮姫のもとを訪れているはずですよ」
桔梗の言葉に、野薔薇は先ほどの淡雪の言葉を思い出していた。
そうだ、この室へ来る前に緑光と別れ際、淡雪は彼女に別件の仕事を頼んでいると言っていた。
それが、夕霧の蓮姫への挨拶だったのだ。
「さて、野薔薇。あなたの懸念事項はこれでなくなったはずですけれど、わたくしの『火女』となっていただけるかしら?」
野薔薇は、目の前の主をしっかりと見据えた。
彼女が、前貴妃。
紫苑が、目指すべき地位にいた方。
そして、今、野薔薇の主となる方。
再び野薔薇は礼をきちんと取り直し、はっきりと答えた。
「よろしくお願いいたします、双大后さま」
今度は声は震えなかった。
震えているのは心だけだった。高貴なる方に仕えることができるという、歓喜の震え。
これを、この喜びを、紫苑に伝えたかった。
「あぁ、それから」
淡雪と共に立ち去ろうとした野薔薇に、彼女の新たな主となった桔梗がつぶやいた。
「紫苑姫たち妃候補は今、異例の事態ですが、海燈ではなく、この後宮内にいらっしゃいますよ。もしかしたら、どこかで会うこともあるかもしれませんね」
「え、後宮に・・・・・・ですか?」
喜びと驚きで振り向いた野薔薇に、双大后は厳しい口調で追い討ちをかけた。
「ですが野薔薇、あなたは今は後宮に仕える女官。たとえ紫苑姫と会っても、その立場をきちんと理解なさい」
もはや、馴れ合いの許される仲ではない。
桔梗がきっちりと打ってきた釘は、野薔薇も覚悟している。
「かしこまりました、双大后さま」
淡雪と野薔薇が退室すると、桔梗は再び刺繍を再開した。
編み物や刺繍は、自らの考えを整えるのに役立つ。考えがうまくまとまるのだ。
「思った以上に、おもしろい子でしたね、野薔薇は」
傍に控える花霞に桔梗はつぶやいた。
「そうですか?私は驚きました。まさか紫苑姫のためだけに女官になっていたなんて。ましてやそれを桔梗様にお話しするなど」
「あら、むしろわたくしは正直でよいと思いましたよ。実に忠義に誠実であると思いました。彼女のような子が増えれば、後宮はもっと変わるでしょうね」
権威に惑わされることなく、自らの忠義にのみ従う。
失われた300年前の11貴族の姿。
野薔薇は、それを持っている気がする。
「紫苑姫が妃となったときが楽しみね、花霞」
「後宮がどう変わるか、がですか?」
「そうね。それに、たとえ紫苑姫が王妃となっても野薔薇の地位は変わらないかもしれない。いえ、むしろ彼女の試練はもっと増えることになるでしょうね」
「・・・・・・そうかもしれませんね」
花霞は、桔梗が貴妃になって初めてついた側女である。だから、付き合いは長い。桔梗が味わった辛苦をずっと共にしてきた。
だからこそ、桔梗の言わんとすることがわかる。
強い信念を持つ野薔薇。
彼女の前に立ちはだかるのは、側女への長い道のりだけではないかもしれない。
桔梗の室を離れ、夕霧と別れた場所まで戻ると、野薔薇は緊張感からやっと解放され、どっと疲れがこみ上げてきた。
淡雪とは室を出た時点で別れている。
今頃、夕霧も蓮姫の前で大慌てで恐縮しているかもしれない。それを想像して、野薔薇はふっと笑った。
「さて、水女としての最後の仕事を終わらせておこうかな」
つい最近水女として出仕を始めた気がするのに、思えば半年は経っている。早い者はひとつきで『水女』から昇進する者もいるという。半年で昇進した野薔薇は遅いのか早いのかはわからないが、新たな一歩は野薔薇の活力となった。
一歩一歩でもいい。確実に近づいている。
同時に、桔梗の言葉も頭を掠める。
紫苑が妃とならなかったら。
万が一にもそのような事態になったら、後宮を辞す。
後悔はしない。
幼い頃、決めたのだから。紫苑の傍で、紫苑に仕えたいと。
幼い頃、楓と、紫苑と、3人で誓い合った。
水陽で互いの目標を果たそうと。
それに今、近づいているのだろうか。
「・・・・・・もしかして、野薔薇?」
馴れ馴れしく呼びかけてきた声に、野薔薇は思考を停止して顔を上げた。そこには怪訝な顔で野薔薇を覗き込む青年がいた。
「あの・・・?」
「やっぱり野薔薇だ!!そうだよな?」
くしゃっと笑った笑顔に、見覚えがある。野薔薇は、興奮のあまり息がうまく吸い込めなかった。
「ま、まさか・・・・・・楓兄・・・?!」
「いやぁ、野薔薇が女官として出仕していると紫苑には聞いていたけど、まさか会えるとはな~!!元気だったか?」
驚きのあまり固まったままの野薔薇にはお構いナシに、楓はうれしそうに話しかける。
久しぶりに再会した楓は、野薔薇の記憶とは全然違った。
くしゃっと笑うその笑顔だけは変わらないが、あとはなにもかもが違う。
声も、顔つきも、なにもかも。
それは野薔薇なんかよりもずっと長く朝廷に仕えてきた官吏の顔だった。医官として務めてきた顔つきだった。
「どうした?黙ったままで?」
「なんか・・・・・・驚いちゃって・・・・・・」
「あはは、そうか。・・・ふぅん、水桶を抱え込んでいるところをみると、まだ『水女』なのかな?道のり長いけど、互いにがんばろうな」
楓の官位は、医官の集う典薬所の薬園師。4職位あるうちの下から2つめの職位だ。
だが、楓の目標は医官の上位ではなく、文官として政務に携わること。
強く願う望みと信念は努力すれば必ず叶うと、楓も信じてここまで来ている。
無論、紫苑も、野薔薇も。
「なにをしている、長秤薬園師?早く行くぞ?」
回廊の遠くで楓を呼ぶ声が聞こえた。
「おっと、行かないと。じゃぁな、野薔薇。また会えるといいな」
「あ、あのね、楓兄!!私、今日昇進して、明日から双大后さまの『火女』になることになったの!!だから・・・」
「そっか。じゃぁ、俺も昇進できるようにがんばるよ。お互いにがんばろうな」
多くを語らず、けれど心強い笑みで、楓は足早にその場を立ち去った。
「・・・あ、あれ・・・?」
楓の背中を見送っていた野薔薇は、己の意志とはまったく関係ないところで、勝手に頬に涙がつたっているのに驚いた。
なぜ涙が出るのかわからない。
いや、本当はわかっている。
たった独りで、様々なことを陰でささやかれながらも、目標のために努力し続けた。
そして双大后にそれを認められた。
うれしかった。
けれど、その喜びを伝える相手もまたなく、独り。
そんなときに再会した同郷の楓に、野薔薇は安心してしまった。
張っていた糸が緩んでしまった。
変わらぬくしゃっとした楓の笑顔に、野薔薇の心が温かくなる。
「私も、がんばるよ、楓兄」
私も、楓兄もがんばるから。
だから、紫苑もがんばってね。
一緒に、あのときの約束を果たそうね。
野薔薇は涙をぬぐうと、最後の『水女』の仕事をせっせと始めた。