九章 擦れ違う想い 七話
七、新たな体制
突然の退位宣告。
それは、葵にとって寝耳に水だった。
それほどまでに牡丹が追い詰められていたことに、葵は気付くことができなかった。
血を分けた、たったひとりの家族であったのに。
突然朝議の席で牡丹から退位の意志を告げられた時、驚愕のあまり言葉を失う高官たちと同様に、葵もまたあまりにも突然のことに俄かに現実と受け入れられなかった。
「王佐はこのことをご存知だったのですか?!」
当然のように向けられたのは、王に一番近くにいる王佐である葵への責言。
こんなにも突然に牡丹を退位の道へと追い詰めたのは、葵ではないのか、と。
知っていて、それを承諾し黙っていたのか、と。
だが、高官たちにいくら責められたところで、葵もまたこの場で初めてその事実を聞かされ、驚きのあまり言葉を失っている者のひとりだった。
「王佐、何かおっしゃってはいただけませんか?!」
「牡丹王の退位のことをご存知で、我々に黙っておられたのか?!」
「何の相談もなしに突然に・・・・・・。これでは我々を侮辱しているようなものではありませんか」
「まさか・・・・・・王佐が次代国王であるから、その玉座を早く手にするために・・・・・・?」
「そうか・・・・・・。知れば我々に反対されると思って・・・・・・」
口々に囁かれる憶測の波紋の輪は広がる。
ざわざわ、ざわざわ、と。
思いもよらぬ中傷の渦に、葵は咄嗟に反論が浮かばなかった。
混乱に拍車がかかり、その渦に呑まれてしまっていたのかもしれなかった。
だが、葵が否定もせずにいることに、さらに高官たちの不信は強くなってしまう。
収集がつかなくなるかと思うほどの混乱を、不信の渦に包まれたその場を、一瞬で鎮めたのは他でもない、牡丹だった。
「みなに混乱と誤解を招いたことは詫びよう」
それは凛とした、迷いのない声。
即位の頃から、この玉座に座った牡丹の声は、決して揺らいだりはしなかった。
どんなに苦しくて辛い決断を迫られることがあっても、その声が不安で陰ることはなかった。
この透き通る凛とした声に導かれ、みなはここまでひとつになってやってきた。
・・・・・・それなのに・・・・・・・・・。
「王佐はこのことについて一切関与していない。すべてはわたしひとりが独断で決めたことだ。突然のことでみなを驚かせているのは承知しているが、今後は王佐である葵を次期王としてみなで盛りたててやってほしい」
ざわり、と大きな動揺の波。
葵を次期王に。
みなも承知していたことだが、それでこうして牡丹の口から聞くのとでは重みが違う。
牡丹から告げられた事実は、噂でも憶測でもなく、『決定事項』なのだから。
何をどう反応していいのか戸惑う官吏たちの視線は、おのずと葵に向けられていく。
葵はというと、次第に顔色を失くし、かろうじてその場に立っているような状態だった。
誰もかれもが混乱し、戸惑っていた。
それを冷静な瞳で見下ろしているのは、玉座に座る牡丹だけ。
玉座に座る常の『牡丹王』と変わった様子はなく、いったいなにを考えているのか、何を思っているのか、何も映し出さない表情を浮かべている。
それがむしろ、この場にいる者たちの不安をより一層掻きたてた。
その牡丹が、そっと目を伏せて静かに告げた。
「今日はここまでにしよう。詳しいことは追って連絡していく。どうか、よろしく頼む」
ぎこちなく身を固めてしまった官吏たちとは異なり、牡丹はすっといつも通り静かに優雅に玉座から立ち上がり、その場を退いていく。
いつもなら牡丹を追うようにして王佐の葵も続くのだが、今日の彼は牡丹がいなくなったことにすら気づいていないかのように、茫然とその場に立ち尽くしていた。
「・・・・・・あれは一体、どういうことなのですか?」
牡丹の執務室を訪れるなり、葵は前振りもなくそう言った。
茫然自失となった状態で政堂に取り残された葵が我を取り戻したのは、ずいぶんと時が過ぎてからだった。
「どういうこと、とは・・・・・・?あの場で言った通り、玉座を退きたいと思っているのだけれど?そしてその後任には、葵、君にお願いしたいと思っているのだよ」
「な、何を言って・・・・・・」
詰まりそうな息をなんとか流して、言葉を紡ぐ。こんなに呼吸が難しいものだとは知らなかった。
執務室には牡丹と葵のほかに、なぜか百合も同席していた。
最近彼女を見かけないと思っていたのだが・・・・・・。
「・・・百合さん、お久しぶりです」
「そうね、葵と会うのは久しぶりね。牡丹とは毎日会っていたのだけど」
「え?!」
また突然知らされた事実に、再び葵の鼓動は強く波打つ。
大事なことのはずなのに、自分は蚊帳の外にいるような気がする・・・。
そう思うと、葵の頭は急速に冷却され、すーっと冴えていくのがわかった。
それは決して冷静になったわけではなく、知らされなかった事実の連続への怒りのためだと、葵自身も自覚はしていた。
「・・・・・・百合さんは・・・知っていたんですか、牡丹王の退位のご決意を・・・・・・」
おそらく、今までこれほどまでに冷ややかに百合を見つめたことはなかったかもしれない。
それでも、今の葵は怒りを混乱と戸惑いで、自分の感情を自制することもできなくなっていた。
そして、その視線を受けた百合もまた、冷ややかな笑みを浮かべて頷いた。
「えぇ、知っていたわ。その相談を受けるために毎日ここに足を運んでいたようなものだもの」
「なぜ僕に黙って・・・・・・!!」
それは百合に問うように、牡丹を責めるように。
葵は俯き、溢れて零れそうな感情を必死に抑え込もうとしていた。
「・・・僕が非力だからですか・・・・・・?!だから、だから僕には何の相談もなく、こんな大事なことを決めてしまわれたのですか・・・・・・?!」
「そうではない、葵・・・・・・わたしは・・・・・・」
「僕は王佐です!!ですが、王佐である前に、あなたのたったひとりの肉親なのです!!それなのに、なのに・・・・・・」
「牡丹は、葵に余計な心労をかけたくなかったのよ」
言葉に詰まる葵に被せるようにそう言ったのは百合。
いつの間にか、百合は牡丹の隣に立ち、葵を慈しむかのような視線で見つめていた。
「あなたには、王佐として『王』を支える務めがある。あなたの重責はそれだけでも大変だというのに、これ以上煩わせるわけにはいかない。それが牡丹の意見だったのよ」
「ですが、王佐だからこそ・・・・・・!!」
「わからない?『王』として悩んでいたのなら、王佐であるあなたに相談したでしょう。けれど、これは『牡丹』の問題。だから、牡丹はあなたではなくあたしに相談してきたのよ」
「・・・どういう・・・・・・意味で・・・・・・?」
「鈍いわねぇ、葵は」
くすくすと百合は笑う。
だが、その意図がまったく理解できない葵は眉をしかめるばかりだ。
牡丹は気まずそうに視線を泳がせている。
「いったい・・・・・・どんな相談内容で・・・・・・」
「恋よ。恋の相談」
「・・・・・・へ?コイ・・・?」
「頭の悪い発音しないでしょ。恋よ、恋」
「こ、恋って・・・・・・誰が・・・・・・?」
「牡丹が、に決まっているじゃない」
予想外の解答すぎて混乱している葵を面白そうに眺める百合。
そんなふたりのやりとりを居心地悪そうに聞いている牡丹の様子を見ると、どうやら百合の話は真らしいことは明白だった。
「恋って・・・・・・。そ、それで退位を・・・・・・?」
「そうよ。国か愛か。どちらを取るか悩むに悩んで、とうとう愛を取ったのよね、牡丹」
「ゆ、百合!!」
からかうような口調で告げた百合に、牡丹が焦ったように諌める。
「で、ですが、愛しい方がいらっしゃるのなら、その方を後宮にお招きすればよいではありませんか?あそこは主に牡丹王か僕しか出入りすることはないのだし、内密にしておくことは可能ですし・・・・・・」
「葵、そんな簡単なことじゃないでしょう?」
なんとか牡丹を思いとどまらせようと苦しい提案をしてきた葵に、百合が厳しい口調でそれを制止する。
どの道、牡丹では肯定も否定もできるはずがないから。
「後宮には中部の官吏が出入りするし、そもそも牡丹が後宮に誰かを入れるのは『異例』になるはずよ。あそこは葵のための後宮なのだから。今後のことを考えても、そこに牡丹の愛しい人がいるのはおかしいわ」
「百合さん・・・・・・でも・・・・・・」
「それに、その人物は貴族ではないのよ。その人は朝廷に入ることすらできないの。あなたたちの取り決めでは、貴族以外ではここに入れないのでしょう?」
「平民・・・・・・?平民がお相手なのですか・・・・・・?い、いや、でも、平民であったとしても、こうして百合さんのように『特例』扱いにすれば・・・・・・」
「・・・・・・葵」
混乱しながらもなんとか必死に牡丹を思い留まらせようとあれこれと言い凌ぐ葵に静かに呼びかけたのは、申し訳なさそうに葵を見上げる牡丹だった。
「・・・・・・葵、わかってくれないか。許して・・・・・・もらえないだろうか・・・・・・」
「え・・・・・・?」
「わたしは、戦乱の世を鎮めるために、『牡丹』というひとりの人間として生きることを諦めた。『将軍』として、『王』として、みながよりよく暮らしていける国を目指そうとした。・・・・・・今やっと、みなの努力もあってこの国は安定し、平和を手に入れようとしている・・・・・・」
「・・・・・・はい。すべては牡丹王の采配によるべきものです。だからこそ、この国のためにすべてを捧げたあなたが、ここで愛を求めたところで誰も責めはしません。退位などされずとも、皆の前で婚約を果たせばよろしいのでは・・・・・・」
「それでは、だめなのだよ」
静かに、優しく、牡丹は葵に諭す。
ゆっくりと温かく混乱を包み込むように。
「それではだめなんだ・・・・・・。あの人は、わたしを『牡丹』として見てくれる。『王』としてではなく。あの人のそばにいることが、わたしがわたしでいられる、安心な大切な場所なんだ。だから、あの人をここへは呼べない」
「・・・・・・もう、王ではありたくないと・・・・・・」
「はじめから、王の器ではなかったのだ。わたしは壊すだけの破壊者だったのだよ」
「そんなこと・・・・・・!!」
「ないというのならば」
自嘲気味に笑った牡丹を否定しようとした葵に被せるように、百合の鋭い声が飛んでくる。
「牡丹がただの破壊者ではないというのなら、ならばこそ、解放してあげて。解放して、牡丹だけの幸せを作らせてあげて」
「百合さん・・・・・・」
百合の表情には厳しさと苦悶があった。
きっとこの結論に至るまでに、牡丹とふたりで苦しんだに違いない。
牡丹は責任感が強いから、自身の幸せを犠牲にしようとしたのかもしれない。
それを百合が留めたのかもしれない。
そして、その最終的な方法が、玉座を捨てることだったのかもしれない。
牡丹を『ここ』に縛り付けたままでは、幸せにはなれないと誰もがわかっているから。
本当は葵もわかっている。
本当に牡丹を幸せにしたいのならば、『王』という鎖をはずしてあげなければならないことは。
だがそれは、牡丹との別れを意味する。
牡丹は退位したら、二度と朝廷に足を向けることはないだろう。
新たな王として朝廷に縛られる葵と会うことも。
だが牡丹は、そんな様々なものを捨ててでも添い遂げたいと思うべき相手ができたのだ。
葵にはまだ、そんな感情はわからないが・・・・・・。
「・・・・・・どんな、方なのですか・・・・・・」
俯いたまま、葵は小さく尋ねる。
少し拗ねたような態度をとる彼に、牡丹は微笑みながら答えた。
「優しく、心の広い人だ」
「だけど、ちょっとおっちょこちょいね。それと、牡丹級のお人よしだわ」
「え、百合さんも知っている人なんですか?!」
まさか百合からも返事が返ってくるとは思わず、葵は彼女を凝視してしまう。するとさも当然とばかりに、百合はしっかりと頷いて答えた。
「もちろんよ。何度か会って話してもいるんだから。だからこそ、牡丹はあたしに相談してきたのだし」
「そう・・・・・・ですか・・・・・・」
これ以上、葵に何が言えただろうか。
もう、決まったことなのだ。
決めたことなのだ。
牡丹が、『王』として最後に決めた、幕引きの瞬間。
「・・・・・・勝手なことを言ってすまない、葵。・・・・・・高官たちにも色々とあらぬ誤解を持たれ、責められてしまって・・・・・・」
しゅんと肩を落とす牡丹の姿は、まるで戦乱が始まる前の牡丹のようだった。
自分の思うがままに笑い泣いて暮らした日々。
牡丹と、葵と、百合と。
「・・・いいんです。もう、あなたは十分なほどこの国のためにご自身を犠牲にされてこられた。たくさん傷ついた。・・・・・・戦乱の世を終わらせてほしいと縋った、僕の願いを聞き入れてくれた・・・・・・」
「葵・・・・・・」
「・・・・・・ふたりともここからいなくなってしまうのは寂しいけれど・・・・・・だけど、僕は僕なりにがんばってみます。新たな時代を築く者として」
「・・・・・・ふたり?」
「ん?」
せっかく葵が涙をこらえて結構感動的な決意表明をしたと思うのに、牡丹と百合がふたり同時に首を傾げたことにより、それらは台無しになった。
「ふたりともいなくなるってどういうこと、葵?」
「え・・・・・・だって、百合さんもいなくなってしまうのでしょう・・・?百合さんは牡丹王の護衛だし・・・・・・侍女だったし・・・・・・」
「違うわよ、葵」
ぴっと百合の白く細長い人差し指が葵の目の前に差し出される。
鋭い眼光を葵に向けたまま、百合はにやりと笑った。
「違うわよ、葵。あたしは『黒花』。仕えるべき『王』に仕え、お守りするのが務め。だから葵、あなたが王となるのなら、あたしはあなたのそばにいるわよ」
「百合さん・・・・・・」
「そんなしょげた顔をしないの!!まったく、いつまでも甘えん坊なんだから!!」
わざとらしいほど百合は明るく葵にそう言った。
それは、百合なりの励ましと寂しさを紛らわすための強がりだったのかもしれない。
牡丹へ視線を向ければ、牡丹はただ静かに微笑んでふたりと見ているだけ。
『傍観者』となっていた。
少しずつ『王』という立場から離れていくかのように、ふたりの距離が遠くなる。
けれど、もう後戻りはできないことは、わかっていた。
「・・・・・・これから頼んだよ、葵」
「・・・・・・はい」
返せるのはたった一言だけ。
でも、それで十分だった。
それが『王佐』としての、『次期王』としての答え。
けれど、『牡丹の弟』として言いたいこともあった。
「・・・・・・どうか、お幸せに」
葵からそんな言葉が飛び出すとは思ってもいなかったのだろう。
牡丹はしばし瞠目した。だがすぐに、破顔して葵に一言返した。
「ありがとう」
それが、短い任期として君臨した初代国王退位が示された出来事だった。
そして、半年の後に新たな王として即位した葵は、始めこそ疑惑と混乱を招いたものの、真面目で誠実なその性格で安定した治世を築き上げたのだった。