九章 擦れ違う想い 六話
六、羨望の変化
木蓮は、ずっと気になっていた。
秋星州の若き当主ふたり、長秤一族当主海桐花と蠍隼一族当主藍が、冬星軍から秋星軍強化の指南を仰ぎたいとそう風蘭に申し出た。
同時に、すでにそれは当事者間で承諾済みであると、冬星軍を預かる瓶雪一族当主、黒灰も連れてきた。
風蘭は含みのある視線を黒灰に向けながら海桐花たちの申し出を承諾し、その視線を向けられた黒灰もまた、苦悶の陰りを滲ませていた。
あれは、なんだったのだろう。
黒灰が苦悶しているのは、海桐花たちの申し出とは関係ないようにも思える。
だが、何に悩んでいるかはわからない。
風蘭はそれを知っている風だった。
春星州に一時帰州してしまった、華鬘のいない朝廷で何が起きているのか、起ころうとしているのか、木蓮は不安を抱いていた。
その不安が見事に的中したのは、海桐花たちが風蘭の執務室を訪れた次の日だった。
「風蘭さま、瓶雪 黒灰さまがいらしています。お通ししてもよろしいですか?」
風蘭と木蓮で法部設立の議案書に目を通していると、連翹がそう報告をしてきた。木蓮がちらりと風蘭を見ると、彼は少し緊張した面持ちで、小さく頷いた。
「・・・・・・あぁ、お通ししてくれ」
「じゃぁ、僕は席をはずそうか?」
常になく緊張した様子の風蘭に、書類を片しながら遠慮がちに木蓮はそう提案したが、風蘭は軽く首を振った。
「いや、木蓮もそのまま同席してくれ。・・・・・・もちろん、連翹も」
「御意」
「え、連翹さんも・・・・・・?」
訳がわからず戸惑う木蓮を余所に、連翹は黒灰を迎えにその場を退いてしまう。
風蘭は卓上にあった書類を寄せて片付けると、静かに瞑目してしまった。
なぜか、容易く声をかけられない雰囲気が、辺り一体にある。
仕方なく、木蓮は風蘭の側で控えるように、彼の横に立って、黒灰がやってくるのを待った。
程なくして、連翹を案内人に、黒灰が執務室に入室してきた。黙ったまま軽く立礼だけすると、黒灰はそのまま何も言わずにその場に立ち尽くしていた。
連翹もその場で動かずに沈黙を守る。
瞑目する風蘭の瞑想を邪魔するまいとするかのように、呼吸の音さえ殺して、みなが一室に静かに立っていた。
なぜか木蓮は喋ることはおろか、動くことすら許されない気がして、指一本動かすことなくじっとこの重苦しい空気に耐えた。
やがて、そっと瞳を開けた風蘭が、真っ直ぐに黒灰を見つめた。
「話が、あるということでしょうか?」
「・・・・・・そうですな」
「それは、俺が想像しているものと同じでしょうか?」
「・・・・・・おそらく」
風蘭の含みのある問い掛けに、黒灰が短く答える。たったそれだけのやり取りでも、木蓮は言葉にならない緊張感を肌で感じていた。
「・・・・・・お話しておいた方が、よろしい気がしたのです。今後、風蘭さまや・・・・・・連翹殿にもご迷惑をおかけするやもしれませんからな」
ハキハキとした物言いの黒灰らしくない、ためらいがちな口調で彼はそう言った。
すると、風蘭がにやりと笑ってから黒灰に短く尋ねた。
「霜射前民部長官殺害の件・・・・・・ですね?」
「えぇ?!」
たまらず声を出してしまったのは木蓮。
風蘭と黒灰、それから連翹はちらっと木蓮に視線を向けたがすぐに何もなかったかのように会話が続けられた。
「・・・・・・やはり、風蘭さまはご存知でしたか・・・・・・」
「いや。残念ながら証拠は何もない。だが、あなたが絡んでいるか、もしくは知っているか、何かしらの関わりはあるだろうと推測していました」
「・・・・・・その理由は?」
「連翹が、あなたが民部室から出ていくのを見たらしいのです」
あまりの衝撃的な告白の連続に、木蓮は息を飲むしかない。
前民部長官の死については、あまりにも突然のことだったのもあって、どのような亡くなり方だったのかも木蓮は知らない。
おそらく、ほとんどの者は知らないだろう。
それほど、詳しく明かされぬまま闇に葬られてしまったのだ。
霜射一族当主である柘植の実弟でもあったというのに・・・・・・。
「連翹殿が我輩を・・・・・・?ほぅ、それは我輩としては失態だ。気配を察知できなかった」
「連翹もまた、優れた武人のひとりですから」
片手を額にあてた黒灰に、風蘭はくすりと笑って答える。
木蓮にはもう、訳がわからない。
なぜ、ふたりはそんな呑気に笑っていられるのだろう?!
そんな混乱している木蓮に、風蘭が初めて視線を合わせた。
「俺も詳しいことはわからない。だけど、連翹が大獄に捕まっていたのは知っているだろう?その捕縛の理由は、連翹が民部長官室に最後に訪れた人物だから。だけど、連翹が民部長官室に入ったときには、すでに霜射前民部長官は、死んでいたんだ」
「え・・・・・・なっ・・・・・・」
「そうなんだよな、連翹?」
「はい」
再び驚きに包まれた木蓮を横目に、風蘭は連翹に確認をとる。
頷いて答えた連翹を凝視し、それから木蓮はその場にいる全員を交互に見た。すると、黒灰が大仰なため息を吐いてから、風蘭に視線を合わせた。
「お察しの通り、生きている霜射前民部長官と最後に会ったのは、おそらく我輩なのでしょう」
「じ、じゃぁ、瓶雪星官が、民部長官を・・・・・・?」
「違う、木蓮。黒灰殿が殺したわけじゃない」
喘ぐように言葉を繋いだ木蓮を遮り、即座にキッパリと風蘭が否定した。
霜射前民部長官と最後に会ったのは黒灰だと彼自身が言ったにも関わらず、風蘭は彼が殺したわけではないと否定した。
それは黒灰を庇うためのものではなく、真実を告げる口調であった。
だが、木蓮にはその自信のカラクリがわからない。
「で、でも、じゃぁ、なんで・・・・・・」
黒灰を疑っているわけじゃない。疑いたいわけじゃない。
だけど、このままでは話がわからない。
「黒灰殿は言っただろう?生きている民部長官に会ったのは、『おそらく』黒灰殿が最後だろう、と。黒灰殿もまた、民部長官が死んだところを見た訳じゃないんだ」
「どういう・・・・・・こと・・・・・・?」
「思い出してみてくれ、木蓮。民部長官が死んだあのとき、突然の出来事に、みなが気が動転した。そして病があったわけでもなかった彼が死んだことにより、彼が殺されたのではないか、とみなが自然にそう思った」
「民部の資金濫用っていう、事実もあるから、誰かに恨まれての犯行だろうって騒いでいたよね」
木蓮も当時のことを思い出して、小さく頷きながらそう答えた。
「みなが先入観で、民部長官は殺された、と思っていた。けれど、検死をした典薬所の医官たちは、そんな報告をしていないんだ」
「・・・・・・え?」
「・・・・・・南天殿が自らの罪を明かしに来てくれたとき、俺はもう一度、南天殿にも尋ねたんだ。『霜射前民部長官の検死では、典薬所はどのような報告をしたのですか』ってね」
「・・・・・・それで・・・・・・?」
「・・・毒薬服用による、自害、とはっきり言われたよ」
風蘭はそれだけ言って沈黙を守る。
黒灰は、俯いたままで表情が見えない。
連翹は無表情にその経緯を見守っている。
そして木蓮は、その衝撃の事実に言葉を失う。
「自・・・・・・害・・・・・・?まさか・・・・・・」
「本当だよ。それとも典薬所の医官たちを疑うか?」
「そ、そんなことはないけど・・・・・・でも、だって、自害なんて、どうして・・・・・・。まさか、民部のお金を使った罪の意識で・・・・・・?」
「その逆ですよ」
そう答えたのは、俯いたままの黒灰。ゆっくりと顔を上げると、そこには苦悶の表情が浮かんでいた。
「あいつは、民部の資金を濫用することによって、一族を陥れようとしていたんですよ」
「え・・・・・・?」
「見兼ねた柘植が一度、妃審査でこちらに来たついでにあいつと話し合ったことがあるんです・・・・・・」
ただじっと聞き入る3人に、黒灰は当時のやり取りの話をした。
「公費に手を出しすぎだ。きちんと公私を分けろ。一族を失脚させたいのか?」
椿を雲間姫に仕立てた柘植は、水陽に着き、弟に再会するや否やろくな挨拶もなく一方的にそう捲し立てた。
柘植とは似ても似つかぬふくよかな体型と虚ろな瞳で、弟は兄を見上げた。
「これはこれは、兄上。変わらずお元気そうで」
「わたしの話を聞いていたか?一体どういうつもりだ?一族を窮地に追いやるような愚かなことを・・・・・・!!」
怒りに肩を震わせる兄を見上げ、弟は寂しそうに苦笑した。
「あなたが気にかけるのはいつだって一族のこと、冬星州のこと。見上げたものですね、その責任感は。たとえ家族を失っても、あなたには大義があるから、自らを失わずに強く立っていられるのですね」
「・・・・・・何が言いたい?」
「・・・・・・わたしは、あなたが羨ましいのです、兄上。頭もよく、機転もきくあなたは、父上のお気に入りだった。だけどわたしは、何をやってもどんくさくて、周りをイライラさせてばかりで・・・・・・」
たるんだ肉をふるわせながら、民部長官の声が小さくなっていく。
けれど、それが途切れることはなかった。
「当主になるあなたを支えたかった。・・・・・・それなのに、あなたは・・・・・・わたしを水陽へ送り込んだ。わたしを遠ざけるために」
「そんなつもりはない。ただ、冬星州にいるよりは、見地が広がるかと・・・・・・」
「邪魔だったのでしょう、わたしが。義姉上や雲間姫が亡くなった時も、わたしはあなたから帰州を命じられることはなかった。結局わたしは、誰にも必要とされていないのです。・・・・・・そう思ったら・・・・・・憎くて・・・・・・あなたも・・・・・・そして、霜射一族も・・・・・・」
「・・・・・・だから、あんな不正を?満たされない思いを、金で満たしたというのか?」
厳しい口調で言及する柘植に、弟が答えることはない。
青ざめた顔で、ただ俯いているだけ。そして、ふっと小さく息を吐いた。
「どのみち、もう手遅れですよ、兄上。どうやら風蘭公子が、わたしの不正を暴こうと調べ回っておられるから」
「風蘭公子が・・・・・・?」
「霜射一族の危機ですね・・・・・・。これで、わたしの復讐は果たされます」
彼はそう言って、冷たく笑った。
いつもおどおどと周りの様子をうかがうだけの気の弱い彼とは思えぬほど、最後に柘植と対峙した彼は挑戦的だった。
・・・・・・歪んだ方向で。
「・・・・・・あいつは、民部の資金をいじった穴埋めを冬星州に押し付けた。・・・・・・冬星州だけ、税収を高くしたんだ」
一通り話し終えてから、黒灰は悔しそうにそう言い加えた。
「何があいつをあんな風に変えたのか。憎しみだけであんなにも歪んでしまうのか。我輩も理解できずに、めったに足を向けない水陽に向かって会いに行ったのです。・・・・・・そうしたら、ちょうど風蘭さまが民部長官室から退室されるときでした」
黒灰は一旦口を閉じ、当時を思い出すかのように眉間に皺を寄せてから、続けた。
当時、ちょうど密かに民部長官室を訪れようとしていた黒灰は、偶然にも風蘭がそこを退室していくところを見てしまった。
民部を嗅ぎ回っているという風蘭が。
これでは、朝議で問題になるのも時間の問題。
そうすると、霜射一族の失脚にすらなりかねない。
瓶雪一族である黒灰には関係のない話であるかもしれないが、だが、柘植の友人としてこの状況を放置できなかった。
「久しぶりだな」
「こ、これは黒灰殿?!」
前触れもなく突然長官室に顔を出せば、当然のごとく民部長官は大慌てで立ち上がった。
その気の弱そうな態度も焦ってもてあましている巨体も、何も変わっていないように見えるのに。
「あまり、柘植をいじめるなよ」
一言、柘植の名を出すと、途端に彼の態度が変わった。
顔から表情が消えた。焦りも、怯えも。
「ご忠告感謝いたしますが、もう遅いですよ。風蘭公子が全てを掴みそうです。そうして告発されれば、我が一族も咎は免れぬでしょうね」
「どうして・・・・・・そんなことを・・・・・・。なぜ、一族を陥れるようなことをしているんだ?!こんな姑息な真似、おまえなら思い付きもしないはずなのに!!」
叫ぶ黒灰を、民部長官は無表情に見上げる。それは、黒灰の知らない彼だった。
「・・・・・・憎いからですよ。兄上が。一族が。だから、全てを壊したくなったのです。そう念じていたら、わたしに民部長官の立場を使って一族を陥れればよいと、教えてくださった方がいました」
「・・・・・・やはり、誰かの入れ知恵か・・・・・・!!誰だ?!執政官か?!」
「・・・・・・いいえ」
簡潔に答え、彼はそのまま黙り込んでしまう。けれど黒灰もまた、同じように沈黙を貫いた。
こういうときは、先に沈黙に耐えられなかった者が敗けだ。
黒灰にはそれに耐える忍耐力はあった。
どれくらい互いを睨み合っていただろうか。
やがて、沈黙を破ったのは、やはり民部長官だった。
「・・・・・・冬星州から使いの者だという人物が来て、教えてくださったのですよ」
「冬星州からの使い・・・・・・?一体誰が・・・・・・?」
眉をしかめる黒灰を前に、民部長官は少し躊躇いがちに黒灰を見上げ、そして答えた。
「名はわかりませんが・・・・・・北山羊一族の者でした」
答えを聞き、一瞬瞠目した黒灰が、呆然と呟いた。
「北山羊一族が・・・・・・?!なぜ・・・・・・?あの一族は、長く沈黙を守っていたはず・・・・・・」
「真意はわかりませんが、その使いの方は全てご存じでした。わたしの、兄上の妬みも、一族への喪失感も」
「それで・・・・・・そいつが言ったのか・・・・・・?この不正の手順を、姑息な悪意を、おまえに教えたのか?!」
「そうですよ。一族を陥れ、当主である兄上を追い詰める、最高の手段。奪った金で、随分とよい思いもさせていただきました」
半分狂ったような瞳が、黒灰に向けられる。
黒灰は、言い様のない怒りが沸き上がり、怒鳴り付けたくなるのを懸命にこらえなければならなかった。
「・・・・・・それで・・・・・・?柘植を追い詰め、一族を失落させ、おまえはどうするんだ?!罪人であることには変わらないぞ?!」
「えぇ、もちろんそうです。牢に囚われ、強制的に真実を語るような事態にならぬよう、北山羊一族の使いは、わたしに『お守り』をくださいました」
「『お守り』・・・・・・?」
問い返す黒灰に、けれど民部長官は何も返さなかった。
仕方なく、今日は引き上げるしかないと黒灰は諦めた。
「・・・・・・何としてでも、逃がしはしないからな」
「では、黒灰殿の手の届かぬところに参りましょう」
黒灰の背に、彼がそう呟いたのが聞こえた気がした。
それが、彼との最期の会話だったのだ。
「まさか、あいつが言っていた『お守り』が、毒薬のことだとは思いもしなかったのです・・・・・・」
黒灰は悔しそうに呟く。
「結局、我輩は霜射兄弟を追い詰めてしまっただけなのかもしれない。自害なんてする度胸なんて、あいつにあるはずがないのに、あんな風に変えてしまったのは・・・・・・」
「この国の、歪んだ風土ですよ」
黒灰を遮ったのは、静かな声色で喋る風蘭。
風蘭は、苦悩の表情を浮かべる黒灰にはっきりと言った。
「霜射一族のふたりを追い詰めたのは、貴族としての歪んだあり方。そこに依存する誇り。そして、この国のあり方のせいです。黒灰殿のせいではありません。・・・・・・それに、もしも人為的な原因があるのだとしたら、その最もな原因は・・・・・・」
「・・・・・・北山羊一族・・・・・・ですな」
黒灰がぽつりと呟き、風蘭がそれに頷く。
「正直にお話しいただき、ありがとうございました。柘植殿にも近々お尋ねしようと思っていたのです。冬星州の今後のあり方も含めて」
「・・・・・・助けてやってください。柘植も・・・・・・冬星州も・・・・・・」
黒灰の懇願が悲痛に響く。
木蓮はその様子を見守りながら、複雑な思いを胸に抱いていた。