九章 擦れ違う想い 四話
四、覚悟の変化
最後に桔梗の室を訪れたのは、冬星州に左遷されると決まる前だった。
生き残った自分が何をしたらいいのか、何をすべきなのかわからず、助けを求めるように桔梗の室を訪れた。
紫苑の姿を確認すると、桔梗は何も言わなくともこちらの聞きたいことを察知してくれたようだった。
安心するような柔らかな笑みを浮かべ、紫苑とふたりきりになるために人払いさえしてくれた。
先の見えない不安に戸惑い怯えていた紫苑は、その時偶然にも再会した椿にだけ同席を求めた。
なぜ、幼馴染みの野薔薇ではなく、椿だったのか、紫苑にもわからない。
だが、椿はいつだって紫苑と真っ向から向かい合ってくれたから。
嘘偽りない真実を突き付けてくれたから。
だから、彼女にはそばにいてほしかったのかもしれない。
広い室の中に、桔梗と紫苑、それから椿だけになってから、沈黙が訪れた。
紫苑にとって息が詰まるようなその沈黙を破ったのは、椿の小さな笑い声だった。
「・・・・・・やっぱりだめだわ。あたし、『こういう』忍耐力はないんですよね」
「まぁ、それは困ったものね」
椿が舌を出しながら笑って言った言葉に、桔梗が穏やかな苦笑をもらす。紫苑は、ふたりが何の話をしているのかさっぱりわからずに、戸惑ったようにふたりの顔を交互に見つめた。
「あ、あの・・・・・・?」
「紫苑が悪いのよ?紫苑が双大后さまに相談があるというから、こうして人払いもしていただいたのに、何にも言い出さないんだもの」
「あ・・・・・・えっと・・・・・・ごめんなさい・・・・・・」
あの息の詰まるような沈黙は、紫苑の第一声を待っていたというのか。
桔梗も椿も。
おろおろする紫苑を見守っていた桔梗が、呆れ顔の椿を宥めた。
「紫苑姫は悩みを抱えていらっしゃるものね。いきなり、話し出せるはずもないわね」
「桔梗さま・・・・・・」
「甘やかしてはいけませんよ、双大后さま。紫苑にはどんな試練が待ち受けているのかわからないのですし。切り開く度胸もないといけないでしょう?」
不服そうに椿は口を尖らせるが、桔梗はそれにも穏やかに笑みを浮かべただけだった。
そして、ゆっくりと紫苑と向き直って問い掛けた。
「わたくしに何か相談したいことがあったのではないかしら、紫苑姫?」
すっと笑みを消し、凛とした姿勢で桔梗がそう尋ねると、たちまち室内の空気もピンと張り詰めたものに変わった気がした。
紫苑も姿勢を正し、しばらく自分の思いを整理するかのように巡考していたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「風蘭公子は、変わりました。水陽を追われ、冬星州に行き、反逆を決意された。その想いは貴族と民を動かし、反乱としては類を見ないほど少ない被害で終幕を迎えました」
「・・・・・・そうね」
硬質な声色で桔梗が短く答える。
桔梗の前で、あまり風蘭のことを話題にするのはよくないのかもしれない。
ふたりの親子関係は、この戦でとても複雑なものになったから。
それでも、紫苑には桔梗に聞いておきたいことがあった。
「風蘭公子は、この国を変えたいという強い願いがありました。水陽にいらした頃から、必ずこの国を建て直してみせると仰せでした。・・・・・・芍薬陛下のもとでそれを成すと。それがなぜ、彼自身が王となることを望むに至ったのか。彼の心をああも強くしたのは何なのか。強固の意志。その源をお尋ねしたいのです」
「・・・・・・それをわたくしに尋ねるのは間違えていますよ、紫苑姫。風蘭の考えが変わったのは冬星州に行ってから。そこで何があったのかは、ここにいる椿さんに尋ねるのが妥当でしょう。そして、風蘭が決して曲げることのなかった信念の源を問うのは、風蘭本人に尋ねるのがよろしいでしょう」
突き放すようにそう告げた桔梗に、それでも紫苑は怯むことはなかった。
「・・・・・・いいえ。私が真に問いたいのは、そうまでしても我が子である風蘭公子と距離を置き、あくまで彼を反逆者として敵視する、桔梗さまの強さ」
「・・・・・・わたくしの・・・・・・?」
「桔梗さまの強さを知ることができたら、風蘭公子の強さもまた、理解できる気がするのです」
「・・・・・・いいえ」
否定の声が割り込む。
桔梗でも紫苑でもなく、椿だった。
「風蘭の強さと双大后さまの強さは根本から違う。風蘭は、自分の理想のためにそれを追いかけて強くなった。誰に何を言われようと、例え国賊となり兄を討つことになったとしても、叶えたい自らの望みのために戦った。・・・・・・けれど」
すっと椿は桔梗を流し見る。何の感情も示さない桔梗の顔を。
「双大后さまはそうではないとあたしは思っています。あなたは、自らの望みのためではなく、他の誰かのために強くなった。ただその一本の道を貫くためには、たとえ肉親を失うことになっても構わないという覚悟で」
椿が言及すると、そっと桔梗は目を伏せた。
それは少なからず、『否定』ではなかった。
「・・・・・・それは、芙蓉陛下の望みを叶えるため・・・・・・だったのですか・・・・・・?」
紫苑が問うと、桔梗は伏せていた目を上げて、しっかりと彼女を見据えた。
「芙蓉陛下の望みは、全てを廃して無に帰すことで、新たな光を導くこと。その『全て』に、芙蓉陛下ご自身も含まれていました。・・・・・・あのお方は、ご自身が『新たな光』とはなりえないことをわかっていて」
桔梗の手には扇子がある。閉じられたままの扇子。
「わたくしが強いと思うのならば、それは芙蓉陛下のご遺志を託されたからに他なりません。わたくしよりももっと強く優しく・・・・・・不器用なあの方の」
「・・・・・・芙蓉陛下のご遺志・・・・・・。それは、風蘭公子と敵対し、芍薬陛下か風蘭公子、どちらかが死に至ることになるという結果もまた、陛下のご遺志だったのですか?」
解せない、といった様子の紫苑に、ふっと桔梗は笑った。
「では紫苑姫。あの戦でわたくしが何かを為したならば、ふたりは争わずに済んだのでしょうか?芍薬陛下が命を落とすことなく、風蘭が望みを果たすことなくおとなしく朝廷に仕えて」
「それは・・・・・・」
答えは否だ。
風蘭も芍薬も、望みがあった。
それは似ているはずなのに、相容れることはなかった。
始めから、あり得なかった。
ふたりが望むことは同じでも、その道は異なっていたから。
あくまで玉座を守ろうとした芍薬と、どこまでもこの国を守ることを誓った風蘭では、考えが相容れることはない。
そして、どちらが民衆の心を動かすかも明白。
「時代の変わる流れの中で、自らが確固として抱える望みを叶えたいと願うなら、自ずと強くなります。それは、自分の中で切り捨てるべきものとそうでないものを取捨選択できるようになるからなのですよ」
「・・・・・・芙蓉陛下は・・・・・・桔梗さまは、ふたりの公子さまのお命を切り捨てられたのですか・・・・・・?」
膝の上の拳を強く握りしめ、紫苑は責めるように、絶望するように桔梗に尋ねる。
その桔梗は、石像のように冷徹な瞳で紫苑を見返した。
「国の命と比べたら、それは些細な選択でしかありません」
「そんな・・・・・・」
「・・・・・・・・・そう、思っていたのです。本当にその瞬間が訪れるまでは。それがわたくしの果たすべき役割の仕方のない犠牲なのだと」
血を吐くようにそう言った桔梗の瞳が、次第に冷たいものから柔らかな暖かみを帯びてくる。
長く苦しい孤独な戦いから、解放されていくように。
小さく溜め息を吐くと、桔梗はさらにその想いを吐露した。
「そう覚悟もしていたはずなのに・・・・・・。芙蓉陛下を亡くし、国賊となった風蘭と対立することになり・・・・・・、その覚悟が揺らぎそうになるのを堪えなければなりませんでした・・・・・・。・・・・・・ここで、台無しにしてはいけないと・・・・・・芙蓉陛下のためにも・・・・・・」
「桔梗さま・・・・・・」
「・・・・・・だから紫苑姫。わたくしはあなたに伝えておきたいのです」
「私に・・・・・・?」
母のように温かく厳しい視線で、桔梗は首をかしげる紫苑を捕らえる。
「あなたは『強さ』を求められた。けれど、それは意識して得るものではないのです。己の信念と譲れぬ願い。その思いの強さと覚悟により、人は強くなるのです。・・・・・・ですが、どうか焦らないで」
桔梗は手に持つ扇子をそっと撫でながら紫苑に言う。まるで慰めるように。
「あなたは芍薬陛下の妃として、その責を負うべきだと自責の念をお持ちなのでしょう。命残ったからには、何かを為さねばならないと、焦っておいでなのでしょう。ですが、人に与えられて進む道は、必ずしも己を強くするものとはなりません」
毅然とした桔梗のその言葉に、紫苑の傍らに座る椿も黙って頷くのが見えた。
「焦らずに、『自分が望むもの』を求めてください。『誰か』のために望むのではなく、『自分が為したい』と思う望みを」
「・・・・・・それは・・・・・・いったいどんな・・・・・・」
困ったように呟く紫苑に、桔梗は苦笑を返した。
「少なくとも、『王を支えるための王妃となる』ことは『自らが為したいと思う望み』ではないかと思いますよ。無論、それが自身の誇りのためにそれを望むのであればまた別ですが、あなたのあの言葉は、あなたの純粋なまでの優しさからきた言葉でしょうから」
「そして、双大后さまがおっしゃる言葉の意味がわからないのなら、今は何も考えなくていいということよ」
最後に、椿がそう言い加えた。桔梗もそれに同意するように頷く。
「何も考えなくていい・・・・・・?」
「そう、今は何もしなくていいし、考えなくていいの。今は、与えられる現実だけ受け入れればいいわ。いずれ、紫苑が自分で見つけることになると思うから。紫苑だけが持つ、紫苑だけの望みを」
桔梗の言葉も、椿の言葉も、とてもまっすぐで凛としていて。
だけど、そのときの紫苑には漠然としていてわからなかった。
けれど一方で、どこかすっきりした気分にもなった。
たしかに、紫苑は焦っていた。
何もすることがない自分に。
何もできなかった自分に。
だから、今、自分がなにをすべきなのか、誰かに教えてもらいたかった。
道を示してくれれば、紫苑はそれに従うつもりでいたから。
だが、桔梗も椿も、それではいけないと言う。
誰かに導いてもらうのではなく、自らで切り開く道を選べと。
それがわかるまでは、何もしなくていい・・・・・・いや、するべきではない、と。
紫苑が憧れる桔梗も、尊敬する椿も、『強い』ふたりがそう言うのだから・・・・・・。
「・・・・・・私が・・・本当に何を望むのか・・・・・・。それを見つけるまでは・・・・・・」
まだ、わからない。
紫苑が何をしたいのか。
紫苑に何ができるのか。
どんな覚悟を抱けるのか。
「そう。今はまだ、天命を待ちなさい」
桔梗のその言葉に、紫苑は静かに頷いた。
その言葉が、紫苑の心に強くしっかりと響いた。
そうして、冬星州へとやってきた紫苑。
まだ、『望み』はわからない。
けれど、『やりたいこと』は見つけた気がした。
冬星州を救いたいなどとおこがましいことを言いたいわけではない。
だが、冬星州に光を射したいと思った。
ほんのわずかでもいい。
絶望しきったこの州の人々に、まだ諦めるのは早いのだと、希望の光はまだあるのだと、示したかった。
そのために紫苑は奔走した。
始めこそ、紫苑の言葉に耳を貸すこともなかった人々だったが、彼女の真摯な態度と賢明に努力する姿に心打たれ、今は次第に打ち解け始めている。
春先に芽を出した畑も、今はずいぶんと暖かくなって、芽だけでなく実も実ってきた。
少しずつ、絶望の暗黒の闇に月の滴を垂らすかのように、わずかな光が広がっていくのが感じられた。
希望の息吹が、吹いているような気がした。
こうして、冬星州の人々の役に立ちたい。
それが、今の紫苑の『やりたいこと』であった。
その紫苑の前に、彼女の『覚悟』を試す事態が訪れた。
紫苑が働く『雅炭楼』に、冬星州の財政を司り、そしてなにより、王族を拒絶する異能の一族、北山羊一族から文が届いたのだ。
紫苑宛てに、北山羊一族当主より、内密の招待状が届いたのだ――――――・・・・・・。