一章 始まりの宴 八話
8、寒昌
姉とも母とも慕う石榴に、「10日後に州主邸へ行け」と命令されてから、9日目。明日の朝、椿は11年間出ることのなかった雅炭楼から出る。
雅炭楼の妓女たちの中では「州主に身請けされるなんて」と尊敬の瞳で見る者もいたが、椿の心はずっと沈んでいた。
石榴は、ずっと椿のそばにいてくれるのだと思っていた。
椿は、石榴のそばにずっと置いてもらえるのだと思った。
だから、石榴が冬星州州主である、霜射 柘植が椿を身請けたいような意志を示したときも、反対するのだと思った。
なのに、あっさりと了承した。抵抗する椿に一喝すらして。
霜射家へ出立するまでの短い間、石榴はこれで最後と言わぬばかりに、厳しい舞踊の稽古を椿につけた。椿は決して何も言わず、ただ石榴の言われるがままになっていた。
いつもと変わらぬ石榴。
だから、椿も何もなかったかのように振舞い続けた。
だが、心の中は乱れきっていた。
心の拠り所であり、『我が家』である雅炭楼を出なければならない悲しみもあったが、だがそれ以上にやはり、石榴に『捨てられた』事実が椿を苦しめた。
柘植を殺すかもしれないと本気で思った。
「じゃぁ、しっかりやるんだよ、椿」
出立の朝、石榴は晴れ晴れしくそう言った。おもしろがるかのようにそう言う石榴の表情に、とうとう椿は心が折れた。
「あたしは、もうここには戻ってこれないんですか、石榴姐さんのもとには・・・・・・」
「なんだいなんだい。最初から負ける気で戦に行くんじゃないよ」
呆れたように、石榴は椿の髪をなでた。愛しい幼子をなぐさめるように。
「戦?」
「そうさ。椿はこれから戦に行くんだ。勝つつもりで戦に挑まなきゃ、呑まれちまうよ」
優美に笑う石榴を見ながら、椿は先ほどの彼女の言葉を思い出す。
「負けたら、雅炭楼に戻ってこれるんですか?」
「違うね。勝っても負けてもあんたはここに帰って来るんだよ」
思いもかけない石榴の言葉に目を見張る椿の頬を、石榴は軽く叩いて言い加える。
「忘れたのかい。この石榴の跡を継げるのは椿だって言ったろう。だからいいかい。せっかくなら戦に勝っておいでって言ってるんだよ」
どんな戦か、なんて椿にはどうでもよかった。
戻ってこれる。
ここに。石榴の元に。
「・・・・・・それは命令ですか、石榴姐さん?」
自信に溢れた不敵な笑みを浮かべた椿を見て、石榴も同じ笑みを浮かべる。
「石榴の妹分に恥じない戦いをしておいで」
冬星州州都、寒昌は氷硝からさらに2つの山を越えた場所にある。幸いと、寒昌と氷硝は大きな河でつながっていることもあり、椿は船で寒昌に向かった。
陸路で行けばおそらくひと月はかかるであろう道を、椿は10日ほどで到着した。
妓楼で華やかな氷硝とは違い、州都寒昌はなんとも寂しい都だった。灰色の空が都を包み、数少ない屋敷もひっそりと肩身がせまそうに建っていた。
待ち歩く人々にも覇気はなく、店を開いている店主さえも、ぼんやりと人々の往来を眺めているような有様だった。
寒昌を初めて訪れた椿は、この様子を見て驚いた。
普段から賑やかな氷硝の町並みを見ているせいか、よりいっそう、寒昌の寂れ具合が際立って見える。まがりなりにも、ここは州都。
これではまるで、椿が生まれたあの村のようではないか。
違うのは、ここにいる人々には毎日の食糧があるくらい。
いや、路上で寝起きしている人も見受けられるところを見ると、全員がそうとも限らないかもしれない。
州都さえも救うことのできない、州主。
氷硝が華やいでいるのは、各妓楼たちの技量だ。決して州主の情けではない。
貧しい村だけでなく、州主は州都さえも見捨てたというのか。
それではまるで、26年もの間、王政を放棄し続けている王のようではないか。
「遠路旅路ご苦労だった」
霜射邸に着くと、州主柘植は一言そう言った。そして、それだけ言うと、あとは勝手にしろとばかりに、さっさと屋敷の中に入ってしまう。
「あたしは、どうすればいいのでしょう?」
去っていく柘植の背中に向かって、椿はそう問いかけた。彼は足を止めることも、振り返ることもなく、
「今日は遅い。明日話す」
とだけ言って、自身の室へ消えてしまった。
なにがなにやらさっぱり事情が読み込めない椿だったが、案内された室におとなしく落ち着いた。
さすが州主邸の客間だけあって、広かった。雅炭楼でも自分の室を持たない椿は、ひとりでこの大きな室を与えられたのが落ち着かず、そわそわとしてしまう。
その客間は、客間の割には、生活観あふれる室だった。客間というよりも、なんだかどこかの姫君の室のようにさえ見えた。
そう思って、ふと、椿は思い出す。
そういえば、柘植には娘がひとりいたはずだ。病弱な姫君。たしか、2年ほど前にもその姫君はひどい病のために臥せっていたと聞いたことはある。
同じ11貴族としてやはり他家の動向は気になるのか、瓶雪親分がよくそんな話をしてくれたのを思い出す。
たしか、名は―――――――――・・・・・・
「雲間・・・姫、だったっけ・・・?」
年の頃を考えれば、妃の話が出てもおかしくないはずだ。本家の姫君。嫁ぐべき公子も21歳。
なのに、霜射家の姫君が入内するという噂は、氷硝で聞いたことがない。
様々な情報が、州都よりも行き交っているというのに。
なぜ。
ふと、卓上の上に、扇子が置いてあるのを見つける。何気なくそれを広げると、そこには桃色のかわいらしい花が描かれていた。
クモマ草。
「やっぱり、ここは雲間姫の室・・・・・・?」
ならば、この室の主はどこへ?
椿は軽く首を振った。
考えても答えは出ない。すべては憶測。明日話すと言った柘植の言葉を信じるしかない。
椿は、おとなしくその室を使わせてもらうこととした。
次の日、約束どおり、柘植は事の次第を椿に教えた。
単刀直入に。短的に。前触れもなく。
「雲間姫の身代わりになってほしい」
と。
椿は、一瞬なにを言われているのかさっぱりわからずに固まった。
「・・・は?」
「同じことを二度言わすな。頭の悪いやつは嫌いだ。雲間姫の身代わりになれ。そう言った」
『なってほしい』の懇願から『なれ』の命令に変わった。
これだから偉いやつは。
石榴の命令でなければ、椿は今頃柘植の後頭部を蹴っ飛ばしていたかもしれなかった。
「おっしゃっている意味がまったくわかりませんが。雲間姫の身代わりに、とはどういうことです?雲間姫はどこにいらっしゃるのですか?」
「どこに、か?さぁ・・・どこだかな」
柘植の瞳が冷たく光る。そこから感情を読み取ることは難しい。
「わたしだって雲間が死んでからどうなったかなんぞ知らん。雲間はここにいない、それだけだ」
柘植がさらっと言った言葉に、椿は絶句した。
今、なんと言った。
雲間姫は、死んだ・・・・・・?
「雲間姫が・・・・・・亡くなられたなんて・・・知りませんでした・・・」
「もう2年前の話だ。病弱な姫だったが、とうとう重い病にかかり、死んだ。この事実を知るのは、瓶雪 黒灰と石榴くらいだろうな。やつらには『あっち』の仕事の関係で、知っておいてもらう必要があったからな」
呆然とつぶやく椿に、無感情な柘植の言葉がかぶさってくる。
椿は、雲間姫が2年前に死んでいた事実に驚くと同時に、親しい瓶雪親分と、石榴もそれを知っていたのに驚いた。
「ふたりとも、そんなことなにも・・・」
「当たり前だ。こんな大事なことぺらぺら喋るようじゃ『あっち』の仕事はやっていけない。・・・・・・おまえも石榴の跡を継ぐ気があるなら、よく覚えておくことだな」
たしかに、冬星州州主の娘が死んだとは、他の11貴族には知られたくはないだろう。
跡目がなくなれば、これを幸いにと他の11貴族が霜射家をつぶしにかかるだけではなく、霜射家の分家の者たちも、本家の跡目をどうするかとひと騒動になるだろう。
だが。
「そんなこと、いつまでも隠し通せていけるはずがないではありませんか。雲間姫はすでに亡くなっていると、どうして公示しないのです?」
「雲間姫は、妃候補だったからだ」
たった一言、柘植はそう返す。
その一言でどう理解しろというのか、けれど、彼はそれ以上説明しない。
仕方なく、椿は考えてみる。
雲間姫は妃候補だった。
それは知っている。本家の娘だ。妃候補となるのは当然だろう。
それが、年頃になって亡くなってしまった。
朝廷や後宮の者たちは、雲間姫が入内してくるのを待っていたに違いない。だが、当の姫君が亡くなってしまい、入内ができなくなってしまった。
王家とのつながりが、絶たれた霜射家。
本家の跡継ぎもいなく、王家に召しだせる姫もいない。
そうすれば、分家の者たちが黙ってはいない。
それよりも、朝廷より何度も雲間姫入内の催促があったかもしれない。
条件が悪かった。
もし、雲間姫以外にも姫がいたら。もしくは、跡継ぎがいたら。
正直に雲間姫の死を公表できたかもしれない。
柘植の一挙一動を見張る分家の者たち。
絶えることなく送られ続ける後宮からの催促の文。
もう柘植にあとがないのだと、公表するには柘植の矜持も高すぎたのかもしれない。本家の当主としての矜持が。
そして、雲間姫の死は隠された。
だが、いつまでも隠し通せない。他の11貴族本家の姫君の入内の日取りも決まった。雲間姫はまだかと後宮より再度催促されたに違いない。
そこで、柘植は手を打ったのだ。
「・・・・・・あたしを、雲間姫として入内させるということですか・・・?」
「始めからそう言っている」
表情をまったく変えずに柘植は答える。
『雲間姫の身代わりになれ』とはこういうことなのか。
「あ、あたしにできるわけ、ないじゃないですか?!私は11貴族どころか、妓女ですよ?!」
「わかっている。だが、妓女ほど教養の高い者はいない。そうだろう?」
たしかに、妓女は最低限の教養、芸能がなければ、上に這い上がれない。自らを高めるための精神においては、貴族の姫君たちよりも高いかもしれなかった。
「おまえは、あの妓楼のなかでも、一番若く根性があると思った」
「根性?」
聞き返す椿の目を、柘植はじっと見返す。
まただ。柘植の値踏みするような目。
どうしても柘植に見られると、反発心もあって椿は睨み返してしまう。
「その目だ。他の姫君に混じって入内するんだ。根性がなければできない」
声だけは満足そうにそう言うが、顔の表情はまったく変わっていない。
「おまえに有無は言わせない。石榴は承諾したんだ。おまえには雲間姫として、半月後には夏星州に行ってもらう」
ぴしゃっとそれだけ行って、さっさと柘植は立ち去ってしまう。
冬星州を治める者でありながら、自らの一族、というよりもむしろ自分だけの誇りを守るためだけに、椿を利用しようとしている。
これだけ乱れる冬星州を放っておいて。
椿は悔しさに唇を噛んだ。
こんな話、聞かなかったことにしてさっさと雅炭楼に帰ろうかと思った。
だが、石榴の言葉を思い出す。
「石榴の妹分に恥じない戦いをしておいで」
そうだ。
石榴は、『戦』だと言っていた。
そして、戦には負けるのではなく勝つつもりで行けと。
椿は、覚悟を決めた。
愚かな冬星州州主のためではなく。
ましてや、王家のためでもなく。
石榴のため。
そして、自分自身の矜持のために。
雲間姫として、その身代わりに入内する決意を椿は決めた。
それは、海燈で思わぬ出会いと奮闘が起こる、一月前のできごとだった。