八章 開かれる道 七話
七、断崖の覚悟
今まで、これほどまでに誰かの役に立ちたいと強く思ったことはなかった。
いつも守られてばかりいたから。
たしかに、王の役に立ちたいと思って、幼い頃から勉学に勤しんだ。
けれど、その身に付けた知識が、実際に王の役に立つことはついぞなかった。
そもそも、水陽にいた頃に、自分自身が役立ったと思えることは何一つなかった。
みんな、自分を守るために動いてくれていたから。
だから、冬星州に来て初めて、紫苑はこの州にいる人たちのために役に立ちたいと強く思い始めていた。
教養として身に付けた知識以上の知識が、それには必要だった。
残酷な現実を、きちんと自分の目で見る必要があった。
冬星州の貧困を、なんとかして救う術を見出だすために。
紫苑は、自分の中で感じたことのない熱い何かが込み上げてきているのを感じていた。
「え?冬星州を?」
唐突な紫苑の申し出に、もちろん椿も、傍らにいた野薔薇も目を瞬いた。
だが、紫苑はそんなふたりの反応も気にせず力強く頷いて力説した。
「この前の商人の方が、冬星州の土壌でも育てることのできる作物の話をしてくれたのよ。それに、水路をしっかりと確保すればもっと分野は広げられるかも。土壌の悪いところは、作物ではない産物を見つければいいわ」
「え~と、紫苑?なんだかこの前から張り切ってるみたいだけど・・・・・・現実はもっと切迫してるのよ?」
幼い子供を諭すように、椿は紫苑に苦笑しながら話す。
「理想だけではこの州を救えないわ。州主でさえ匙を投げたんですもの。こうしてこのまま過ごすしか・・・・・・」
「霜射さまは匙を投げられてなどいないし、この州はこのままでいいわけないわ」
静かに、けれどしっかりとした口調で紫苑が椿の言葉を遮って否定した。
その瞳は、椿が見たことないほど強い光を宿している。
けれど、紫苑の言い分は聞き捨てならなかった。
「・・・・・・州主が匙を投げていない?どうして紫苑がそんなことわかるのかしら?」
「椿ちゃんこそ、なぜわからないの?なぜ、霜射さまをそんな目の敵にするの?」
「・・・・・・っ、あの人のやり方が汚いからよ!!」
間で聞いていた野薔薇が驚くほど大きな声で、椿は激昂して紫苑に言い返した。
堰を切ったように、彼女は不満を吐露させる。
「これだけ貧困に喘いでいるのに、州主は貧しい村や町に見向きもしない。それどころか、この氷硝では過多なほどの税を徴収されている。己の懐を潤すためだか知らないけどね。加えて、偽物の娘姫を王妃に据えようとしたのよ?!そんな人を、なぜ信じられるの?!石榴姐さんのことだって・・・・・・っっ!!」
声が詰まり、唇を噛み締める椿に、紫苑はそっと言った。
「椿ちゃん、そうじゃないわ。霜射さまは私利私欲を求める方ではないわ。本当は、椿ちゃんだって、そんな霜射さまの人間性には気づいているのでしょう?こうして、ここで色々な人を見てきた椿ちゃんなら」
「・・・・・・それは・・・・・・」
肯定はしないが否定もしない椿の態度に、紫苑はそれ以上追求しようとはしてこなかった。
はらはらと成り行きを見守っているのは野薔薇ひとりだ。
やがて、小さく溜め息を吐いてから、椿が口を開いた。
「・・・・・・わかったわ。とりあえず、紫苑の要望通り、冬星州の実態を見せてあげる」
「ありがとう、椿ちゃん!!」
「・・・・・・そうやって喜ばれても、複雑な心境だけどね」
苦笑混じりに再度嘆息する椿に同調するように、野薔薇も同時に小さく息を吐いていた。
数日後、約束通り、椿は紫苑を連れて氷硝近辺の村を見て回った。
椿はただ「見る」だけだと思っていたから、紫苑を馬の背に乗せてゆるゆると闊歩していた。
ところが、村が見えてくると紫苑がとんでもないことを口にしたのだ。
「村の中を歩いてみたいから、馬から降りてもいいかしら?」
予想外の紫苑の発言に、椿は思わず絶句する。だがすぐに我を取り戻して、激しく頭を振った。
「だ、だめよ、危ないわ」
「危ない?どうして危ないのかしら?」
「自分の身なりを見てみなさい、紫苑。彼らとの違いを。彼らは、身なりのいいあなたにすがってくるわ。追い剥ぎのようにね」
わざと紫苑を怖がらせるために、低く冷たい声で椿は忠告したが、紫苑は表情を変えることはなかった。
「いいわよ。もしも肌着さえも奪われてしまったら、椿ちゃんの上着を貸してね」
むしろにこりと笑いながらそう言ってのけた紫苑に、椿は反論する言葉が見当たらない。
椿の知る紫苑ではないようだ。
こんなにも強く、生き生きとしている彼女は。
椿が制止する様子がないのを見て、紫苑はひらりと馬の背から飛び降りた。
「ちょ、ちょっと待って、紫苑!!」
すたすたと村に向かって歩いていく紫苑を、椿は慌てて追いかける。
紫苑に言ったことはただの脅しではない。現実だ。
紫苑がどこまで理解し、覚悟しているのかわからないが、本当に身ぐるみすべて剥がされてしまったらたまらない。
すると、やはり予想に反することなく、まるで墓場から蘇った死者のように、ずるずると足を引きずりながら村人が紫苑の周りを囲んでいく。
それはまるで死神が彼女を取り囲むかのようなおぞましい光景でもあり、彼らの放つ腐敗臭がさらに不気味さを増幅させていた。
冬星州で生まれ、同じくらい貧しい村で育ち間引きに遭いそうになった椿でさえそう思うのだ。
貴族の姫として大切に温室で育った紫苑の心中は・・・・・・。
「その衣・・・・・・こちらにおくれ・・・・・・」
「食べ物・・・・・・なにか、食べるものを・・・・・・」
「なんでもいい・・・・・・なにかお恵みを・・・」
紫苑に平伏して頼む者もいれば、彼女の衣を力一杯引っ張る者もいる。
期待と憎悪、羨望と絶望、そんな感情が渦巻いたいくつもの虚ろな瞳が紫苑を見つめる。
同じ光景を、椿は過去に一度見たことがある。
風蘭が初めて冬星州を訪れたときだ。
正義感溢れ、理想を夢見て追いかけていた当時の彼は、現実の有り様を直視して、少なからず衝撃を受けたようだった。
同じように、彼にすがりついてきた貧民たちに、どうしていいのか戸惑っていたようだった。
想像以上の悲惨さに動揺が走っているのが、端から見ても丸分かりだった。
そうして、ただ求められるだけ与えようとする彼を叱咤したのは椿だった。
ただの一過性の同情心でこの場を過ぎ去らないで欲しかった。もっと、ありのままの現実を見て、受け入れて欲しかった。
そんな椿の思いを知ってか知らずか、冬星州を横断した風蘭は、「救いたい」とそう宣言した。
そのために具体的にどうすればいいかは、まだ彼の中でも模索段階なのだろう。
椿や黒灰、そして柘植もまた同じ状態だったため、誰もそんな風蘭の抽象的な宣告にも何も言わなかった。
そこに込めたのは期待ではないことは確かだ。どちらかといえば、「希望」を託した形になった。
その猪突猛進な理想者である風蘭でさえ鑪を踏んだ光景だ。
紫苑も恐怖のあまり声も出せずに立ち尽くしているのかもしれない。
椿が早歩きで紫苑に近付いていくと、ふと、紫苑は顔をあげて貧民のひとりの手をとった。
「飢えと寒さは・・・・・・さぞお辛いのでしょうね」
労る言葉。
だがそこにあるのは同情ではない。
確信めいた確認。
椿だけでなく貧民たちでさえ紫苑の意図を図りかねてしまう。
だが、貪欲な彼らの手は、行動は、止まらなかった。
今にも紫苑の衣を剥がしとりそうな貧民たちに、椿が声を荒げようとした瞬間、その紫苑が自ら衣を脱いだ。
「こちらが欲しいのであればお持ちください。・・・・・・ですが」
紫苑の衣に群がった貧民たちを手で制し、彼女は真剣な眼差しと声色で問う。
「ですが、果たしてこの衣一枚であなたがたの将来が安寧なるものとなるのでしょうか。この衣が果たせるのは、せいぜい数日間の飢えと寒さを凌ぐものでしかないはずです」
きっぱりと堂々とそう言い切った紫苑の姿に、椿は誰かを重ねてしまう。
―――――――今、その「誰か」を思い出すことはできないが・・・・・・。
「・・・何が言いたいんだよ、お嬢ちゃん。あんたみたいな小綺麗な格好したお嬢ちゃんに、オレたちの何がわかるんだよ」
ぶつぶつと物乞いする貧民の群れの奥からあがる声。
そこには怒りを露にした瞳を宿した男たちがいた。
「正義感だか同情だか知らないが、興味本意でここに来たなら、置いてくもん置いていって、さっさと帰れ。その綺麗なお顔をぐちゃぐちゃにされたくなかったらな」
「ちょっと、あんたたち・・・・・・っ!!」
あまりの言い様に椿が彼らを諌めようと口を開きかけたが、再び紫苑によってそれを止められた。
「紫苑・・・・・・?」
彼女に掴まれた腕を見つめながら椿が紫苑の名を呼ぶ。
彼女はしっかりと前を見つめていた。
「あなたがたがお怒りなのは、貴族にですか?州主に?国や王にですか?」
「全てだよ!!飢えなど経験したことのない奴ら、全員だ!!」
「では、あなたがたはその飢えと寒さが一時的に救われればそれで満足なのですか?雛鳥が親鳥に餌を与えられるのを待つように、あなたがたは国や貴族が動き出すまでそうしてじっと待ち続けるおつもりですか?」
「・・・・・・何が言いたい?!」
「簡単なことです。みなさんがそれぞれ生産能力を持つべきだと申し上げているのです」
にっこりと微笑む紫苑の言葉を、この場にいる何人が理解できたことか。
まるで異国語を聞いたかのように紫苑を凝視する貧民の心境が、椿も少なからずわかった。
当の紫苑といえば、みながぽかんとしているのを横目に、自らの論議を展開させる。
「無論、いきなり生活を潤すような生産など見込まれません。ある一定期間までは州や国に援助してもらうことも欠かせません。ですが、援助は恒久的には約束できるものではありません。みなさん自身の生活の安定のためにも、自立することが何より大切なのです」
「そんなことは言われなくともわかってる!!だが、この現状でどうしろというんだ?!荒れ果てた土壌で何ができる?!実りのない季節には冬眠でもしていろというのか?!」
次々とあがる不満と抗議。
紫苑はそれでも毅然とした態度でそれらに立ち向かった。
「実りのない季節は冬星州以外にも訪れます。けれど、他州はその季節が訪れても飢えることもありません。備蓄があるからというのも理由のひとつですが、彼らは作物を育てる以外の生産力も持っているから、心にゆとりがあるのです」
「作物以外の生産力・・・・・・?」
「物を作る技術、生かす知識です」
自信に満ちた声色で紫苑がそう言えば、先程まで喚き散らしていた集団が戸惑いで視線を泳がせる。
「そ、そんなもの・・・・・・読み書きもできないオレたちには・・・・・・」
「では、学ぶ機会を設けましょう。州主や国にそれを働きかけます。ですが、あなたがたがその気になっていただかなくては、それにより得られる効果を国に示せません。益のないものに投資はされませんから」
「言っている意味がよく・・・・・・」
戸惑いの色を隠せない貧民たちに、紫苑は自信と確信をこめた瞳で見返した。
「あなたがたを飢えと寒さから救いましょう。けれど、あなたがたもまた、そのための努力をしてください。その助力はいたします」
「努力・・・・・・」
まるで初めて聞いた単語のように、貧民たちはそれを呟く。
その傍らにいた椿は、紫苑の気迫に完全に圧倒されていた。
まさか、紫苑がここまで考えているとは思わなかったし、こんなに堂々と彼らに提案するとは思わなかったのだ。
冬星州を救いたい。
かつて、それは風蘭も椿にそう言った。今もその思いはあるだろう。
だが、実際に風蘭は貧民たちにどう接していいかがわからなかったのだ。
彼の中には、この事態を王や王族たちが見過ごしてきた自責の念が強かったから。
そして、即座にどうしてやることもできない己の無力さを悔いていたから。
けれどどうだろうか。
同じ言葉を放った、ついこの間までは王妃として後宮にいた姫君が、毅然とした態度で貧民たちに説いている。
わずかながらの希望の光を導こうとしている。
彼女の持つ、その知識と人脈で。
貧民たちはまだ、その実感が沸かない様子で、ぽかんと紫苑を見返しているだけだったが、椿は確かな道しるべをそこに見出だした気がした。