八章 開かれる道 三話
三、窮地での覚悟
寒くて辛くて暗い場所。
紫苑たちが想像していた冬星州というのはそういう場所だった。
だから、椿たちと共に冬星州にある氷硝に到着したとき、その町の華やかさに素直に驚きを隠せなかった。
そんな紫苑と野薔薇の表情を見て、椿がくすくすと笑いをもらした。
「もっと陰気なところだと思った?実際、州都である寒昌は、想像通りの町だけどね。州主のように、暗~い場所」
「つ、椿ちゃん」
州主である霜射 柘植を目の前にして、椿はさらりと彼の悪口を言うものだから、一緒にいる紫苑の方が慌ててしまう。
けれど、柘植も特に気にした様子もなく、平然と会話を無視して、馬車の窓から見える景色に視線を向けている。
椿も彼に対してこれ以上何かを言うつもりはないらしい。
思い返してみれば、水陽からの道のりでこのふたりが言葉を交わしたのは、片手で数えられる程度かもしれない。
何日もの長旅であったにも関わらず。
州都である寒昌は、氷硝よりもさらに奥地にあるので、氷硝の町で紫苑たちは柘植と別れることになった。
「これからもどうぞよろしくお願いいたします、霜射さま」
別れ際、紫苑が深々と頭を下げながらそう言えば、柘植は眉ひとつ動かさずに淡々と返した。
「水陽を出る時も、道中も何度も聞きました。わたしは陛下からあなたのことを任されているのですから、無下にするようなことは致しませんよ」
「はい、ありがとうございます」
いっそ素っ気ないほどの柘植の言葉にも、紫苑は素直に頷いて礼を言った。
簡単な別れの挨拶と共に柘植と別れると、椿は呆れたように紫苑に言った。
「紫苑ってば、州主にあんなに丁寧に応対しなくてもいいのに」
「でも椿ちゃん、霜射さまにはこれからもお世話になることも多くなるし、お屋敷にも招待していただいたのよ?椿ちゃんが言うほど、冷たい人ではないと思うけど・・・・・・」
「紫苑は素直すぎるのよ。これからここで働いてもらうにはちょっと心配だわ」
「大丈夫よ、がんばるわ。ね、野薔薇ちゃん」
にこにこと実に楽しそうに、紫苑はそう言いながら目の前の楼閣を見上げる。傍らに立つ野薔薇は、苦笑して頷くしかない。
「ここまで来ちゃったら、あとはがんばるしかないわよね」
「これからよろしくね、椿ちゃん」
にっこり純真無垢な笑顔で紫苑にそう笑いかけられて、椿は思わず心配のあまり顔を引き攣らせながら、紫苑の隣に立つ野薔薇にこっそり尋ねた。
「ねぇ?紫苑って・・・・・・ここがどういうところか、わかっているのかしら?」
目の前の楼閣はどこからどう見ても、妓楼にしか見えない。とすれば、紫苑がそこがどういう場所で、どういう仕事をするところなのか、わかっているのか、椿は思わず不安になってしまったのである。
それに対する野薔薇も真面目な顔で椿にこっそりと返す。
「・・・頭のいい子だから、たぶん、知識としてはわかっていると思うけど・・・・・・。でも、あくまで知識でしか知らないから、あまり実情をわかっていないかも・・・」
「・・・・・・なるほど」
「まさか、紫苑にそういうことを・・・・・・?」
「あら、働くってそういうことじゃない?」
顔色を変えた野薔薇に、椿は意地悪く笑う。その返答に野薔薇がさらに顔色を失っていくのを、椿はおもしろそうに見ていた。
「それで?あなたはなにができるのかしら、野薔薇さん?」
「・・・・・・私?」
「そうよ。紫苑と一緒にここで暮らすというのなら、紫苑共々働いてもわらなきゃ。そのためにも、特技を聞いておかないとね?」
「まるであなたがここの主であるかのような物言いね」
椿と野薔薇の間にピリピリと緊迫した空気が漂う。
椿の意地悪な笑いにも負けずに、野薔薇は不敵な笑みを浮かべて彼女に対抗した。けれど、それに対する椿も、至って強気だった。
「そうね、いずれはあたしがここの主になるわ。今はまだ経験値が浅いから、他の人に任せるしかないけれど」
『黒花』を継ぐより前から、それは石榴に言われ続けていた。
いずれ、この『雅炭楼』を継ぐのは椿だと。
だからこそ、石榴の妹分として、幼いころから育てられてきたのだから。
今にして思えば、石榴は『雅炭楼』を継がせるのと同時に、『黒花』を継がせるつもりだったのかもしれない。
「野薔薇ちゃんは舞踊が得意よね」
椿と野薔薇の険悪な雰囲気などまったく気にせずに、紫苑がにっこりとふたりに言った。
一気に毒気を抜かれたふたりは、顔を見合わせてから小さくため息を吐き合った。
「・・・・・・舞踊が得意なのね、野薔薇さん?」
「・・・野薔薇でいいわ。どうやら私はあなたに雇われる立場のようだし」
「あたしも椿でいいわ。それで、舞踊が得意というのは?」
「出来るのは宮廷舞踊よ。ここで踊るような舞踊ではなく」
「これは素敵な嫌味と共にお答えいただいてありがと。心配ないわ、むしろ宮廷舞踊を踊る踊り子というのも物珍しくて客受けすると思うから」
あっさりと野薔薇の嫌味を受け流した椿は、すっと背筋を正し、紫苑と野薔薇に向き直って優美に笑んだ。
「ようこそ、星華国一の妓楼、『雅炭楼』へ」
椿に続くように『雅炭楼』の扉を潜ると、大勢の妓女たちが椿を出迎えていた。
「おかえりなさい、椿ちゃん!!」
「お疲れさまでした、椿さん」
「椿姐さんのご指名のお客人たちが寂しがっていましたよ」
みながみな、椿の帰りを温かく迎えていた。紫苑と野薔薇はどうしていいかわからず、ただぽつんと輪の外で立ち尽くしていた。
すると、椿を囲む妓女たちのなかで、暗い表情のまま彼女に話しかけた者がいた。
「・・・・・・椿さん・・・石榴姐さんのことは・・・・・・」
「・・・・・・うん・・・ごめん、姐さんを守れなくて・・・・・・」
「そんな・・・・・・」
悲痛な表情で椿に話しかけた妓女は、椿が謝ると慌てて首を横に振った。
「椿さんのせいではないです・・・!!ただ・・・なんだか現実だと思えなくて・・・・・・」
「石榴姐さんを失ったことは大きな悲しみだわ。・・・でもね、今日はみんなに新しい仲間を紹介しようと思うの」
「新しい仲間?!」
その場にいる妓女たちが一斉に顔を上げ、初めて気がついたかのように紫苑たちに目を向けた。
椿は軽く頷いてから、紫苑たちを紹介した。
「彼女は野薔薇。そこそこイイトコで育ったこともあって、特技は宮廷舞踊。ね?」
「・・・・・・ええ」
最後の椿からの問いかけに、野薔薇は顔を引き攣らせて頷いた。
たしかに、妓楼で働くにおいて、姓など不要であるから名乗ることはないと椿に言われていた。
それはいい。
野薔薇はともかく、紫苑は女月一族であることが知られたら、いつか元王妃であることがばれてしまう恐れがある。
もしもそうなったら、辺りは混乱してしまうに違いない。
だから、紫苑も野薔薇も、姓を名乗らなくていいことには安堵していた。
けれど、色々な理由を省略するためとはいえ、ものすごい大雑把すぎる説明ではなかろうか。
「へぇ、宮廷舞踊!!貴族の客人なんて喜びそうね!!」
「私たちも教えてもらえるかしら?」
「あら、だめよ。あなたに優雅さはないもの」
「ひどい~!!でも素敵、伴奏者も腕が鳴るわね」
だが、ここにいる妓女たちは詳しい理由などどうでもいいらしい。嬉々とこれから野薔薇をどうやって活躍させるか話し合っている。
「それで?そちらのお嬢さんは何が特技なのかしら、椿ちゃん?」
妓女のひとりが、野薔薇の隣でちょこんと立っていた紫苑のことを尋ねた。
椿がどう説明するのかと野薔薇が見守るなかで、椿はあっさりとこう告げた。
「この子は紫苑。あたしと同い年よ。この子の特技はまだ模索中なの。だから、みんなの見習いとして働いてもらうわ。いいでしょ、紫苑?」
「わかったわ、椿ちゃん」
最後の一言に紫苑が頷く。
果たして、紫苑は妓楼での仕事がどういったものか、現実を受け入れていけるのか、野薔薇はもとより椿もはらはらしながら見守っていた。
そんなふたりの心配を他所に、紫苑は『雅炭楼』での生活を生き生きと過ごしていた。
時に野薔薇の舞踊の伴奏者となったり、共に踊ったりもした。
本人は謙遜するが、『妃審査』を受けるために、ありとあらゆる教養を叩き込まれている紫苑は、何でも卒なくこなした。
野薔薇の舞踊の伴奏ひとつを取っても、弦を始め、琴や笛も演奏した。
しかし、野薔薇と共に舞えば、たしかに野薔薇が一際上手の踊り子なのだと認識してしまうものとなった。
だが、紫苑の舞が劣っているわけではない。野薔薇が上手すぎるのだ。
舞踊が不得意な椿が悔しくなるほどに。
加えて、紫苑は計算も早かった。
そのため、早々に帳簿係が紫苑に助けを求めるようになっていた。
そうやって、紫苑も野薔薇も、少しずつ『雅炭楼』での生活に馴染んでいった。
紫苑が客間にあがるときは、いつも椿が一緒だった。
その日も、椿には馴染みの商人が客として鎮座していて、紫苑と野薔薇が舞を舞っていた。
ふたりの宮廷舞踊は物珍しさもあり、特に普段はその舞を目にすることもできない貴族ではない客人たちにうけた。
ひとしきりふたりの舞を見届けてから、その商人は上機嫌に椿に話しかけた。
「いやぁ、噂に違わぬ、優雅な舞だったよ。宮廷舞踊なんて、本来我々は目にすることもできないからね。いい子達を入れたね」
「もったいないお言葉ですわ」
真っ赤なツバキの花をあしらった着物に身を包んだ椿は、少し伏せ目で礼を述べた。
そうしながら、商人に酌をすることも忘れない。ところが、その男は椿からの酌を手で制すると、杯を紫苑と野薔薇に向けた。
「どうだね、ご両人。一杯わたしに付き合ってはくれないか」
「えぇっと・・・・・・」
野薔薇や紫苑は接客は仕事ではない。椿にも、それはしなくていいと言われている。
だから、それまでは淡々と舞や演奏を終えると、静かにその場を退場していた。
ところが、こうして誘われてしまったときにはどうしたらいいのか、ふたりは困惑してしまった。
すると、客人の隣に寄り添うように座っていた椿が、苦笑しながら彼に言った。
「申し訳ありません、彼女たちは次のご予約がございまして・・・・・・」
「なんだ、一杯の酒も付き合えないっていうのか?!」
「それは・・・・・・」
たちまち不機嫌になる客人に、いつもは余裕顔の椿も困ったような笑みを浮かべる。
野薔薇がどうやってこの場を逃れようかと思案していたその瞬間、信じられない光景が目の前で起こった。
なんと、紫苑がその客人の前に座り、杯を受け取ったのだ。
「それでは、一杯だけいただきますわ」
「そうか、そうか」
すぐさま機嫌を直した客人の傍らで、椿が呆気にとられたように紫苑を凝視している。
野薔薇もまた、同じだった。
紫苑がお酒が強いなどと聞いたことはないし、もとより、飲めるのかも聞いたことがない。
それなのに、何のためらいもなく杯を受け取り、つい、とその中身を飲み干したのだ。
「おぉ、いける口だな」
「とてもおいしかったです。ありがとうございました」
「いやいや、こちらもいいものを見させてもらった。宮廷舞踊などどこで習ったのだね?貴族が君たちに教えたりしたのかな?」
まさか貴族の姫が妓楼で働いているなど露ほどにも思わぬ商人に、紫苑はあいまいに笑って返した。
「ご満足いただけてよかったです」
「それでは、わたくしどもはこれにて失礼いたします」
野薔薇がすぐさま被せるように挨拶をすると、紫苑の手を引いて室を出た。
あとは椿がなんとかしてくれるだろうと思って。
「紫苑、あなた、大丈夫なの?!」
「え・・・・・・なにが?」
心配する野薔薇に対し、きょとんとした表情を浮かべる紫苑。
「お酒・・・・・・大丈夫?まさか紫苑があんな行動に出るなんて思わなかったわ」
「でも、お客様のご機嫌を損ねてしまったら、椿ちゃんたちも困ると思ったから・・・・・・。一杯くらいならって思って。おいしかったから、大丈夫よ」
にっこりと微笑む紫苑に、野薔薇は脱力感を覚えた。
きっとこの場に椿がいたら、野薔薇と同じ表情を浮かべたに違いない。
紫苑は、何事もなかったかのようにけろりとした表情で、次の演目の用意を始めている。
そんな彼女の様子を見守りながら、野薔薇は前途が不安になってくるのであった。