一章 始まりの宴 七話
7、愁紅
長秤家次男、楓から紫苑へ、屋敷への招待状が届いた。愁紅に一時的に帰宅し、落ち着いたから遊びにおいで、という内容の文だった。
「父様、私、明日愁紅に行ってきますね」
文をもらった次の日の朝には、紫苑は待ち構えていたように、いそいそと用意して旅立った。
楓に会うのは、もしかしたら10年ぶりくらいになるかもしれない。彼が出仕してしまってから、なかなか会う機会に恵まれなかった。
紫苑の住む秋星州、州都奏穂から馬車に乗ってそう遠くもない距離に、長秤家が拠点とする愁紅があった。愁紅は、治安はさほど悪くないはずなのに、山に囲まれている地形のせいか、山賊や盗賊が絶えず、長秤家の頭を悩ましていた。
その長秤一族は、こぞって皆、医術に長けていた。例外なく一族全員が医官として出仕経験があった。
楓は、そんな医者一族の指し示す道ではなく、文官として出仕することを強く望んだ若者だったのだが、一族の猛反対を受けて、医官として水陽に出仕していった。
根がまじめな楓なので、意にそぐわない医官の道であっても、こつこつと地道にその階段を登っていた。けれど、紫苑はわかっていた。楓は、決して文官の道もあきらめたわけではないことを。
いつか、楓には文官として朝廷に出仕してほしい。
紫苑はいつもそう願っていた。
「これはこれは、紫苑姫。わざわざお越しいただき、ありがとうございます」
長秤家の屋敷に入ると、開口一番で屋敷の主人からの挨拶が待ち受けていた。
楓の生まれた長秤家は、分家。
本家の姫である紫苑が、分家の次男である楓をわざわざ訪れるのは、長秤家にとっては栄誉なにものでもなかった。
紫苑も楓もそこらへんは無頓着なので、当人たちはあまり自覚はなかったが。
「いいえ、私こそ、突然の訪問をお許しください」
にっこりと作り笑いして紫苑は答えた。ここは我慢のしどころ。挨拶をさっさとすませれば、楓とゆっくり話をすることができる。
すると、奥から楓がひょっこりと姿を現した。
お互いに、しばらく固まった。
思えば、10年近く文だけを交わしていたのである。姿を見るのは10年ぶり。
楓の中の紫苑は、まだ幼い5歳の紫苑だったし、紫苑の中の楓は、へらへら笑う16歳の青年のままだった。
「変わった・・・・・・」
ぽつん、とふたり同時につぶやいた。
ゆっくり固まったかのように流れる時の流れを、楓の父が一気に壊した。
「馬鹿者!!お美しくなられたと言わんか!!失礼も甚だしい!!」
息子の頭をすこーん、と叩いて一喝すると、あわてて紫苑には平謝りした。
「息子の無礼をお許しください、紫苑様。この通り、田舎者でして・・・・・・」
「あ、いいえ、どうぞお気になさらずに。少し、楓さんとお話をしてもよろしいでしょうか?」
紫苑もすぐに『姫』の顔に戻って、その場を取り繕う。にっこりと微笑む紫苑に、屋敷の主人は安心したのか、家人にお茶の用意だけ指示をすると、簡単な礼だけして室を出た。
その場に残されたのは、紫苑と楓だけになった。
紫苑は急に気まずくなった。
紫苑の記憶の中の楓は、いつもへらへら笑って、紫苑の頭をくしゃくしゃっとなでてくれた。歳の離れた子供だったのに、楓はいつも紫苑や野薔薇の遊び相手になってくれた。
ところが、目の前にいる楓は、もう紫苑の知る楓ではなかった。
しっかりとした顔つき。そこににじみ出るのは朝廷での苦労や、医官としての実績や自信だった。
思えば、楓は今年で27歳なのだ。青年の頃とは大違いなのはアタリマエである。
どう話を切り出そうかと視線を泳がせ、迷っていると、突然、楓がぷっと吹き出した。
「紫苑は、変わってないな~」
それだけ言うと、楓は何かを思い出し笑いするかのようにけらけらと笑い始めた。なにがなんだかわからない紫苑は、笑い続ける楓を戸惑って見つめるだけである。
「親父と喋ってるときの紫苑、昔と変わらないな。『紫苑様』って言われるのが大嫌いなお姫様」
優しく笑いながら、楓は紫苑の頭をくしゃくしゃっとなでた。
せっかく結い上げた髪が乱れたが、紫苑はとてもうれしかった。昔の楓が戻ってきたようで。
「でも、綺麗になったな、紫苑。お妃候補って騒がれるのも無理ないな」
そう話す楓は、紫苑の知る楓そのものだった。緊張の糸が切れて、ほっとした様子で紫苑も楓に言葉を返す。
「楓兄も変わったね。なんだかもう、本当に官吏って感じだよ」
「ただの医官だよ。それもまだまだ下っ端」
手をひらひらと振りながら、彼はへらっと笑った。その笑い方が、昔と同じで、紫苑はまたひとつ、安心する。
「医官のお仕事、大変?」
「大変っていうか・・・・・・まぁ、そうだな。やっぱり典薬所は長秤一族が多くって、本家の人間があそこを牛耳ってるって感じだな。・・・けど、あそこは実力主義の場だ。いくら本家の人間でも、能力がなかったら、上にはあがれない」
自分の手のひらを見つめ、楓は声に力をこめる。
「だからこそ、みんな躍起になって勉強してる。本家の人間を超えるために、長秤一族を超えるために」
典薬所に張り詰められた緊張感。
楓は、その緊張感が嫌いではなかった。なにが何でも這い上がろうとする者たちの傍にいるのは、自分自身の刺激にもなった。
「楓兄って、後宮にも行く?」
突然の紫苑の質問に、意図が汲めなかった楓は、不思議そうに返事をした。
「あぁ、そりゃぁ、典薬所は、宮廷を取り締まる中部の管轄下だからな。後宮で仕事をすることもあるさ」
紫苑にそう返事をしながら、やっと楓は彼女の言いたいことがわかった。
「ははぁん、なるほど」
にやり、と意地悪く笑った楓を、紫苑はじろっとにらむ。
「なによ~」
「芍薬公子のことを聞きたいんだろ?」
「う」
見事に図星で、紫苑は押し黙る。こんなうろたえた様子なんかは、本当に5歳の頃と変わらないなぁ、と楓もしみじみと紫苑を眺める。
「楓兄は・・・・・・芍薬公子さまとお話しされたことあるの?」
「残念ながら、やっと薬園師になれたような俺の身分じゃ、公子様方のもとへは行けないな。医生以上の能力がないとなぁ」
医療を司る典薬所の官位は、その機関を取り締まる所長から始まり、能力別に医師、医生、薬園師、薬園生と階級が定まっている。
医官に関しては、どれだけ財力を尽くそうとも、薬園生の官位しか手に入れることができない。
「そっか・・・お会いしたことがないのね・・・・・・」
「あ、でも、芍薬公子さまなら、噂くらいなら・・・・・・」
宮廷のその規模を知らない紫苑は、がっかりと残念そうに首をたらした。そんな様子を見た楓はなんとか少しでも力になろうと、宮廷での噂のことをうっかり紫苑に話そうとしてしまった。
その噂の内容を思い出し、楓はあっと口をふさいだが、もう後の祭りである。
「噂?!噂でもいいわ、芍薬公子さまのお話を聞かせて!!」
目をきらきらさせて懇願する紫苑に、楓はますますその話ができなくなる。
「え・・・や・・・」
「芍薬公子さまのこと、少しでもいいから知りたいの。お願い」
「・・・・・・紫苑の親父さんはなにも教えてくれないのか?」
楓の当然の問いかけに、紫苑の表情が曇った。
「うん・・・。朝廷の話になると、父様の口が急に重くなるのよね・・・・・・」
無理もない、と楓は心の中で同調した。
今の朝廷の情勢を、目を輝かせながら期待を寄せる紫苑に正直に言えるはずもない。
だが、紫苑をここまで過大に期待させたのはあなたのせいでもあるんですよ、親父さん。と、楓は思わず心の中で、女月本家当主にぼやいた。
「じゃぁ、紫苑はどんな后妃になりたいの?」
話の矛先を変える意味もあり、楓は紫苑にそうたずねた。
「私?私は・・・・・・」
素直な紫苑は、そのまま楓の質問にしばらく頭をめぐらせると、しっかりとした口調で答えた。
「私は、王を支える后妃になりたいわ」
「王を?」
「そう。王様は、国を支えるのがお仕事でしょう?でも、ひとりでそのお仕事をするのはとても大変なことだと思うもの。だから、私はそんな王様を支える妃でありたいの」
国を支えるのが王の務め。
紫苑の言葉はまったくその通りだ。
だが、今の星華国ではその言葉は禁句のようになっている。いったい紫苑はどこまで知っていて言っているのやら。
「芍薬公子さまもいずれは王になられるお方。今もきっと、王になるための準備を色々されているに違いないわ」
「・・・・・・まぁ、よく代役で玉座には座るみたいだけどな・・・・・・」
「代役で?」
「今上陛下は、御身体が強くないんだ。だから、芍薬公子がよく代役を務めている」
その病弱な王の治療をするのが、楓の所属する典薬所の仕事だ。おのずと、現王のことや、その公子たちの話は耳に入ってくる。
「まぁ、今上陛下は具合が悪くていらっしゃるの?王位継承されていらっしゃらない芍薬さまが代役をお務めされるなんて、とても信頼が厚いのね」
どこまでも前向きにとる紫苑に、楓はどうにも引き返せないようなあやまちを犯している気分になってきた。
「信頼が厚いって言うか・・・・・・まぁ、誰でもいいっていうか・・・」
「王様が誰でもいいなんてことはないわ。玉座に座るには、それに認められるだけの資格が必要だわ。そうでしょう?」
目下、玉座に座るに必要なのは血筋くらいである。
朝廷に出仕するのが11貴族でなければいけないのとそう変わらない。
だが、紫苑はどうやらそうとは思っていないらしい。臣下に認められ、信頼されているからこそ、玉座にいるのだと信じているらしい。
そろそろ紫苑の誤解も解かないと、いずれはそんな話をふった楓が恨まれかねない。
「紫苑、その噂を教えてあげるよ。よく聞いて」
「えぇ」
急に真剣な顔つきになった楓に、紫苑も居住まいを正して楓の次の言葉を待った。
その表情には大きな期待が宿されている。
ため息をひとつついたあと、楓は口を開いた。
「星華国27代国王陛下、獅 芙蓉さまは、即位されてから26年間政事の表舞台にたたれることなく、後宮でひきこもりがち。後宮には正妃、双貴妃さまの他に12人の妾妃を囲い、日々彼女たちと自堕落な日々を送っている」
楓の言葉に、紫苑の顔がみるみる青ざめていく。
「それは・・・・・・本当なの・・・・・・?」
小さく、つぶやくように震える声で紫苑が確かめる。
そんな紫苑の様子を見て、楓はむしろ気の毒に思う。
よき后妃となるためにありとあらゆる教養を身につけさせられたというのに、肝心の宮廷内の現状についてすべて完全に隠されてしまっていたのである。
紫苑としては、様々な理想が膨らんでしまうのも無理はない。
「26年間、今上陛下が政らしい政をされていないのは本当だよ。紫苑の親父さんが、紫苑に今まで宮廷のことを何も言わなかったのは、言えなかったからだよ。親父さんの気持ちも汲んでやって」
震える手で、紫苑がお茶を飲む。かたかたと器が震えているのが目に見えてわかる。心の動揺が隠せないでいるのが。
楓も、紫苑が気持ちの整理をつかせるまで、おとなしくじっと待った。
「26年も政を・・・・・・。・・・それを知らなかったのは私だけなの・・・・・・?」
「少なくても、秋星州の民たちは知っている。年々悪化する王政に、みんなが辟易している」
「王が不在で、どうやって今まで政務を?」
朝廷内の官位については、紫苑も学んでいるはずだ。王が病気などで一時的に不在の場合、どの官位が代理としてその権力を発揮させるのかを。
だが、彼女の思考回路は今、断絶されていて、楓にすがるように聞くしかない。
「執政官が行っている。26年前の今上陛下即位の折、ともにその官職についたのは、蠍隼 蘇芳という人物だ」
朝廷内の人事は式部が執り行う。だが、27代国王即位の折は、朝廷内が混乱していて、気付けば、蘇芳が執政官としてその職務についていた、というのは専らの噂だ。
「病弱な陛下の代理として・・・・・・芍薬公子さまが玉座に座られることもある、って楓兄はさっき言ったわよね?芍薬公子さまは、王政に参加されるご意志がおありなのよね?」
藁にもすがるような紫苑の態度に、楓は行き場をなくす。
果たして、ここまで隠されるだけ隠されてきた事実を、女月家当主の許可もとらずに、べらべらと喋り続けていいのだろうか。
だが、後宮へ入内するなら、おのずといつか知れる。
他のお妃候補の姫君たちだって、この事実は知っているはずだ。
紫苑は、頭がいい。きちんと事実を知った上で、対策をたてるほうが彼女の救いになるはずだ。
楓は、一呼吸したあと、首を横に振った。
「いいや。父君である陛下を見てお育ちになった公子たちが、王政に興味を持つはずがないだろう?」
今上陛下には3人の公子。第1公子、第2公子は共に今上陛下同様、王政にあまり興味があるような様子ではないと聞く。
正妃の御子である第3公子については、あまり噂を聞きつけない。『元気な御子』という代名詞以外は。
ふと、視線をあげて、紫苑を見る。
視線をあちらこちらに泳がせながら、すでに空になっているであろうお茶をすすっている。
正直、気の毒だったとは楓も思っている。
今まで信じていたもの、理想としていたものが根底から覆されたのだ。
だが、知らなくてはならなかったとも思っている。
乱れ、腐り始めている宮廷のその中央に、紫苑は入り込もうとしているのだから。
芍薬公子が王となる日がいつかはわからない。だが、どの公子が王になろうと、御世が変わることはないだろう、と朝廷内だけでなく、国中の民が思っている。
民の心はすでに、王から離れてしまっている。
秋星州も学問の州でありながら、その知識を使う場所もなく、むなしく一生を終える人々を無力に眺めるしかできないでいる。
国のため、王のために尽力を尽くす場も与えられず、ならば、何のために知識を得るのか。
秋星州の人々にも迷いが生じている。
そしてこの愁紅に時折現れる山賊もまた、乱世を思わせる象徴となり、国を憂い、王を嘆く者たちが増える一方だった。
楓もまた、朝廷へ出仕し、感じるものは多くある。古参の臣下たちのなかにも、蘇芳のいいように操られている王に、呆れとも諦めともつかぬため息をもらし、はたまた怒り狂う者たちもいる。
なぜ、王はいつまでも表舞台に立とうとされないのか。
先王陛下の御世はここまでではなかったはず。時折古株のじいさまたちから聞く先王陛下の御世を聞いても、今とは大違いである。
たしかに、若くして即位された今上陛下が臣下たちを頼ったのはわかる。だが、こうも忽然と表舞台から姿を消そうとするものだろうか。
『花』にあふれたという、先王陛下時代。
今、今上陛下の『花』を受けたものはどれだけいるのだろうか。
「紫苑」
楓がそっと呼びかけると、彼女は視線を楓に戻した。
「紫苑、君が支えるべき公子がいるその場所は、今、多くの民たちが見放している場だ。見放し、けれど恨み、嘆き憂いている場だ。そこへ入内しに行くんだ。覚悟がいるよ」
今まで、決して誰一人紫苑に言うことのなかった言葉。
入内するための、『覚悟』。
民に恨まれる『覚悟』。
安穏とした妃の生活を夢見ていた紫苑には、晴天の霹靂だった。
言葉をなくした紫苑を見ながら、楓は思う。
妃となる資格があるか審査する海燈への出立まであとわずか。
それまでに紫苑がどういう決断をくだすかで、彼女の未来が決まる。
文官を目指しながら医官として務める長秤 楓。
その楓からの忠告に、今は完全に夢を打ち砕かれた女月 紫苑が、妃候補として海燈に向かうのは、ここから1月後の話である。