一章 始まりの宴 六話
6、水陽・朝廷
春と秋は、朝廷の中で大きな人事異動が行われる季節だった。
それはどこかの貴族の初出仕だったり、退官であったり、ともすれば王位継承が行われることもあった。
婚儀もこのどちらかの季節に行われた。
夏の真っ盛りに、2種類の文が現王 芙蓉のもとに届いた。
1つは、春星州から羊桜家の3男が初出仕してくるとの内容だった。
そして、もう1つは、次期后妃となる姫たちの入内のための審査試験を海燈で行うという知らせだった。
どちらも芙蓉には興味がなく、どちらの文も目を通すと、そこらへんに投げ捨てた。
それを苦笑しながら拾う者がいた。
第1公子である芍薬だった。
「ひどいですね、父上。わたしの妃には興味がございませんか?」
「くだらんな。正妃など、ただの形だけではないか。おまえとて、他に妾妃となる者たちがいるのだろう?」
「もしも王位を継がせていただけるのなら、その子孫を繋いでいかないといけませんからね」
文に目を通し始めた芍薬を横目で見ながら、芙蓉はもう一度鼻で笑った。
「王位を継ぐ気があるのか?」
「もし、正妃の御子である風蘭にそれをお譲りにならないのならば」
26代目国王までは、すべて何番目の公子であろうとも、正妃の公子が王となった。
妾妃の公子である芙蓉が王となったのは必然的に、である。
「風蘭か・・・・・・。桔梗がなにを吹き込んだか、すっかり文官気取りだ」
「双貴妃さまは聡明な方です。たとえ、父上の『形だけ』の正妃であったとしても、立派なお方だと思いますよ。あの方こそ後宮をまとめあげる貴妃たるお方です」
芍薬の言葉に、芙蓉はぽつりと反論した。
「桔梗は・・・・・・そうではない」
だが、王の小さな小さなつぶやきは芍薬の耳には届かなかった。
「風蘭に王位を継がせる気はない。本人もそのつもりだろう。王位は第1公子である芍薬、おまえに譲るだろう。昔から宣言している通りに」
妾妃の公子であった芙蓉が、妾妃の公子を王に推してなにが悪い。
いつだったか、芙蓉が臣下にそんな意味のことを言ったら、たちまち話が広がり、おのずと第1公子 芍薬が次期王として任命されたこととなった。
たしか、そのときはそんなつもりで芙蓉は言ったわけではなかったのだが。
けれど、今更それを撤回するのも面倒だったし、撤回する理由もなかった。
芍薬を次期王にすることとしても、正妃の桔梗もなにも言わなかったし、風蘭も別段反論はないようだった。
「もはやいつでもおまえに王位を譲ってもいいんだがな」
自嘲気味に芙蓉はつぶやく。
「だが、まだ余は退くわけにはいかぬ。・・・・・・まだ、な」
『花』を下賜したあの者は、まだ芙蓉を信じると言っていた。ならば、その『花』を渡した者としては、裏切るわけにもいくまい。
と、突然胸が息苦しくなり、芙蓉は激しく咳き込んだ。
「父上?!いかがされました?!」
血相変えた芍薬の叫びに、周りにいた者たちが医官を呼びに行ったり、薬湯を持ってきたりとあわただしく動き始めた。
「大丈夫だ・・・・・・大事ない・・・」
弱々しく青い顔で芙蓉は芍薬の手を振り払った。
「今日はもう後宮で休む。朝議には芍薬、おまえが行け」
そう言い残して、芙蓉は支えられながら執務室から出て行った。
身体の弱い、現王 芙蓉。
政に興味もなく、後宮に引きこもったままの27代国王。
次期王と言われている芍薬も今年で21。
王政に興味がないのなら、王位を継いだ芙蓉の年齢を思えば、それを譲るには芍薬は充分な年齢だった。けれど、まだ王位を譲れないと言った父。
飾りの玉座にこだわるその理由はなんだろうか。
『飾りの玉座』に座ったまま、朝議の話はまったく耳を貸さずに、芍薬はぼんやりと考えていた。臣下たちも特にそんな様子の彼を諌めたりはしない。
もはや、王の意見など、誰も求めてはいないのだ。
26年間、王などいないも同然で朝議は進んできた。今更、なにも変わることはない。
すべての決定権は、執政官長の蠍隼 蘇芳にあった。蘇芳が是とした書類に判を押すのが王の仕事だった。
父が今までそうしてきたように、芍薬もそうしている。
いらぬ口ははさまないほうがいい。それを芍薬は直感で感じ取っていた。
「・・・・・・では、以上をもって、本日の朝議を終了させていただく」
蘇芳のその言葉で、はっと芍薬は我に返った。
王にすら発言権のないこの朝議に、ましてや公子である芍薬に、蘇芳の言葉に是否も言う立場にない。
芍薬は立ち上がり、終わりの合図だけしようと玉座の腕に手を置いたそのとき。
「お待ちください」
遠くから、聞き覚えのある声が聞こえた。
「もう1つ、審議していただきたい議案がございます」
声の主が芍薬の目の前に現れたとき、思わず彼は声をあげそうになった。だが息を飲み、小さな声でつぶやいた。
「風蘭・・・・・・」
一枚の書類と共に姿を現したのは、官服に身を包んだ風蘭だった。
風蘭も驚いていた。てっきり、今日の朝議には父が玉座に座ると思ったら、代理に兄が座っているではないか。父の身になにかあったのだろうか。
けれど、そんなことを悠長に考えている場合ではなかった。
突然姿を現した第3公子に、臣下たちはみなぎょっとした顔を向けている。虚を突いた今が絶好の機会だ。
「ここ最近、民部での資金の動きに不審なものがございます」
風蘭の言葉に、さっと民部長官、霜射に全員の視線が行く。玉座の隣に立つ執政官、蘇芳が先を促すように視線を風蘭に送る。だが、風蘭はあくまで蘇芳にではなく、玉座の兄に向かって話し続ける。
「出所の不明な資金の流用が多額にわたっています。また、最も考慮すべきはこの項目」
とん、と風蘭が書類のある部分を指で叩いた。
「この項目は・・・・・・」
「それは紛い物です!!!」
言葉を続けようとした風蘭に被せて、矢のように民部長官の叫びが飛んできた。
「風蘭公子が持つその書類は紛い物です!!!それは民部の作成した書類ではありません」
「なんだと?!」
脂汗をおおいにたらしながらも、必死にそう弁解する民部長官を、風蘭は睨み付ける。
これは絶対に民部のものだ。民部から失敬したものなのだから、間違いない。だが、勝手に失敬したことをたしかにこの場でおおっぴらに言うこともできない。
「な、ならば、今から民部室へ立ち入り、ただちに捜査すべきです。民部の財政管理に疑いがあるのは間違いありません」
「それは、風蘭公子の一存ですか」
その一言に、まるで一筋の雫をたらしたかのように、しん、とあたりが静まる。波紋のように。
執政官長 蠍隼 蘇芳の言葉に、誰も何も言わなくなる。哀れなほど取り乱した民部長官もその場で固まったままだ。
「風蘭公子、今一度、問います。民部の財政管理に不審ありとのこと。それは、あなたひとりの一存ですか。ここは朝議の場。いくら公子といえど、あなたひとりの一存では、動かせるものなどなにもありませんよ」
それは、同じ公子である芍薬にも言われているようだった。
それは紛れもない事実であるがゆえに、誰も何も言えなかった。
風蘭も。
「・・・・・・わたしひとりの一存です・・・」
手に持った書類をきつく握り締め、風蘭はそれだけ言った。
「そうですか、あなたひとりが、民部に不審を抱いていると。他に、どなたかいらっしゃいますか」
蘇芳の言葉に、次々とみなが視線をはずしていく。さらに、その視線は氷のように冷たく、風蘭に刺さっていく。
まるで、異端児を見るかのように。
それを玉座から見下ろしていた芍薬は、分かった気がした。
父である現王が26年もの間、なぜ政の表舞台に立たなかったのか。
「それでは、話になりませんね」
あざ笑うかのようなため息とともに、蘇芳が話を切り上げようとした。だが、風蘭はここであきらめる気にはなれなかった。
このまま黙って引き下がっては、何のために文官として朝議に紛れたのかわからなくなる。
「ですが、疑わしいのは事実です。即刻立ち入り、審議をしなおすべき・・・」
「獅 風蘭!!」
息巻く風蘭を律したのは、他でもない、王の代理として玉座に座っていた兄だった。
「獅 風蘭、朝議を乱すような発言は控えよ」
だが、風蘭は兄の言葉にひるむどころか、挑むような目を向けた。
そして、『臣下』として『王』に向ける詭拝の礼を組みながら、兄を見上げて言葉を続ける。
「朝議を乱したつもりはございません。朝廷の律を正すがための提案にすぎません。疑うべきところは疑い、不審な点は調べ、排除すべきかと思われますが」
「風蘭公子」
またしても、風蘭に呼びかけたのは、玉座の隣に王のごとく立ち尽くす蘇芳。
「風蘭公子、政に興味をもたれることは大変感心なこと。ですが、朝議は遊び場ではございませぬ。半端な気持ちで朝議に混乱を落とさないでいただきたい」
「蠍隼執政官長、わたしはあなたとは話していない。今は、王代理である芍薬公子と話をしているのです」
「そうですか。・・・では、芍薬公子、あなたのお考えをお教えくださいませ」
反発した風蘭の言葉に、明らかに気を悪くした蘇芳が、芍薬に視線を向ける。同時に、朝議の場にいる全員の視線も芍薬に向かった。
こんなことは初めてだった。
風蘭も、期待の面持ちで兄を見上げる。今、この場で兄が「民部を立ち入り捜査する」と言えば、蘇芳がなんと言おうと強行できる。
だが、芍薬の言葉は、風蘭の期待を大いに裏切った。
「獅 風蘭、そなたひとりの一存を聞き入れるわけにはいかぬ。即刻この場から立ち去れ」
朝議の室から乱暴に飛び出てきた風蘭を、室の外で待ち構えていた連翹はあわてて追いかけた。
「坊ちゃん、どうされました?!」
走り回る風蘭の腕をやっとの思いで掴み、連翹が問いかけると、風蘭は乱暴にそれを振り払って叫んだ。
「なぜ、こんなことになるんだ!!」
拳を強く握って、風蘭は叫ぶ。今にも泣き出しそうなその様子に、連翹は彼の『思いつき』が失敗したことを悟った。それも、こっぴどくやられたに違いない。
「民部が怪しいことは明らかなんだ!!なのに、俺一人だけが騒ぐのなら、民部を調べることもしないと言う!!朝廷は遊び場じゃないだって?!そんなことわかってる!!」
壁に怒り任せに拳を叩きつけながら、風蘭は誰ともなしに叫んでいる。連翹はそれをじっと見守るだけだ。
「なぜみんな見てみぬふりなんだ?!そんなに蘇芳のやつが怖いのか?!芍薬兄上まで蘇芳の言いなりになって・・・・・・!!!」
「芍薬さまが朝議においでだったんですか?」
それまでじっと聞いているだけだった連翹が、口をはさんだ。それで風蘭は少し冷静を取り戻したようだ。
「あ?あぁ。居心地悪そうに、蘇芳の隣で玉座に座っていた。・・・・・・父上はどうされたのだろう?」
病弱な父の身をふと案じたが、だがそれ以上にやはりふつふつと先ほどの怒りが再燃する。
「俺は、父上や芍薬兄上のように、蘇芳の言いなりになんかならない!!民部の不正を絶対に暴いてやる!!」
「けれど、坊ちゃん。坊ちゃん一人の意見ではどうすることもできないと朝議で言われたのでしょう?どうするのです?」
連翹の忠告に、むしろ風蘭は子供のようににやり、とうれしそうに笑った。
「父上に願い出たのは、『朝議に出たい』ではなく、『文官として朝廷に行きたい』だ」
ぐっと拳を天井に掲げ、風蘭は高々と宣言した。
「俺は、文官として味方を見つけ、絶対に民部の悪事を暴いてやる!!!」
こうなってくると、もはや風蘭と蘇芳の意地の張り合いにも見える。
風蘭も、当初のちょっとした民部の不正を指摘する予定から、なんとも、民部全体の不正を暴こうと躍起になり始めた。
「坊ちゃん、ちょっと落ち着いて・・・・・・」
「連翹!!」
たしなめる連翹をきっとにらみつけて、風蘭はぴしゃりと言い放った。
「連翹、俺はこれから文官として朝廷で働くんだ。『坊ちゃん』なんて呼び方は許さないぞ。・・・だいたい、なんでおまえまで朝廷にいるんだよ」
呆れたようにつぶやく風蘭に、連翹はすまして答えた。
「兵部の双大将に特別に計らっていただきました。風蘭公子をお守りするため、といえば、あっさりと容認してくださいましたよ」
言葉の節々に、どうにも腹黒いものを感じなくも無い。風蘭はじとぉっと連翹を見るが、彼は平然としている。
「で?おまえはどこの文官なんだ?」
「いえ、武官です。・・・・・・正確には武官でもないですね。官職にはさすがにつけません。衞人として朝廷内を動き回れるようにしていただきました」
今まで後宮内でうろうろしていた風蘭に付くには、後宮を取り仕切る桔梗の推薦があれば、『風蘭付きの護衛』として後宮内を歩くことを許されていた。
だが、朝廷は違う。
11貴族たち自らの一族の誇りのために、その誇りを見せるがためにある場。
11貴族でもない連翹が、ふらふらと出歩ける場ではない。
けれど、文官として朝廷内を動き回る風蘭を後宮からじっと眺めているなどできようはずもない。なにより、桔梗にも風蘭をよく見ておけと固く言われている。
そこで、連翹は、桔梗の実家、双家が大将を務める兵部に足を運んだ。兵部長官兼大将を務める双 縷紅は、連翹の頼みに二つ返事で了承した。
軍部を司る兵部の頂点にいる縷紅は、自由奔放な風蘭も、それをたしなめながらも付き合う連翹も気に入っていた。なにより、連翹に関しては、桔梗の推薦もあって特に目をかけている。
桔梗が連翹を拾ったときの事情もよく知っている。
そして、連翹がキキョウの剣を持っていることも。
だから、縷紅は連翹が朝廷内をある程度自由に動けるようにしてほしい、と言って来たとき、喜んでその策を練った。
そして、宮廷内を見回る衛人という役職を連翹に特別に与えたのだった。
「双大将には、本当に頭があがりません」
ここに桔梗につれられてから、連翹に武術の訓練をつけてくれたのも縷紅だった。兵部や軍の中でさえ、大将直々に指南を受けられる武官は多くは無い。
「まぁ、官職は11貴族が務めるからな。たしかに、衛人なら連翹でも怪しくはないな。・・・・・・だけど」
「わかっています。『坊ちゃん』なんて朝廷内では申し上げませんよ、若君」
久しぶりに連翹に『若君』と呼ばれ、風蘭もどきりとする。そういえば、いつから連翹は自分のことを『若君』から『坊ちゃん』などとふざけて呼ぶようになっただろうか。
「まぁ・・・・・・それならいいけど・・・」
風蘭は肩をすくめて、官服についたほこりを払った。怒りに任せて走り回ったせいで、あちこちにほこりがついてしまった。
思えば、最近の朝廷も後宮も、どうにも掃除が行き渡っていない。
「とりあえず、今日のところは失敗だ。次の作戦を練り直す」
きびすを返して歩き始めた風蘭の背中に連翹が問いかける。
「どちらへ行かれるのです?」
「後宮へ戻る。父上の容態も気になるしな。おまえはどうする、連翹?」
「もちろん、お供しますよ、坊ちゃん」
にっこり笑って風蘭の横を歩き始めた護衛に、風蘭はじろっとにらみつける。
「その呼び方はしないんじゃないのか?」
「文官として働く方にはしない、と申し上げただけですよ」
すまして先を歩き始めた連翹を、風蘭は後ろから蹴り飛ばしたくなった。
「いつか、絶対おまえをぎゃふんと言わせてやる」
「それは、楽しみにしてますよ」
子供のようにころころと表情を変える主の反応を楽しみながら、連翹は答えた。
風蘭が文官として、連翹が衛人として朝廷内を動き回る。
それは、言ってしまえば風蘭のただの思い付きだった。民部長官をこらしめるためだけの。
けれど、そのちょっとした思い付きが、風蘭と連翹の運命を大きく変えてしまう。